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グリコ・森永事件―日本中を震撼させた脅迫状の山と突然消えた犯人

集英社オンライン / 2022年9月16日 18時1分

関西で、安倍元首相が銃撃されるという大事件が起こりました。一連の報道で、旧統一教会のことを「特定の宗教団体」と報道し続けていた不自然さは、マスコミ独自の配慮だったのでしょうか。今一度、様々な検証が必要だと感じました。大事件が起こるたびに、マスコミ自身も検証や反省、今後の対策をするべきだと思いますが、日本犯罪史に残る未解決事件――グリコ・森永事件についても同じことが言えるのではないでしょうか。

「かい人21面相」からの脅迫状

推理小説でも描けないほどのドラマの連続だった事件が、約四十年前の関西で起こりました。いまや名前だけは知っているけれど、その内容は詳しく知らないという方も多いのではないでしょうか。「グリコ・森永事件」はそれほど過去の出来事になってしまいました。



1984年(昭和59年)3月18日夜、兵庫県西宮市の江崎グリコ社長江崎勝久氏の自宅に二人組の男が侵入。その時、子供たちと入浴中だった江崎社長を銃で脅し、全裸のまま誘拐するという大胆な犯行がこの事件の幕開けとなりました。

翌日、身代金として現金10億円と金塊百キロを要求する脅迫状が届くと、その大胆な手口や莫大な身代金の額が、まるで映画の世界のように感じられたものでした。グリコはそれらを用意しましたが、結局犯人は現れません。報道編集者の駆け出しだった私が、初めて直面した大事件でした。

誘拐から3日後、江崎社長は大阪府摂津市の水防倉庫から自力で抜け出し、無事に保護されます。誰もがこれでひとまずはホッとしたと思いますが、本当の事件はここからでした。「かい人21面相」と名乗る犯人から、江崎社長宅や江崎グリコ本社に脅迫状が次々と届くようになるのです。

グリコ・森永事件において、現金受け渡しの過程で2度目撃された「キツネ目の男」。犯人グループの一員と目された男である

しかし、いざ現金の受け渡しとなると、受け渡し場所を二転三転させるだけで一向に姿を現しません。どこか遠くからじっと見つめているような不気味さを私たちは感じていました。そして江崎グリコだけではなく丸大食品、森永製菓、ハウス食品、不二家などの企業に対しても、同様に商品に青酸カリを混入させるという脅し文句で次々と脅迫しだすようになります。

『森永の どあほどもは
テープと 青さんソーダの かたまりと 青さんいりの かし
おくったのに 信じへんで けいさつえ とどけおった
わしらに さからいおったから 森永つぶしたる
青さんいりの かし 50こ よおい してある』
(1984年10月7日投函分、一部抜出)

この脅迫文が届くと同時に、「どくいり きけん」と書かれたメモが貼られた森永製品が大阪、兵庫、京都、愛知で次々と見つかります。それらには本当に青酸ソーダが混入されていたのでした。ついに毒入り菓子が発見されたのです。

「ほんまに出たか…」

それまでは誰もが脅し文句だけだとどこか思い込んでいたと思います。それだけに本当に青酸入り菓子が置かれていたことに衝撃を受けました。これにより、森永製菓の製品は市場から消えることになりました。「これからどうなっていくのだろうか」とエスカレートし続ける事態に戸惑いながら放送に追われていた当時でした。

大量の「脅迫状」

「けいさつのあほどもえ」などと、センセーショナルな挑戦状や脅迫状はとどまることを知らず、結局企業や警察、マスコミに届いたものは147通もの数に上りました。関西弁で書かれた脅迫状の内容は徹底的に警察、マスコミ、食品メーカーを愚弄するものでした。

『かい人21面相ファンクラブの みなさん え(中略)
新春けいさつかるた

あ あほあほと ゆわれてためいき おまわりさん
い いいわけは まかしといてと 1課長
う うろうろと 1日まわって なにもなし
え ええてんき きょうはひるねや ローラーで
お おそろしい かい人のゆめ みとおない
か からすにも あほうあほうと ばかにされ』
(1985年1月25日投函分一部抜出)

当時の私は、挑戦状や脅迫状が届くたびに、そのコピーをカメラマンに一行一行接写してもらい、大慌てで編集していました。「どの言葉がいるんですかーーー!」と編集室から報道デスクに若手の私は叫んでいたのです。

これほど大量の文章が届くと、次第にどこに重要な情報が隠されているのかわからなくなってきます。文面通りに受け取っていいものか、実は重要ではないと思われている部分に何か隠されているのではないか、といった雰囲気が私たちの中に出てきていたように思います。

警察もマスコミも、犯人の言葉一つひとつに、面白いように振り回されていたのです。それも犯人の巧妙な意図だったのかも知れません。

模倣犯罪の犯人は全員逮捕も

江崎社長誘拐事件から約一年半、1985年8月12日に犯人グループは突然、「くいもんの 会社いびるの もお やめや」という終結宣言を出します(8月11日投函)。

脅迫されていた会社の一つであったハウス食品工業の浦上郁夫社長は、この終結宣言を受けて、その日のうちに同社創業者である父親の墓前に報告するため、大阪行きの航空機に搭乗します。それがあの御巣鷹山に墜落した日本航空123便だったのです。この機に飛び乗った浦上社長は墜落事故で亡くなりました。

その後、犯人の動きはピタリと無くなります。この事件の捜査に関わった捜査員は、延べ130万1千人、捜査対象者は12万5千人と言われています。2000年にはすべての事件の時効が成立し、警察庁広域重要指定事件では初の未解決事件となりました。

この一年半の間に繰り広げられた犯人グループと警察との駆け引きは、まさにドラマティックとしか表現できないものでした。取引現場の細い道で、犯人の車両と警察車両がすれ違っていたとか、キツネ目の男との息詰まる追跡劇、ついに犯人を確保したかと思えば、身代わりにされた一般人だったとか……。

興味のある方は、ぜひこの事件をまとめた本を読んでみてください。最近になってもさまざまな立場の方々が出版されています(「キツネ目 グリコ森永事件全真相」岩瀬達哉[講談社]、「未解決事件 グリコ・森永事件捜査員300人の証言」NHKスペシャル取材班[新潮社]など)。

そして実は、このグリコ・森永事件が起こると同時に、模倣する犯罪が多発していたのです。30件ほどの模倣犯罪が起きましたが、その全ての犯人が逮捕されています。いかにグリコ・森永事件の真犯人が一筋縄ではいかない知能犯だったのかがわかります。

犯人の本当の狙いは何だったのか

犯人グループはなぜ突然、姿を消したのか。現金など、何一つ奪取できていないままだったのに。後に、犯人グループが大手菓子メーカーを脅迫していたのは、見せしめのためだけで、他の食品メーカーと水面下で取引をしていたのではないかとか、株価の乱高下を利用して株取引で儲けたのではないかとも言われました。確かに派手なパフォーマンスのわりに、身代金に対する執着が薄かったように思われます。

大手菓子メーカーに対する脅迫は、マスコミが大々的に報道してくれる。それを見ている他企業は、同じ目にあいたくないため水面下での取引に応じるようになりやすい。また、自分たちの動きひとつで株価は乱高下するわけだから、そこで儲けることはたやすいようにも思えます。あの大手菓子メーカーへの脅迫は、単なる「PR」に過ぎなかったのでしょうか。

結局、警察もマスコミも、「企業脅迫」という表の顔にこだわり過ぎて、本質を見落としていたのかも知れません。サッカーでボールのあるところに選手が全員集まって入り乱れ、そこに観客の耳目も集まる。しかし本当の犯罪は、ボールの無い隅っこで行われていたのかもしれません。

これほどの知能犯はなかなか出てこないでしょうが、今後同様のことが起こった場合はこの事件を教訓としなければいけません。人の注目が集まらない所での変化など、あらゆる可能性を考え調べることが必要なのではないかと思わされた事件でした。

事件の本質は、前述した数々の書籍にお任せいたしまして、私は編集の現場でのお話をさせていただきます。

「ライブラリー」の重要性

このグリコ・森永事件は、私に「即時に使えるライブラリーテープ作成」というアイデアを与えてくれました。

当時、取材カメラはフィルムからビデオテープに移行して間もない頃でした。初期のビデオテープは4分の3インチUマチックと言われるお弁当箱のような大きなビデオテープでした。このビデオテープになって初めて直面した大事件がこのグリコ・森永事件でした。

一年半にわたって警察、マスコミが、犯人にいいように振り回され続けた事件でしたから、大量のビデオテープが溜まっていきます。私たちは編集室に山積みにされていくテープを初めて見たのでした。

まだまだ若手の私が、そのときに考えたことが、「素材(ラッシュ)の整理」でした。この事件では、脅迫状だけでも147通もの量があり、その文面を一行一行カメラで接写しています。そして、現金の受け渡し場所も犯人があらゆる場所に変更し続けたため、多くの映像があります。

その膨大な量の素材の中から的確な映像を即座に見つけ出さなくてはいけません。映像資料の管理は編集の責任です。きちんと整理しておかないと一番困るのは私たち編集者なのです。

そこでそれら膨大なテープを日付順に一本のテープにOKテイクだけダビングしていき、手書きの一覧表を作っていったのです。挑戦状などは縮小コピーしたものを張り付けた台帳を作成し、まとめました。

当時のアナログビデオでは、ダビングすると画質が落ちるのですが、日々展開が読めない事件だっただけに、過去の素材を即座に出せるほうが圧倒的に価値があると思ったのです。

これによって、過去の素材が即座に出せるようになり、テープの山から大慌てで探し出すということが無くなりました。この私の作ったこのライブラリーは大いに役立ち、そのテープをさらにダビングして複数作り、編集者全員が使えるようにしました。このノウハウは、約十年後に起きた阪神淡路大震災など、大災害や大事件のときに大いに役立ったのでした。

これらの経験から、「映像編集は準備が7割、本番が3割」ということがわかるようになり、それは仕事全般に通じることだと思えるようになりました。

大事件、大事故によって多くのことを学びました。それは編集のテクニカルなこととは別に、「世の中の見方」という、生きていく上でとても大切なこともまた教わったのでした。

文/宮村浩高 写真/共同通信社

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