1. トップ
  2. 新着ニュース
  3. 経済
  4. ビジネス

フジテレビ、スポーツ番組の新たな顔! 佐久間みなみがアナウンサーを目指すまで

集英社オンライン / 2022年9月18日 15時1分

フジテレビ入社3年目で『S-PARK』メインキャスターに就任した佐久間みなみ。青春時代を過ごしたアメリカでの生活、アナウンサーを目指した理由など、普段は聞けないことをたくさん聞いてみた。

南とみなみ

――いきなりですが、名前のみなみは漫画『タッチ』のヒロイン、浅倉南に由来するとお聞きしたのですが……本当ですか?

はい、本当です……というか、母からそう聞いています(笑)。字画を調べて平仮名のみなみにしたと。私自身もやわらかい感じのある平仮名のみなみの方が好きなので、すごく気に入っています。

――ということは、小学生の時新体操を始められたのもその影響ですか?

自分からやりたい!と言い出した記憶はないので、それもきっと母ですね(笑)。ただ、漫画の南ちゃんは新体操界期待の新星として注目を浴びますが、私は才能もなかったし、小学生の6年間でやめてしまったので、南ちゃんとはレベルが違います(笑)。



――でも『S-PARK』で披露したリボンの演技は見事でした。

そう言われると余計に恥ずかしいです。10年ぶりくらいになるのかな? 本当に久しぶりにリボンを持ったんですが……これがまた見事なくらい出来なくて。全然リボンが回らない。これくらいは出来るだろうと思っていた半分も体が動かなくて、最後は腕が上がらなくなってしまいました。

――この後リボン以外のボールやフープ、クラブに挑戦する予定は?

ないです、ないです! 怖すぎてとても無理です。

――新体操以外にもやっていたスポーツは?

小学校4年の時にフィギュアスケートを始めて、卒業後にアメリカに行ったんですがそこでも少しだけ習っていましたし、学校の友達ともよく滑っていました。

――スケートが盛んだったんですね。

私が行ったのはペンシルバニア州ピッツバーグの近くなんですが、そこでは文化としてスケートが根付いている感じでしたね。
「週末、何する?」「スケートに行こうよ」「行こう! 行こう!!」
という会話がそこら中で交わされていて。大人から子どもまで、みんながスケートを楽しんでいる街でした。

――フィギュアスケートができる佐久間さんはヒーローだった?

そんなことはないです(笑)。競技の世界で頑張ろうという気持ちはなく、ただただ趣味でやっていたので、そんなに上手でもないですし、皆と遊んで楽しんでいました。

――今『S-PARK』で取材されているアスリートのみなさんも、きっとそういう道を辿ってこられたんでしょうね。

世界を舞台に戦っていらっしゃるアスリートの方とはレベルが違いすぎて…銀河系の端と端くらいの差がありますが、最初の一歩……できないことを一生懸命に練習して、それが出来た瞬間の楽しさ、それを“すごい!”と褒められた時の嬉しさを味わうことができたのは、私にとっては宝物です。

青春時代を過ごしたアメリカ

――アメリカには何年くらいいらっしゃったのですか?

青春の思い出は全部アメリカで、4年間過ごしました。

――楽しかった?

小学生の時は、すごい人見知りで。いつも誰かの後ろに隠れているような子どもだったんですが、その状態でアメリカに行ったので、最初は日本に帰りたいとばかり思っていましたね。

――ちょっと想像できません(笑)。

ですよね(笑)。でも本当なんです。

――変わったきっかけは?

特別これ!というのはないのですが…周りがみんな自分の意見を主張する中、このままでは私ひとりだけ取り残されちゃうぞという恐怖心に襲われて(苦笑)。なんとかしなくちゃという。

――人見知りしている場合じゃないぞと?

そうです。最初は必死すぎて自分が変わっていることに気づかなかったのですが、ある時授業で、どんどん発言している自分を見つけて。日本にいた頃は、こんな性格ではなかったのにって(笑)。

――変わろうとして変わった!? それとも、自然に変わっていった?

両方ですね。このままではいけないとどこかで思っていて、意識して変えていったというのもありますし、周りのみんながそうだから、自分がそうなっていったという無意識の部分もあるような気がします。

――言葉の問題は?

それも大きかったですね。最初の1年くらいは、私が英語ができないのを知っているのでゆっくり話してあげようとか、こちらから話しかけてあげようとか、してくれていました。みんな、優しいので。ただ、1年が経ち、2年が過ぎる頃には、そういう気持ちもどんどん薄れていくじゃないですか。

――そう……ですね。おっしゃる通りだと思います。

それではいつまで経っても、本当の友達はできないということ。なんとかしなくちゃと思って、学校に行く前に“明日この子に会ったら、こんな質問をしよう”と思いついた質問を何個かノートに書き出して。毎日それを実践していました。

――すごく真面目ですね!

もうとにかく必死でした。必死すぎて1年目の記憶はほとんどないですから。

――話せるようになった後は、日本に帰ってきたくなかった?

それが、日本が大好きだったので、帰れると知った時は嬉しくて。このままアメリカにいたいと思ったのは、最後の最後…帰る直前になってからです。理想は、日本で仕事をして、アメリカにも家があって自由に行き来する生活ですが……今の私では難しいですね(笑)。

――振り返って、アメリカでの4年は?

とにかく濃い4年間でした。あの4年間がなかったら今の自分はいない――心の底からそう思います。人生の第1ターニングポイントでした。

音読大好き少女

――帰国後上智大学に進み、在学中は事務所に所属して活動されていましたが、アナウンサーを志望したのは?

ポイント、ポイントで、漠然とした思いはありましたが、最終的になりたい! と考えるようになったのは、就職活動を始める直前です。在学中所属していた事務所には、フリーでアナウンサーをされている先輩たちがたくさんいらして。その方々が仕事をしている姿に触れ影響を受けたというのもありましたし、そこで私がいただいた仕事も、アナウンサーのように原稿を読むものが多くて。原稿を読むのって楽しい! と思ったのがきっかけでした。

もともと、小学生の頃から、音読するのが好きな子だったので、それを職業にできたら、最高に楽しいだろうなと。

――ん!? でも、小学生の時は、人見知りというお話しでしたが…。

そこ、ツッコミます(笑)?

――はい。ぜひ聞かせてください。

嘘ではなくて、本当に人見知りで、人とのコミュニケーションを取るのは苦手だったのですが、なぜか音読だけは好きだったんです。理由を訊かれても困るんですけど……ちょっと感情を込めて読んだり、トーンを変えて読んだりするのがすごく楽しかったんですよね。

――ではアナウンサー以外にも、俳優という選択肢もあった?

言葉を話す、言葉で伝えるという意味では同じカテゴリーですが、俳優さんは自分じゃない、誰かを演じてその人としてセリフを話すのですよね。それが難しくて「自然に自分の中から出てくるような感じで話して」と言われても、それがどういうことなのかあまり分からず……(苦笑)。

――フジテレビ公式アナウンサーサイトには、趣味がギター、一人カラオケで、アナウンサーになっていなかったら?という設問には音楽を聴くことや歌うことが好きなので、歌手もしくは音楽関係の仕事に就いていたと思います、とあります。

そういう思いも……なくはなかったです。ありました。ただ音楽は、ストレス発散というか自分の趣味として好きでいたかったんです。

――ズバリお伺いします。アナウンサーになる自信はあった?

なかったです。もしも受かったら、それはすごくラッキーなことで、普通は受からないから……という気持ちで就職活動にも臨んでいました。

――では、合格です!という連絡をもらったときは?

人ってこんなにも手が震えるものなんだなぁと思いました。

――えっ!?

連絡をいただいて電話を切った途端、嬉しいのと驚いたのと、何が起こったのかわからないというのが一緒に襲ってきて、手がブルブルと震え出したんです。あんな経験は、あの時が最初で最後です。

――最初に合格を伝えたのは?

父に電話をして、「なんだかよくわからないけれど…受かったみたい」と伝えると、「嘘やろう!?」と、叫んで。続けて「本当にお前はオレの子か!? オレの子がアナウンサーの試験に受かるはずないやろう?」と言われました(笑)。

取材・文/工藤晋 撮影/石田荘一


「24年度アナウンス職」を現在募集中!
詳しくはフジテレビ採用HPをチェック!
https://www.fujitv.co.jp/recruit/

後編「もってるアナウンサー」はこちらから(9月19日13時公開予定)

フジテレビの未来の話はこちらから

この記事に関連するニュース

トピックスRSS

ランキング

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

デイリー: 参加する
ウィークリー: 参加する
マンスリー: 参加する
10秒滞在

記事にリアクションする

次の記事を探す

エラーが発生しました

ページを再読み込みして
ください