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9月30日はクミンの日。日本のスパイスカレーブームの背景にはインド独立の志士の姿が

集英社オンライン / 2022年9月30日 10時1分

9月30日はクミンの日。エジプト原産のスパイスだ。このクミンなどのスパイスをふんだんに使った「スパイスカレー」の人気は高まるばかりだが、ブームの立役者のひとりがシャンカール・ノグチさん(49)だ。インドアメリカン貿易商会の代表としてスパイスの輸入を手がけている。そして彼の祖父は、実は日本とインドの外交史に重要な役割を果たした人物だったのである。

クミンを使ったかんたんレシピ

そもそもクミンとはどんなスパイスなのか。個性的なヘアスタイルがトレードマークのシャンカールさんがレクチャーしてくれた。

「セリ科の植物で、種子の部分を使うんです。カレーの香りのメインとなるスパイスですね」

インドアメリカン貿易商会のクミン。ホールとパウダーがある


インドアメリカン貿易商会が扱うクミンの封を開けると、うっとりしてしまうような芳醇な香りが立つ。これは確かにカレーの「スパイシーさ」のキモだ。

このクミンにターメリックとコリアンダーを加えて香りをより豊かに広げ、レッドチリパウダーで辛さを調節する。それがスパイスカレーの基本だが、クミンだけでも十分にスパイシーにできる とシャンカールさんが簡単なレシピを教えてくれた。

「クミンは火を入れるとより香りが立つので、シードのまま乾煎りして叩き、塩・オリーブオイルと混ぜたらドレッシングになります」

パウダーにしたクミンも売られているが、こちらは胡椒やチリとマリネして焼けば本場インド風の味つけに。

「チーズ料理や卵焼きに少し振りかけるだけでも美味しいですよ。なにかもう一味ってときにおすすめですね」

それにクミンは味と香りがしっかりしているので、ほかの調味料が少なくてもいい。つまりは減塩にもなるという利点もあるのだ。

「誰でも簡単に使えて、ヘルシーなんです」

「いいスパイスを供給するのが仕事」と語るインドアメリカン貿易商会の3代目、シャンカール・ノグチさん

戦前の日本に集った、インド独立の志士たち

スパイスの輸入だけでなく、「東京スパイス番長」のメンバーでもあり、数々のカレーイベントを行ってきたシャンカール・ノグチさん。スパイスカレーに関する著書も多い「カレー界の有名人」だ。

そんな彼の祖父、L.R.ニグラニ氏は1930年代半ば、ジャーナリストとして日本にやってきた。

「ロイター通信や、東京放送局(NHKの前身)などのメディアで活動していたそうです」

戦前、日本のニュースを世界に発信していたニグラニ氏だが、もうひとつの顔があった。日本政府と協力して、イギリスからの独立を目指す活動家でもあったのだ。彼のような「独立の志士」が、当時の日本には集まってきていた。

その中心となったのがラース・ビハーリー・ボース氏であり、京都帝国大学(現・京都大学)に留学していたA.M.ナイル氏だ。ニグラニ氏はジャーナリストの仕事の傍ら、彼らとともに独立に向けて動いていた。

「みんなフリーダム・ファイターです」

当時の貴重な写真を、シャンカールさんが見せてくれた。自宅に飾ってあるものだという。

日本に拠点を持っていたインド独立の志士たち。中央下がラース・ビハーリー・ボース氏、右下がL.R.ニグラニ氏、下段左から2番目がA.M.ナイル氏(写真提供:シャンカール・ノグチ)

しかし、日本は敗戦。フリーダム・ファイターたちの夢も潰える。だが、1947年にインドは独立する。日本で活動していた人たちが思い描いていた形とは違ったものの、ようやくインド人は自由を勝ち得たのだ。

そして彼ら革命家はまた、異文化の伝え手でもあった。

ボース氏は来日当初、保護してくれた新宿中村屋の創業者・相馬夫妻にカレーを振る舞ったそうだ。これをきっかけに中村屋は純印度式のカレーを発売することになる。1927年のことだ。イギリス経由で伝わった小麦粉メインのものではなく、スパイスをたっぷり使った本場インド直伝のカレーだった。これが大評判となり、日本にカレー文化が広がっていった。

またナイル氏は1949年、日本初のインド料理店「ナイル・レストラン」を東京・銀座にオープン。

そしてニグラニ氏は、かの東京裁判も取材したが、1951年にジャーナリストから貿易商に転身するのだ。

「インド独立を機にひと区切りし、インドの文化を日本に伝えようと始めたんです」

インドアメリカン貿易商会を設立し、スパイスのほか、当時の日本ではまだ少なかったアチャール(インド風の漬物)やマンゴーなどインド食材の輸入を手がけた。もちろん取引先のひとつは「ナイル・レストラン」をはじめ、日本で少しずつ増え始めたインド料理店だ。ニグラニ氏は日本におけるインド食文化の黎明期を、食材の面で支えた存在なのである。

インド北西部、グジャラート州とラジャスタン州の間あたりにあるクミン畑(写真提供:シャンカール・ノグチさん)

祖父から受け継いだ家業で、スパイスの魅力を伝えたい

そしてニグラニ氏は日本人女性と結婚。孫にも恵まれた。インドと日本が混じり合う家庭でシャンカールさんは育った。

「肉じゃがや唐揚げなんかの和食のあとに、ダル(豆スープ)とチャパティ(パンの一種)が出てくるような家でしたね(笑)。それと、祖母が祖父から教わったというキャベツとじゃがいものカレーは本当に美味しかった」

やがてインドアメリカン貿易商会は、シャンカールさんの母が後を継ぐ。高度経済成長期、カレーは日本人にも広まり、インド料理店も急増し、一家の商いは順調だった。母はよくインドやシンガポールに食材の買い付けに行っていたそうだ。そして1983年、ニグラニ氏が逝去。

「子どもの頃はよく英語を教えてもらったんですが、厳しい人でしたね」

と、祖父の思い出を話すシャンカールさんが、家業を継ぐことを決意したのはアメリカに留学しているときのことだ。

「これだけ教育を受けさせてくれたし、成長させてくれましたし。そんな家族を大事にというか、一家代々の仕事として、やっぱり継がなきゃなって思ったんです」

帰国後まだ23歳の「3代目」は、レストランを営業して回った。ときには店の厨房を借りて腕を振るい、一家自慢のスパイスを使った料理をつくり「実演販売」してみせた。バブル崩壊直後で飲食業は苦しい時代だったが、それでも祖父の代から受け継いだ商品、スパイスには自信があった。

(写真提供:シャンカール・ノグチさん)

そして「30代半ばのころでしょうか」 カレー研究家の水野仁輔さんに誘われたことを機に、ユニットを組んでイベントごとにも顔を出すようになる。裏方の食材輸入業者から、表舞台へと活躍の場を広げていった。このとき本名の「野口慎一郎」だけでなく、「シャンカール・ノグチ」という名前も使うようになる。

「〝シャンカール〟は祖父が僕を呼ぶときのニックネームだったんです」

こうして「東京スパイス番長」の一員となったが、メンバーの中にはあのナイル氏の孫であり「ナイルレストラン」の3代目、ナイル善己さんもいる。ともにクラブのイベントなどにも乗り込みカレーを作るなど活動を続けているが、そこで提唱してきたのはスパイスの香り高さと味わいだ。ルーではなくスパイスを使ったカレーの美味しさを伝えたい。2013年には『東京スパイス番長のスパイスカレー』(主婦と生活社)を刊行。こうしてだんだんと日本に「スパイスカレー」という言葉が広まっていく。専門店も急増し、また個人でスパイスカレーを作ってみようという一大ムーブメントも起きた。

祖父はインド独立のために駆け、日本にスパイスをもたらし、初期インド料理界を支えた。その孫は、インド文化に日本人の発想を加えたスパイスカレーの美味しさと、つくる楽しさを伝え続けている。

「今後は、本もそうですが、スパイスにまつわるストーリーのようなものをつくっていきたいですね」

取材・文・写真/室橋裕和

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