1. トップ
  2. 新着ニュース
  3. ライフ
  4. カルチャー

イランの「反米」は、アメリカへの期待と失望から始まった

集英社オンライン / 2022年10月2日 11時1分

イランの核開発をめぐり緊張関係にあるアメリカとイラン。しかし、そもそも両国はなぜ対立し続けているのか。その背景を知るためには、イランの反米化を決定づけた1979年の「イラン革命」にいたる流れを振り返っておかなければならない。イラン近現代史を専門とする吉村慎太郎氏の『北朝鮮とイラン』(福原裕二氏との共著、集英社新書)より一部抜粋、再構成して紹介する。

大国の干渉と民族運動挫折の歴史

世界が注目した1979年革命に至る歴史的背景として注目すべきは、激烈な民族運動の展開とそれに対する大国の介入が繰り返されてきたことにある。20世紀初頭の立憲革命(1905~1911年)がその最初の事例であると言える。

当時のイランは19世紀以来、英露による二極支配に悩まされてきた。2度のロシアとの戦争に敗北し、領土割譲だけでなく、不平等条約の締結もロシアに強いられた。



また、英国との戦争にも敗れたイランは19世紀後半には、英露に鉄道・電信線の敷設、鉱山開発、銀行開設など、さまざまな利権譲渡を余儀なくされた。そうした「売国的政策」に依拠しながら、時にガージャール王朝(1796~1925年)は専制支配を行ってきた。立憲革命は、憲法制定と議会開設により祖国の危機的状況を打破しようとした民族民主主義革命として知られている。

しかし、イラン支配をめぐって競合する英露は座視していたわけではなかった。当時、オスマン帝国(1299~1922年)との関係強化を通じてイランに触手を伸ばし始めたドイツに対抗しようと、立憲革命に当初好意的だった英国が1907年協商によってロシアとの間でイランの国土を勢力範囲分割した。

その機に乗じ、ロシアの後援を得た国王率いる王党派は、反革命クーデターを実行に移した。これにより復活した専制支配はしかし、立憲派市民軍の手で、わずか1年で打倒されたものの、それで終わらなかった。

1911年にロシアはイランが採用した米国人財政顧問M・シャスターの能免を要求し、さもなければ軍事侵攻すると脅しをかけたのである。英国もそれを黙認し、イラン政府は抵抗の構えを崩さない議会を自らの手で閉鎖し、その結果立憲革命はあっけなく幕を閉じた。

それから40年後の1951年に発生した石油国有化運動も同じく大国の介入で葬り去られた。モハンマド・モサッデグ(1882~1967年)指導下の「国民戦線」(NF)を中心に展開されたその運動は、1901年の利権(1932年に新契約締結)を有するAIOC(アングロ・イラン石油会社)が長年膨大な利益を上げてきた石油資源の国有化を目指した。

その運動に対して、AIOCの大株主である英国政府は、イラン石油に対する国際的なボイコット包囲網を敷き、さらにソ連のイラン進出を恐れる米国(D・アイゼンハワー政権。1953~1961年)の協力を仰ぎ、陰謀を立案した。

1953年8月、クーデターが実行に移され、モサッデグ政府は打倒された。そこでは、CIAが用意した工作資金10万ドルで雇われた暴徒に国王支持の軍部が協力した。

表面上は、権力を強化した首相と国王との間の権力闘争が装われたが、実態は米英両国が直接関与した露骨な内政干渉であった。首相モサッデグを含む主だったNF関係者2000人以上が逮捕され、イラン石油は米系石油企業も参入した国際合弁会社によって、以後管理・支配される。

もちろん、イラン内政への大国の干渉は、決してそれらに止まらない。第一次、第二次世界大戦ともに、イランは「厳正中立」を宣言したが、前者では国土は同盟国と協商国間の戦場と化し、後者では英ソ共同進駐を受け、国民は塗炭の苦しみを経験したことも知られている。

また、前者の途中に発生した10月革命で、ロシアがイラン支配から一旦離脱すると、戦後英国は1919年(英・イ)協定を押しつけ、単独支配を目論んだ。それは、テヘラン中央政府に対峙する北部2州での革命政権の成立という深刻な政治危機をもたらした。

地政学的重要性に、20世紀に新たに加わった豊富な石油資源の存在から、イランは南下政策を採用するロシア(ソ連)と、自らの植民地支配の保持・拡大のために対抗する英国が競合し、時に協力し合う歴史のなかで、従属を強いられてきた。

そうした状況の打破を目指した民族運動も、それら大国の介入で潰された。誰も、そうしたイラン現代史の流れを否定することはできない。

独裁政権の成立と米国の登場

ところで、先述した民族運動への大国の介入が一過性のものであり、その後の事態が平穏に戻ったと考えるべきではない。介入後には独裁政権の成立が目撃されるようになるからである。

たとえば、1925年にガージャール朝を廃し、パフラヴィー王朝を興した国王レザー・シャー(1878~1944年)は以後独裁体制を構築する。必ずしも、その政変自体、英国の直接関与の結果とは言えないが、1919年英・イ協定で発生した深刻な政治危機から脱するために行われた1921年クーデターで突如台頭したことは間違いない(イランでは、そのクーデターも英国の「陰謀」と信じられている)。

そして、レザー・シャー体制下では、不平等条約の撤廃や法制度面での近代化が急がれたが、三権分立を無視した政敵の徹底排除が実施された。特に、1934年以降には、世俗化・反イスラーム政策も導入された。

こうした国王レザー・シャーはナチス・ドイツとの良好な関係を問われ、英ソ共同進駐直後に退位に追い込まれた。その後を継いでパフラヴィー王朝第2代国王に即位した息子モハンマド・レザー・シャー(以下、シャー)の場合も、大国の介入後に独裁に走った点で同様である。

そもそも、彼の即位には英国の意図が働き、当初憲法を遵守する「立憲国王」としての誓いを立てていた。しかし、先の石油国有化運動を打倒する1953年クーデターを経て、米国の支援を受けて独裁者に変貌した。

特に、このクーデターだけでなくシャー独裁成立に、米国が主要な役割を担ったことは、多くのイラン人にとって「青天の霹靂」に近いものがあった。

それには、立憲革命でタブリーズ市民軍に参加し、命を落とした米国人教師H・バスカーヴィル、財政再建に骨身を削ったシャスター、さらに第一次大戦後と第二次大戦中にイラン財務省の組織再建を担当したA・C・ミルスポーなど、それまで米国人が行ってきた活動は多くのイラン人から肯定的に評価されてきた経緯がある。米国は従前の大国とは異なる善意の第三勢力として期待されていた。

しかし、イランの人びとのこうした素朴な「米善説」は見事に裏切られた。1957年にCIAがその組織化に手を貸したSAVAK(国家情報治安機構)によって、王政に批判的な勢力や政治的自由を求める活動家に対する徹底弾圧が実施された。トゥーデ党(親ソ派共産党)、NFの後継組織やリベラルな知識人まで、広く反体制組織関係者が次々に逮捕・投獄され、また拷問を受けるようになった。

さらに、1960年代初頭に開始される「白色革命」がシャー独裁体制の強化策として導入されたが、それは米国(J・F・ケネディー政権。1961~1963年)のラテン・アメリカ向けの 「進歩のための同盟」に対応した政策として知られている。

農地改革、女性参政権、農村向けの教育部隊の創設、国営企業の民営化、森林の国有化、工業労働者への利益配分という、6項目からなるその「上からの改革」は、「白色」にシンボライズされた「穢れのなさ」と「革命」に含意された国民の支持に基づく大規模改革として、近代化への邁進を謳いあげ、シャーが「開明的な国王」であることを内外に訴える好機でもあった。

しかし、そこに民主主義というあるべき政治的な近代化が欠落していた。もろ手を挙げてその実施を賛美した米国は、いっそうイラン国民の失望を買うことになった。

イスラーム反体制運動の胎動

ところで、イスラーム宗教勢力といえば、さぞかし時代遅れの「反動的」勢力と想像されるかもしれない。だが、先に挙げた民族運動の展開に常に寄り添う重要な役割を歴史的に果たしてきたことは見落とされてはならない。

サファヴィー朝(1501~1736年)が国教に据えた「12イマーム・シーア派」の場合、スンナ派と異なり、宗教学者の政治社会的影響力は強い。18世紀以降に台頭した「オスーリー学派」の主張に沿って、イスラーム法解釈を行う最高権威(マルジャエ・タグリード=「模倣の源泉」。以下、マルジャ)の見解に、下位の宗教学者や一般信徒も倣って行動することが制度的に定着するようになったからである。

1890年に英国人投機家に譲渡されたタバコ利権を、当時マルジャであったハサン・シーラーズィーが宗教令を発し、その結果翌年に撤回に追い込んだタバコ・ボイコット運動がこの制度に基づく民族運動の成功例として知られている。その後、立憲革命、レザー・シャー独裁に反対する抗議運動、そして石油国有化運動にも、マルジャでなくとも、高位の宗教学者たちが参画し、指導力を発揮した。

話を「白色革命」に戻せば、1960年代初頭、マルジャとして多くのイラン国民から尊敬された「大アーヤトッラー」のホセイン・ボルージェルディー(1875~1961年)が死去したばかりであった。そのため、シャー政権は、先の6項目からなる「白色革命」に対して宗教勢力の反発は少ないと考えていたふしがある。

しかし、その楽観的な予想は外れた。高位の宗教学者のなかで比較的劣位にあったが、マルジャに昇格したばかりのルーホッラー・ムーサヴィー・ホメイニー(1901~1989年)が痛烈な「白色革命」批判を展開し、重大な政治社会問題に発展するのである。

ホメイニーは先述した「白色革命」に盛り込まれた女性参政権の付与とその賛否を問う国民投票(1963年1月)も、シャー独裁体制下で「民主化」を装う欺瞞的なものに過ぎないと非難した。また、シャー政権が「貧者の労働から膨大な富を蓄える……寄生虫」であるだけでなく、反イスラームの米国・イスラエルの「傀儡」であるとも言い放った。

こうした辛辣な批判を行うホメイニー、それに同調する宗教学者や説教師の大量逮捕がその後実施された。これによって、「ホルダード月15日蜂起」(1963年6月5日)として知られる大規模な反シャー運動も発生した。これにも容赦ない弾圧が加えられ、わずか1日で5000人以上の死傷者が出る惨事も発生したと言われる。

しかし、シャー政権によるこうした弾圧で、事態は終息しなかった。翌年10月、議会で可決承認された「米軍地位協定」が新たな火種となったのである。

沖縄の米軍兵士の犯罪行為で一躍知られるようになった「日米地位協定」のイラン版と言って間違いないこの協定は、駐留米軍関係者(いわゆる「軍属」)にさえ「外交特権」を公式に認める内容であった。さらに5年で2億ドル(10年返済で元本と利子で総額3億ドル)の借款協定をセットとしていたことから、ホメイニーはそれを「売国的」協定であると同時に、イスラームにとって「屈辱的」なものと捉えた。

そして、イラン革命へ

彼がそれをいかに問題視したかは、次の声明から容易に理解できる。

イランにもはや祝祭はない。……我々を、そして我々の独立が売り払われたのである。すべての米国軍事顧問、その家族、技術スタッフ……らがイランでいかなる犯罪を起こそうと、……バーザールの真ん中で米国人コックがあなたのマルジャにテロ行為を働こうと も、……イランの警察に彼を阻止する権限はなく、イランの裁判所にそれを裁く権限はない。

……政府はイラン国民を米国の犬以下の存在にした。……米国大統領は我が国民にとって世界で……そして世界中の人々にもっとも嫌われた人間である……今日、コーランが彼に対する敵であり、イラン国民が彼に対する敵である。米国政府はこの点を思い知らねばならない。……今日我々のすべての苦難は米国に発している。我々の苦難のすべてはイスラエルに発している。イスラエルも米国に発している。……私は今や革命のなかにある。(1964年10月26日)

あまりの辛辣かつ扇動的な演説内容から、ホメイニーはその1週間後に逮捕され、即刻国外に追放された。以後、シャー政権は、1978年1月の反シャー運動発生までの13年間、安定と繁栄の時代を過ごすことになる。

その間、現状打開の政治イデオロギーとして、民族主義も社会主義も色褪せ、アケメネス朝ペルシア(紀元前550~前331年)にまでさかのぼって、イランの民族的アイデンティティを捉える「国家ナショナリズム」に対抗するような政治的イデオロギーがもはやないように見えた。

だが、ホメイニーは追放先イラクにあるナジャフの神学校で、イスラーム・シーア派教義を革命のイデオロギーに読み替える講義を行うなど、 来るべき革命に備えていた。

文/吉村慎太郎 写真/shutterstock

北朝鮮とイラン

福原裕二 吉村慎太郎

2022年8月17日発売

946円(税込)

新書判/256ページ

ISBN:

978-4-08-721229-7

ウクライナ戦争後、国際政治上の最大の焦点。

時のアメリカ大統領に「悪の枢軸」と名指されてから20年。
2つの国家は、なぜ「核」を通じて既存の秩序に抗うのか。
そして、今後の展望とは――?

現地の情勢を知悉する専門家が、その正体に迫る!

◆内容紹介◆
二〇〇二年、米国ブッシュ大統領の一般教書演説で「悪の枢軸」と名指された北朝鮮とイラン。負のイメージで覆われた二つの国家は、なぜ「核」問題を通じて既存の国際秩序に抗い、二〇年後の現在もなお、世界の安全保障の台風の目であり続けるのだろうか?

本書は、長年にわたって現地調査を行い、両国の「素顔」を知悉する専門家がタッグを組み、その内在的な論理に接近した注目の論考である。核兵器拡散の脅威が日々高まるなか、負のレッテルの向こう側にある「正体」の理解抜きに、混乱を極める国際政治の将来は語れない。

この記事に関連するニュース

トピックスRSS

ランキング

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

デイリー: 参加する
ウィークリー: 参加する
マンスリー: 参加する
10秒滞在

記事にリアクションする

次の記事を探す

エラーが発生しました

ページを再読み込みして
ください