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人気再燃、満員御礼…かつてテレビでプロレスを放送するために命を懸けた男たち

集英社オンライン / 2022年10月6日 17時1分

近年、「新日本プロレス」や女子プロレス団体「スターダム」が満員御礼になるなど、低迷期からV字回復を果たし、人気が再燃しているプロレス。その熱気が2022年現在テレビで放送されることはほとんどなくなってしまっているのだが、プロレスとテレビの間には切っても切れない歴史があった。『テレビはプロレスから始まった 全日本プロレス中継を作ったテレビマンたち』(イースト・プレス)より一部抜粋・再構成してお届けする。

アメリカ人をやっつける強い日本人を見たい

プロレスは、テレビのゴールデンタイムから大きく遠ざかり今ではテレビ朝日の「ワールドプロレスリング」が土曜深夜に30分枠で放送されるだけになった。2023年に本放送から70年を迎えるテレビジョン。60年のキャリアを誇る元日本テレビエグゼクティブアナウンサー・徳光和夫氏はテレビにおけるプロレスの価値をどう受け止めているのか。私の質問に徳光は即答した。



「テレビはプロレスですよ。プロレスがなかったらテレビはこんなに早く一般家庭に普及しなかったと思います。僕がプロレス中継をやっていて、一番印象に残っている光景は、地方での中継で足の不自由な方がリヤカーに乗って会場に来た姿です。一目でもいいからアメリカ人をやっつける強い日本人を見たい――そんな勇気を日本国中にテレビは届けていたわけです。敗戦で打ちひしがれたこの国の人へ勇気を与えていたんです。

そういう意味で1954年にプロレスと出会ったことがテレビ界全体にとっていかに大きかったか。そこから清水さんや原さんがプロレスはまさに最高のスペクタクルかつスペクテイタースポーツだと承知して、視聴者に喜んでもらおうとより面白くしなくてはいけないと中継に実況に創意工夫したんです。これぞまさにテレビです。テレビはプロレスから始まったんです」

人はいかに情熱を注ぐか。その量こそが生きた証

1961年に日本テレビに入局してプロレス中継に尽力した原 章氏は、「全日本プロレス中継」が終了した翌年の2001年6月に常務へ昇進、2005年6月からは福岡放送の社長に就任した。2011年に同局の会長となり、翌年には長年の放送界への功績をたたえられ「旭日中綬章」を叙勲した。そして2015年6月に福岡放送の会長を退任した。企業人として出世し放送人としてこれ以上にない栄誉を受けた道のりをこう評した。

「私は人事局長もやりました。責任の重い職務ですが、組織が任命した人材ならば誰でもつつがなく職責を果たすことができるでしょう。系列局の経営者も然りです。でも、私の会社員人生の中で多分、他の人では務まらない、私でなければできなかったと思うことがあります。

ジャイアント馬場さんに独立を促し、一緒に全日本プロレスを設立したこと、『全日本プロレス中継』というプロレス番組を再構築したことです。

これだけは他の人ではできない仕事をやり遂げたという自負があります。そういう意味では馬場さんと2人で一緒に苦楽を共にしたあの時代は、私のテレビマン人生にとって一番の大仕事でした」

全日本プロレス中継は原 章にとって青春の輝きだった。原の言葉は人にとって仕事の意味、
価値を考えさせる響きがあった。人はいかに情熱を注ぐか。その量こそが生きた証なのだろう。そして原は恩人への敬意を忘れない人だった。それは「全日本プロレス中継」の最終回(2000年6月21日放送)について話を聞いていた時だった。

「全日本プロレスを作った小林與三次会長が、中継が終わる前の1999年12月30日にお亡くなりになりました。小林会長は中継が終わることを知らないでお亡くなりになったんです。全日本プロレスは正力松太郎さんの遺訓を受けて小林会長の情熱があったから生まれた団体です。実質的には小林会長が作ったんです。その全日本プロレスの中継が続いている間にお亡くなりになったことは誠に僭越ながら良かったことだったと思っています。それは今でも本当にそう思っています」

テレビを成功させた一番のもと

日本プロレス中継を打ち切った時、馬場をバックアップしたのが小林與三次だった。小林は1999年12月30日に86歳で生涯を閉じた。生涯を全うするまでに番組が終わらなかったことに「良かった」と声を震わせた原の言葉には感謝の思いが詰まっていた。

日本民間放送連盟が発行していた機関誌『月刊 民放』の「正力松太郎のテレビ思想」と題したインタビューで小林はこんな秘話を明かしている。

『ニューヨークの万国博覧会でタイムカプセルをやって、世界中から二十世紀の文明を代表するものを集めて残すということにしたんですが、日本から3つ選ばれた。湯川秀樹氏の中間子理論と糸川英夫氏のロケット、そして新聞とテレビの両方だろうと思うんですが、正力の業績だったんです。

その時に彼がどうしても埋めなければいかんといったのが、街頭テレビの写真ですよ。これは俺がテレビを成功させた一番のもとだと言った。だからそのタイムカプセルには街頭テレビの写真が入っている。それほど街頭テレビについては、彼としても力を入れたし、また自信もあったんですよ』

正力は、1964年4月に開幕したニューヨーク万博でのタイムカプセルに街頭テレビで力道山のプロレス中継を見つめる群集の写真を入れていた。遠い将来カプセルを開けた時、未来人はきっとこう思うだろう。

「日本のテレビはプロレスから始まった」

写真/Getty Images

テレビはプロレスから始まった 全日本プロレス中継を作ったテレビマンたち

福留崇広

2022年10月13日

2090円(税込)

単行本(ソフトカバー)‎ 400ページ

ISBN:

978-4-7816-2128-9

あの頃、「テレビじゃなければ見られないプロレス」があった

力道山の姿を一目見ようと街頭テレビに群集が押し寄せた黎明期、日本プロレスの熱狂、全日本プロレス旗揚げの真実、プロレス実況の飛躍、バラエティとプロレス、あの頃の「裏方」たちの狂騒。
名プロデューサー原章を筆頭に、徳光和夫や福澤朗ら時代を彩った名実況者に取材。

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