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アントニオ猪木は何のために人生を懸けて馬鹿みたいに必死になってきたのか?

集英社オンライン / 2022年10月5日 15時1分

プロレスラー、アントニオ猪木氏が残した功績の数は計り知れない。そして、記憶に残る多くの言葉をくれた。スポーツ報知のプロレス担当であり、猪木と直木賞作家の村松友視氏の共著『猪木流 「過激なプロレス」の生命力』(河出書房新社)を執筆した福留崇広氏が、晩年の猪木氏への取材を通して今も心に残る言葉を綴る。

アントニオ猪木の忘れられない言葉

「燃える闘魂」のキャッチフレーズでカリスマ的な人気を集めた元プロレスラーのアントニオ猪木さんが2022年10月1日、心不全のため79歳で亡くなった。

猪木さんは、移住先のブラジル・サンパウロで力道山にスカウトされ、1960年9月30日に17歳でプロレスデビューした。1972年3月6日に新日本プロレスを旗揚げしてからは、モハメド・アリとの格闘技世界一決定戦を頂点にストロング小林との日本人対決、タイガー・ジェット・シンとの数々の死闘など歴史に残る試合をリングに刻んだ。



闘いだけでなく猪木さんは、そのリング外での発言、行動で「信者」と呼ばれるほどの熱烈なファンを生み出した。晩年の猪木さんを複数回にわたりインタビューしていた福留氏が回想する印象的な猪木さんの言葉をここに書き残す。


私は1992年に報知新聞社に入社して、1998年4月4日に東京ドームで引退するまで猪木さんの主な試合を取材してきた。引退後は新日本プロレスのオーナーとしての猪木さんを追いかけたが、取材する担当種目が変わり、お会いすることはかなわなかった。2017年に再びプロレスを取材する機会に恵まれ、2018年10月に刊行した『猪木流』の取材など複数回、インタビューを行った。

数々の言葉を聞き、新聞、書籍に書き残したが今、思い出すのはプロレスラー「アントニオ猪木」として覚醒した時の言葉だ。

日本プロレス時代は、身長209センチの体格で圧倒的な存在感を放っていたジャイアント馬場さんという超えられない壁を前に、2番手に甘んじていた。しかし、1971年12月に会社乗っ取りを理由に日本プロレスを追放されて「新日本プロレス」を設立後は、自らはエース、そして興行会社の社長、プロモーターとして団体を牽引しなければいけない立場となった。

猪木さんがプロレスラーとして覚醒したのは、この新日本プロレス旗揚げ後だったと私は考えている。

たった50人の観客の前で…

旗揚げはしたものの、テレビ局はバックにつかず、テレビ中継はなかった。全国の会場は閑古鳥が鳴いた。

「忘れられないのは埼玉の秩父でね。客がいないんだよね。まだ、春先の寒い時期でね。控室の窓ガラスが割れてそこから風が入ってきて寒くて。その寒さが今の俺を表しているようでね。だけど、俺はその時、思った。この客を次に来た時は100人、次は1000人、そして1万人…にしてやるってね。ある意味、あの秩父が俺のレスラーとしてだけでなくプロモーターの原点だったかもしれない」

猪木さんが回想した秩父の試合は旗揚げから3週間後の1972年3月25日、秩父記念市民会館。リングアナウンサーを務めた大塚直樹さんは観客数を「50人ぐらいでした。あれは間違いなく新日本プロレスの歴史上、最低です」と証言する。

わずか50人の観客を一人でも会場へ呼び寄せるため、猪木さんは仕掛けた。ストロング小林との日本人対決、無名レスラーだったタイガー・ジェット・シンにはサーベルを持たせて悪役としての力を引き出した。そして、誰もが「できるわけがない」と嘲笑したモハメド・アリとの闘いを実現させ、世界に「アントニオ猪木」の名前をとどろかせた。

すべてはたった50人の秩父での決意がスタートラインだったのだ。

「人の中に入り込んで心をつかんで振り向かせてやるんです」

猪木さんのプロレス哲学を披露した言葉も忘れられない。

「俺は客に媚びない姿勢を貫いてきた。媚びたら客の心は離れていくんです。そうじゃなくて突き放して振り向かせる。これが俺のプロレスです」

常に予測不能な闘いを猪木さんは仕掛けた。例えば、1983年6月2日、蔵前国技館でのIWGP優勝決定戦。ファンがハルク・ホーガンに絶対に勝つと信じていた試合で猪木さんは失神KOで惨敗した。勝敗の真相を猪木さんは明かすことはなかったが、負けることで勝つ以上に今も忘れることのない伝説を残した試合だった。観客に媚びず、ある意味、裏切ることでファンの心をわしづかみにしたのだ。

私は「アントニオ猪木とは何ですか?」と聞いたことがある。猪木さんは即答した。

「人の首を捕まえて振り向かせるっていう言葉があるけど、俺の場合はそんな甘いもんじゃない。人の中に入り込んで心をつかんで振り向かせてやるんです。それがアントニオ猪木です」

自身、そしてプロレスに関心のない世間を振り向かせることに執念を燃やした。それがアリ戦、さらにはプロレス界初の東京ドーム興行、プロレスラー初の国会議員、北朝鮮でのプロレス大会…幾多の大胆な企画、行動につながった。その狭間で多額の借金を背負い、何人もの側近が離れていった現実はある。

たしかにその功罪はあるとしても、猪木さんは、どんな批判を浴びても有言実行を貫く人だった。

アントニオ猪木の人生とは…

2017年に脊柱管狭窄症の手術を行い、2018年に難病指定の「心アミロイドーシス」を発症してからは車いすでの生活を余儀なくされた。晩年、猪木さんはこうつぶやいたことがあった。

「俺の人生、ただ人を喜ばせたい。そのことに馬鹿みたいに必死になってきたと思う」

闘病生活をYouTubeで公開したことも自らが希望した行動だった。そして、その姿を見た世間の多くの猪木ファンはもちろん、猪木さんを中傷し揶揄してきた人々でさえ今、猪木さんの人生に心を揺さぶられている。

猪木さんはこんなことも言っていた。

「俺は、結局、『ざまぁみろ!』って言いたくて好きなことをやってきたんですよ」

マスメディアによる想像以上に膨大な訃報を猪木さんは「ざまぁみろ!」と笑っているのだろうか。

取材・文/福留崇広(スポーツ報知記者) 写真:ロイター/アフロ

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