スティーブ・ジョブズのことは、もちろん知っていた。彼がアップルの創業者で、iPhoneを創った人だということも存じていた。私はITには弱いのだけれど、さすがにスマートフォンは使っていて、そのスマホを通じて、死を悟った彼が語りつくしたという評伝の記事を読んだりもした。
『ベルばら』伝説のトップスター・死の淵を見た安奈淳の心に刺さるスティーブ・ジョブズの言葉
集英社オンライン / 2022年10月17日 9時1分
『ベルばら』の愛称で知られる『ベルサイユのばら』の誕生から、ちょうど半世紀。安奈淳さんは、その『ベルばら』でオスカルを演じ一大ブームを巻き起こした。だが、華やかな活躍の一方、彼女を襲った病魔は筆舌につくしがたい。そんな安奈さんは、癌の病苦と闘うなかでスティーブ・ジョブズが遺したひとつの言葉に深く共感するという。70代に入りようやく健康を取り戻し、第2のブームを迎える安奈淳がつづる病魔、闘病を経た境地、ジョブズの言葉、そして、生きるとは——。
禅と出逢ってハッとしたジョブズ
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スティーブ・ジョブズ氏 写真/Getty Images
最近になって、文庫の新刊、『宿無し弘文 スティーブ・ジョブズの禅僧』を読んで、初めて彼のことを深く知ることになった。ジョブズという人は、才華に溢れていたものの、幼い頃から周囲と妥協できず、長い間、過剰な自己を持て余していたように見受けられる。そんな彼が、青年期に禅と出逢ってハッとして、禅にのめり込んでいった気持ちは、凡人である私にもよく理解できる。
『宿無し弘文』は、著者の柳田由紀子さんが、ジョブズの禅の師、故・乙川弘文(おとがわこうぶん/1938~2002年)の関係者を訪ね歩いて書き上げた伝記だ。日米欧を駆けめぐり、完成までに8年をかけた大作だが、読書が大好きな私は、ほんの2、3日で一気に読んだ。
ジョブズも常人ではないが、師である乙川弘文も負けてはいない。もしかしたら、この人は宇宙から来たのではないかしら、そういう感覚を私は抱いた。
弘文さん、とにかく無欲なのだ。その上、裏も表もなさすぎるくらい、ない。だから、性的なことには無関心かと思ったら、そうでもない。相手がすがるように求めてくれば受けとめてしまう。それを“破戒僧”と批判する人もいるが、人間、なかなかこうはできないものだ。人には、自分に合わないものを拒否したり、避けたりする習性がある。ところが、弘文さんはすべてを受け入れる。ちょっと宇宙っぽいのはそういうところだ。最期だって、常人とはかけ離れたこの世からの去り方をしている。
宇宙の人・弘文は、過剰の人・ジョブズをも受けとめ、助けた。ジョブズにとっては、生きる意味を教えてくれた神のような存在だったろう。もし、生前の弘文さんに接することがあったら、私もジョブズのように心酔したかもしれない。
オスカルは、お掃除のおばさんに変装
75歳になる私の人生にもいろいろなことがあった。今年は、池田理代子さんの劇画『ベルサイユのばら』連載開始から、ちょうど50年目にあたるという。
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コミックス第1巻の初版は1972年10月25日発売
1975年、私は、宝塚版『ベルばら』花組公演で男装の麗人、オスカルを演じた。オスカル役は、今では私の芸歴に欠かせないものとなったが、私自身はその時、冷静で他の演目と同列にとらえていた。しかし、幕を開けると、初日から宝塚大劇場は3階席まで立ち見の超満員。熱狂は日々いや増し、日本全国で爆発的なブームになった。
いわゆる“出待ち”をされているファンの方々の大集団を“突破”するために、お巡りさんに両腕をつかまれて楽屋を出るのは日常茶飯事。お掃除のおばさんに変装し、ほっかむりして、片手にホウキ、片手にチリ取りを持って退散したこともある。あの時、相手役のアンドレを演じた榛名由梨さんは、確か、長靴を履いて、手にはバケツを持っていた。
ベルばらブーム冷めやらぬ78年、『風と共に去りぬ』のスカーレット役をもって、私は13年間の宝塚生活に別れを告げた。ありがたいことにこの公演も大盛況で、日比谷の東京宝塚劇場では、チケットを買い求める方々が皇居の辺りまで並んだと聞いた。
次々と襲う病魔に刃物を首にあてた
そんなふうに華やかに宝塚を去った私を、退団直後から次々と病魔が襲った。最初はC型肝炎、次に髄膜炎。そのうちに、指先が循環障害で真っ白になるレイノー症状が現れ、手首や指が腫れ、全身が関節痛で痛み、むくみ始めた。終(しま)いには、むくみで体重が20キロも増えてしまった。
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読書が趣味だという安奈淳さん
結末は、瀕死の状態での緊急入院。2000年夏のことだった。集中治療室に運ばれた私(当時53歳)は、その後意識を失う。4日目に意識を取り戻したとカルテにはあるが、本人の記憶はズタズタだ。医師から緊迫の病状を伝えられた周囲の者は、本気で葬儀の相談をし始めたそうだ。病名は、全身性エリテマトーデス(以下SLE)。膠原(こうげん)病のなかでも、とりわけ難治性の病だった。幾度かの危篤を乗り越えた私の体重は、39.3キロになっていた。
SLEの治療は、副作用との闘いといわれる。私の場合、SLE治療のステロイド大量投与に加え、C型肝炎のインターフェロン療法を同時にせざるを得なかったため、骨粗しょう症、糖尿病、白内障などあまたの副作用に苦悶した。
なかでも、きつかったのが鬱状態だった。不眠の夜が続き、たまに眠れば、自分が幽鬼になって彷徨(さまよ)う悪夢を繰り返し見た。
次第に私は、「死ななくちゃ、死ぬしかない」という考えにとり憑かれた。刃物を首にあてて自殺未遂さえ試みた。自殺未遂は1度ですまなかったため、3度ほど心療内科に入院もしている。
50代、60代は、本当に生きることだけで精いっぱいだった。
ここに私がいる、ほかに何もいらない
当時、私は、身の回りのものをほとんど処分した。無欲なジョブズの師、弘文さんじゃないけれど、自分にまつわるものなど何もいらないと思ったのだ。副作用で髪がごそっと抜けた時には、自分の手で頭を丸坊主にさえした。
ここに私がいる、ほかにもう何もいらない──。
緊急入院から2年、ようやく治療に光が見え始めた頃、舞台のお話をいただいた。丸坊主にした髪はまだ短く、副作用で顔はまん丸だったが懸命に練習して出演した。こんな私でも少しは役に立てるのかと思うと、生きていることが愛しかった。
それでも、病魔は容易に私から去りはしなかった。骨粗しょう症による骨折もしたし、腎臓癌も患った。数年前には、肝臓の特効薬の副作用で半年間の療養を余儀なくされた。いずれは心臓手術をする必要があると、医師からは言い渡されている。
自分でも、よう生きてるわと思う。この苦から逃れられるなら、死んだほうがマシと幾度考えたことか。けれども、生きているということは、やはり何か意味があるのだ。寿命がくれば、人は必然的に死ぬ。それまではこの世の修行と、私は思う。
『宿無し弘文』によれば、仏教には「転依(てんね)」という言葉があるらしい。「転依」=人格の根本転回。修行により悟りを開き、人格がひっくり返り、それまで気づかなかった新しいモノの見方ができるようになることを「転依」というのだそうだ。ジョブズは一種の「転依」を果たしたと、著者は書く。
自分が「転依」などという大それた体験をしたとも思わないが、病を経た私が、世界に対して別の見方をするようになったのは確かだ。第一、死がまったく怖くなくなった。自分と他人を較べたり、自らを飾り立てることもなくなった。自分のためではなく、なるべく人のために生きたいと、どこかで願うようになった。
骨身に沁みるジョブズの言葉、「いつかは死ぬ身」
心に刺さったジョブズの言葉がある。
「人生を左右する分かれ道を選ぶ時、いちばん頼りになるのは、いつかは死ぬ身だと知っていることだと思います。ほとんどのことが──周囲の期待、プライド、きまりの悪い思いや失敗への恐れなど──死に直面すると、そういうものがすべてどこかに行って本当に大事なことだけが残るからです」(2005年6月、スタンフォード大卒業式にて)
「いつかは死ぬ身」──この頃、骨身に沁みて思う。だから、残りの一日一日、一瞬一瞬が大切でしかたがない。それなのに、私は人間ができていないから、時につまらないことを思い煩いもったいない時間を過ごしてしまう。
「私たちを取り巻く感覚は、私たちの肉体の一部です。月、星、太陽、風、雨、すべては、あなたの肉体の一部なのです」
こちらは、弘文さんが遺した言葉だ。
私は、幼い頃から子どもながらに嫌なことがあると空を見上げていた。空を見ると、無限の宇宙では自分の悩みなどケシ粒ほどと実感する。こんなに汚れきった私でもスーッと自分が浄化されて、宇宙も人間もみんな一体と感じる瞬間だ。ゆうべもよいお月様が出ていた。そうだ、今夜も空を見上げよう。
撮影/中野義樹
宿無し弘文 スティーブ・ジョブズの禅僧
柳田由紀子
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2022年9月16日
1045円(税込)
文庫 408ページ
978-4-08-744437-7
女優、中嶋朋子が読んだ、胸がキュッとなった。
「生きるということに丸裸で向かい合い〝自分の往く道〟その上に、ただひたすらに坐した人、乙川弘文――」(解説)
「スティーブは、十日に一度は真夜中までうちにいたわ」と、乙川弘文の元妻は語った。スティーブ・ジョブズが師と仰ぎ、アップル社の思想に禅境の閃きを与えた僧侶・弘文。だが、彼は"禅道無宿"、自ら願って地獄に堕ちた。高僧か? 破戒僧か? そして不可解な死――。米、欧、日、夥しい関係者の証言からその死の謎に迫る渾身のノンフィクション。第六十九回日本エッセイスト・クラブ賞受賞作。
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