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「国家によるスポーツの目的外使用」その最たるオリンピックのあり方を考える時期が来た

集英社オンライン / 2022年10月19日 13時1分

日本でも徐々に見聞きするようになった「スポーツウォッシング」と言う言葉。「五輪などのスポーツイベントを使って、染みのついた評判を洗濯し、慢性的な問題から国内の一般大衆の注意をそらすこと」を意味する。これは「国家によるスポーツの目的外使用」だと話す、スポーツジャーナリストの二宮清純氏に話を聞いた。サムネイル画像/shatterstock

世界最大のスポーツイベントは、いうまでもなくオリンピックだ。4年に一度、世界各国から開催都市に集まる選手団や関係者の人数は、どんな人気競技の世界大会よりも桁違いに大きい。

また、報道量や、大会に関わる様々なビジネス、そこから派生する経済効果等々、オリンピックはあらゆるスポーツイベントの中でも最大だ。だからこそ、連日メディアを騒がせているような利権を巡る汚職事件が後を絶たないし、ドーピングなどの不正行為も大会のたびに話題になる。



スポーツジャーナリストの二宮清純氏は、このオリンピックを1988年のソウルから現在まで長きにわたり取材を続けてきた。幅広い競技や選手たちを取材してきた中では、スポーツウォッシングに類する出来事も現場で直接見聞きしたという。

スポーツウォッシングとは「国家によるスポーツの目的外使用」だと話す二宮氏に、スポーツはどんなふうに目的外使用をされていくのか、そして、これからのスポーツと社会はどんな関係性を目指していくべきなのか、について話を聞いた。

二宮清純(にのみや・せいじゅん)
スポーツジャーナリスト。株式会社スポーツコミュニケーションズ代表取締役。1960年、愛媛県生まれ。スポーツ紙や流通紙の記者を経てフリーのスポーツジャーナリストとして独立。オリンピック・パラリンピック、サッカーW杯、ラグビーW杯、メジャーリーグなど国内外で幅広い取材活動を展開。明治大学大学院博士前期課程修了。広島大学特別招聘教授。大正大学地域構想研究所客員教授。経済産業省「地域×スポーツクラブ産業研究会」委員。認定NPO法人健康都市活動支機構理事。

「スポーツウォッシングという言葉は登場してまだ間もない、比較的新しい概念なので、何をもってスポーツウォッシングというのか、どこまでの行為がスポーツウォッシングなのか、という細かい定義は識者によって多少の違いがあるかもしれません。

スポーツって、本来は楽しいものじゃないですか。その楽しいものを国威発揚のために利用するとなれば、これは目的外使用ですよね。私なりにスポーツウォッシングを定義するとすれば、〈国家や企業によるスポーツの目的外使用〉といったあたりになるかと思います」

二宮氏は、長年のオリンピック取材で「これは国威発揚や政権浮揚のために利用しているな」と感じたことは何度もあった、と振り返る。たとえば近年のオリンピックでは、2008年の北京大会でその気配を濃厚に感じたという。

「あのオリンピックは、中国が経済発展を遂げていくシンボルだったと思いますが、北京開催が決定したことでチベットや新疆ウイグル自治区の人権問題に対する注目も大きくなっていました。当時の北京は、発展している地域とそうでない地域、ダウンタウンやスラム的な地域もあったわけです。

そのような部分を報道陣には見せようとしませんでした。貧富の差、そして拡大しつつあった格差を外国の報道機関にあまり知られたくない、という意図があったからだろうと思います」

2008年の北京オリンピックは、アジアで行われた夏の大会では1964年の東京、1988年のソウルに続く3回目のオリンピックだった。この3つの大会に共通するのは、大きな経済成長を果たして先進国と肩を並べたことを世界に示す国威発揚の機能だった、と二宮氏は指摘する。

「アジア初のオリンピックになった1964年の東京大会は、日本が戦後、国際社会に出ていくことを世界に示すためのオリンピックでした。1988年のソウルオリンピックには私も現地に取材へ行きましたが、これもやはり韓国の経済発展を知らしめる意図がありました。

そう考えていくと、『先進国のパスポートを手にしたい』という意味では1964年の東京も88年のソウルも2008年の北京も、共通したものがあったのだと思います」

1988年のソウルオリンピックは、1980年のモスクワ、1984年のロサンゼルス、に続いて行われた大会だ。モスクワは、ソ連のアフガン侵攻に抗議するという理由で西側諸国の多くがボイコット。

1984年のロサンゼルスでは、その報復としてアメリカのグレナダ侵攻への抗議という名目で東側諸国が参加をボイコットした。1988年のソウルは、政治に翻弄されたこれら2大会を経て東西両陣営が久々にスポーツの舞台で競い合う大会になった。

「国家の威信があれほどガチンコでぶつかり合ったことは久しくありませんでした。その結果、かつてないほどのドーピング合戦になったわけです」

陸上男子100メートルで世界記録を更新して優勝を飾ったベン・ジョンソンが、ドーピング検査で陽性反応が検出されて、新記録取り消しと金メダルを剥奪された一件は非常に有名だ。この事件で、ドーピングという言葉が広く世界に知られるようになったといってもいい。ソウルオリンピックでは、これ以外にも多くの選手がドーピング検査の陽性が出た、と二宮氏は言う。

「西側諸国と東側諸国のドーピングは、それぞれ意味合いが違っていました。西側諸国のドーピングは資本主義型。これは、金メダルを獲り世界記録を出すことによって金を稼ぐ、いわば一攫千金を狙ったものです。一方、東側諸国は、当時の東ドイツなどが典型ですが、国威発揚型のドーピングでした。つまり、同じドーピングでも種類が違っていたわけです。

一方で、この時期のオリンピックは1984年のロサンゼルスで成功した商業主義の手法がさらに進んで、スポーツ関連会社や飲料メーカーなど様々な企業が公式スポンサーとして参入しました。では、ドーピングで揺れた1988年の大会は、スポンサードした企業にとってプラスだったのか、それともマイナスだったのか。

これは各企業の判断によるでしょうが、以降も金を出し続けたということは、ネガティブな材料があったとしてもそれを上回るメリットがあったからでしょう。それがオリンピックの魅力であり、魔力でもあるのだと思います。たとえいろいろな矛盾があっても、お祭りの喧噪がそれをかき消してしまう。オリンピックには、そうした現実があります。」

メディアが<勇気と感動のドラマ>を流し続けることの罪

この大会以降、オリンピックは回を重ねるごとに商業主義への傾斜をますます深めていった。様々な利権を狙った汚職の摘発は後を絶たず、近年ではスポーツの爽やかなイメージを利用して政治的に都合の悪いことを隠蔽しようとするスポーツウォッシングに対する批判も増えてはいるが、それでもオリンピックは世界最大のスポーツイベントとしての地位は揺るがず、肥大化の一途をたどっている。

たとえば昨年の東京オリンピックは、開催前から賛否が大きく分かれて様々な議論を呼んだ。しかし、いったん大会が始まってしまえば、新聞やテレビはスポーツ欄とスポーツコーナーを全面的に使って、〈勇気〉と〈感動〉と〈人々に寄り添う〉ドラマばかりを来る日も来る日も量産し続けた。

このように、スポーツメディアが社会事象の批判的チェックや検証という機能を放棄しているようにしか見えなかった一方で、その役割を果たしていたのは、ゲリラ的な存在感を発揮した週刊誌やそのオンラインニュースなどだ。

競技結果を広報装置のようにただ報告し続ける日本のスポーツメディアは、果たしてジャーナリズムと名乗るに足る能力を持ち得ているのだろうか。

「それはスポーツのみならず言えることであって、政治や経済においても(日本のジャーナリズムは)非常に不完全なものだと思います。どの国の報道にも程度の差こそあれ、問題はあります。しかし報道の自由度ランキング(2022年)で、日本は世界71位。まぁロシアや中国よりは上ですが(笑)」

と、二宮氏は厳しい視線を向ける。

「『国家の価値は結局、それを構成する個人個人のそれである』と語ったのは、英国の哲学者J・S・ミルですが、メディアに対してもリテラシーという点では国民がそこをチェックするわけだから、今の日本メディアの状況はやはり国民を反映した姿なのでしょう。

具体的に東京オリンピックとスポーツメディアについて言えば、当初、東京開催が決定したときから東京都民や国民の支持はあまり高くありませんでした。だから、官民一体となって、政・官・業・メディアが複合体として盛り上げなければいけない、という動きが出てきたのかもしれません。

その流れの中で、新聞社がオリンピックのスポンサーになりましたよね(註:読売新聞グループ本社・朝日新聞社・毎日新聞社・日本経済新聞社がオフィシャルパートナー、産業経済新聞社、北海道新聞社がオフィシャルサポーターとして契約した)。そこに関してはやはり、踏みとどまるべきだったと思います。監視機能を鈍らせる恐れがありますから」

イベントの利害関係者となった新聞やテレビがスポーツ欄やスポーツコーナーで、〈勇気と感動のドラマ〉を流し続けることは、スポーツと社会、スポーツと国民の関係を毀損することにもなる、とも二宮氏は指摘する。

「東京オリンピックで、日本の選手たちは金27、メダル獲得総数58と史上最多になりました。では、これらのメダル獲得は果たして国民に還元されているのか。そこが非常に重要で、選手のトレーニングや強化には、いくらかの税金が使われているのだから『感動をありがとう』で終わっちゃダメなんですよ。

一例を挙げれば、金メダルを獲るためのトレーニングやチームビルディング等のノウハウが民間企業や民間の組織づくりに役だちましたとか、あるいはこういうトレーニングが少子高齢化社会の大きな課題である健康寿命と平均寿命の差を縮めてQOL(クオリティ・オブ・ライフ:生活の質)向上に役立ちましたとか、金メダリストのトレーニング方法や食生活等が我々の社会と生活に還元されましたよ、と可視化されていない。

そこが可視化されるようになれば、オリンピックに対する否定的な意見が少しは減ったかもしれません。
つまり、勇気をありがとう、感動をありがとう、だけで終わるとその先がなにもないから思考停止に陥ってしまう。確かにスポーツには、『ガンバるぞ!』と思わせる〈精神浮揚効果〉があるのは間違いないんです。

しかし、それだけでは漠然としていて、勇気や感動という言葉から先へ進んでいかない。だからといってすべてを細かく数値化しろ、ということではないんですよ。ただ、良い結果を出すためのノウハウや組織作りなどをもっと国民に還元する努力をしなければいけない。その仕組み作りがないから、国民とアスリートの間の乖離が大きくなっているのかもしれません」

スポーツに対する「固定観念」を外さなければならない

二宮氏によれば、この乖離を生んでいるのは〈する〉〈見る〉〈支える〉という役割が固定化しがちな日本のスポーツの傾向だ。これを流動化させることで、人々とスポーツとの関わり方はより豊かで多様なものになってゆくだろう、という。

「今日〈する〉人が明日は〈見る〉人になってもいいし、〈支える〉人になってもいい。また、〈支える〉人が今度は〈する〉人になってもいい。いちばん大事なのは、この流動性なんです。

一例を挙げれば、ソルトレークシティオリンピックの取材に行った時、現地でメディア用のバスに乗ると、ボランティアの中に元オリンピアンがいました。『今までいろんな人に支えてもらったので、今度は自分が送迎係をやっているんだ』と、支える側になっているわけです。

日本では元メダリストが送迎係をやっているなんて聞いたことがないですよね。オリンピックに出た人は、いつまで経っても選手目線で話をする。でも、引退したら見る側の目線も、支える側の目線も必要なんですよ。自分の役割を固定化するのではなく、スポーツをする側、見る側、支える側と立場を変え、固定化しない。それによってエコサイクルが生まれてくる。

もちろん、結果を出した選手に対するリスペクトは必要ですが、役割が固定されてしまうと今度は悪い意味でアスリートが特権階級みたいになってしまう。そうなると“上級国民”といった批判が起きる。流動性の確保こそ優先すべきものです」

この役割固定化と多様性という点では、障害者スポーツに対するメディアの取り扱いも同様の問題を抱えてきた、と二宮氏は指摘する。

「たとえば、パラリンピックは最近では日本でも市民権を得てスポーツとしてメジャーになりつつありますが、かつては選手たちがどんなに素晴らしいパフォーマンスを発揮しようとも記事はスポーツ面ではなく社会面の扱いで、『感動をありがとう』で終わっていました。

障害者スポーツはずっと福祉行政として厚労省の管轄でしたが、スポーツ庁ができたこともあって、パラリンピックを巡る状況はここ10年ほどでだいぶ改善されてきました。福祉やリハビリとしての障害者スポーツは厚労省の管轄でいいのかもしれませんが、大会に出場するレベルの選手ならスポーツ庁の管轄は当然のことだと思います。

しかし、その一方でデフリンピック(4年に1度、世界規模で行われる聴覚障害者の総合スポーツ競技大会。2025年の東京大会開催がさきごろ決定した)はまだスポーツ面の記事になりませんよね。なぜデフリンピックの記事はないのかとメディア幹部に訊ねると『パラリンピックは市民権を得ましたけれども、デフリンピックはまだですから』と。要するに新しい格差、新たな差別が始まっているわけです。

市民権を得たから記事に出すとか出さないとかではなく、アスリートたちの競技なのだからメディアは自分たちで自主的に判断をして記事にすればいいんですよ。なのに、先ほどの役割固定化と同じで、根拠はなくても『こういうものだから』と自己規定して、それが慣習になってしまう。そこはたえず見直すべきではないかと思います。

お上のお墨付きがあるものをスポーツと解釈するような硬直した考えではなく、もっと自主的に、自分たちがスポーツだと思うものをどんどん発信していけばいい。そもそもスポーツの語源(註 : ラテン語のdeportare)は余暇、気晴らし、楽しみ、といった意味なのだから、身体を動かして気持ちが晴れるようなことは全部スポーツの範疇に入れてもいいのではないか。もっとフレキシブルな発想が必要だと思います」

そして、スポーツを支え出資する企業の考え方も、投資に見合う効果を求めるスポンサー型から、ともにスポーツを育むパートナーシップ型への移行が求められるようになってゆくだろう、ともいう。

「現在、私は中国5県の広島、山口、岡山、島根、鳥取で活動する様々な競技のクラブを支えるプラットフォーム〈スポーツ・コラボレーション5〉のプロジェクトマネージャーをしているのですが、企業に支援をお願いすると、『広告費に見合う費用対効果はありますか』と必ず聞かれます。

それぞれのクラブは、老若男女皆がする・見る・支えるという役割を皆が分担し入れ替わりながら、地域のコミュニティの核になることを目指している。この活動を通じて皆が健康になって親子の会話が弾むかもしれないし、地域の活性化を通じて観光資源になるかもしれない。『だから、費用対効果はやってみなければわからないけれども、一緒に子どもを育てるような考え方で、そのために皆が少しずつマンパワーやお金などを出し合うパートナーになっていただけるのであれば非常にありがたい』という説明をするようにしています。

スポーツはもともと公共財という側面が大きいので、そこに出資する企業にとっても元が取れるか取れないかという費用対効果以上に、これからはその公共財を共に育てるという発想や役割が重要になってくるのではないかと思います。

近年は投資家も企業のESG(環境・社会・企業統治)に注目するようになりました。従来なら財務情報の中に企業のすべてが詰まっている、という考え方でしたが、今では財務諸表の数字には含まれない環境問題や人権問題などへの対応が重視される傾向にあります。

それに呼応する形で、企業のスポーツに対する接し方も、スポンサーシップからパートナーシップへと変わっていくと思われます。株主資本主義からステークホルダー資本主義、そしてESG型資本主義へ――といった流れですかね、ざっくり言えば。

でも、こうした考えは、日本には昔からあった。近江商人の“三方よし”なんていう商売哲学は、まさにこれですよ。そんな時代において、不都合な事実を隠すことをホワイトウォッシングといいますが、スポーツを通じて都合の悪いことを浄化しようと企んでいる企業や国家は、世界の中で居場所を失うでしょうね。マネーロンダリングをやっている国家や企業と同じ運命を辿ることになるでしょう」

関連書籍

西村章

1964年、兵庫県生まれ。大阪大学卒業後、雑誌編集者を経て、1990年代から二輪ロードレースの取材を始め、2002年、MotoGPへ。主な著書に第17回小学館ノンフィクション大賞優秀賞、第22回ミズノスポーツライター賞優秀賞受賞作『最後の王者MotoGPライダー・青山博一の軌跡』(小学館)、『再起せよ スズキMotoGPの一七五二日』(三栄)などがある。

二宮清純

スポーツジャーナリスト。株式会社スポーツコミュニケーションズ代表取締役。1960年、愛媛県生まれ。スポーツ紙や流通紙の記者を経てフリーのスポーツジャーナリストとして独立。オリンピック・パラリンピック、サッカーW杯、ラグビーW杯、メジャーリーグなど国内外で幅広い取材活動を展開。明治大学大学院博士前期課程修了。広島大学特別招聘教授。大正大学地域構想研究所客員教授。経済産業省「地域×スポーツクラブ産業研究会」委員。認定NPO法人健康都市活動支機構理事。

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