1. トップ
  2. 新着ニュース
  3. ライフ
  4. カルチャー

13歳で故郷・熊本を離れ、移民船に乗ってブラジルへ。小川フサノの58日間の航海

集英社オンライン / 2022年10月20日 11時1分

一九一七(大正六)年、十三歳の少女・小川フサノは故郷・熊本を離れ、ブラジルへ向かう。神戸からシンガポール、ケープタウンを経てサントスへ。五八日間の船旅であった──。作家・軍事アナリストである小川和久氏が自身の母親を描いたノンフィクション単行本『「アマゾンおケイ」の肖像』(発行:集英社インターナショナル、発売:集英社)の一部を抜粋、再構成して紹介する。

移民船若狭丸に詰めこまれた千二百人

四月二十日夕刻、フサノたちを乗せた若狭丸は神戸を出港した。遠ざかっていく六甲、摩耶(まや)の山並みが、いやがうえにも旅情を掻き立てた。デッキから見送りの人々に手を振っていた広島訛りの男が呟いた。

「神戸の街は海側から見るのが一番じゃいうけど、ホンマやなぁ。右の一番高いのが六甲山、真ん中が摩耶山、左が再度(ふたたび)山いうらしいが。フタタビヤマ、再び戻ってこられるかのぉ」。



渡された旅券には、「契約移民としてブラジルに赴く前記の者」と記されていた。伯剌西爾(ブラジル)移民組合と契約しているフサノたちは二年間、ブラジルの農園で汗を流すことになっていた。

船上から投げられた色とりどりの紙テープの端を岸壁の見送り家族が握りしめ、遠目に見る若狭丸は極彩色に塗られた遊覧船のようだった。

神戸港を出た若狭丸は、淡路島を右手に、左前方に紀伊半島の山々を眺めながら紀淡海峡を抜けて外洋に出た。急にうねりが増し、あちこちで嘔吐する苦しげな声が聞こえた。その時初めて、フサノは自分が間違いなくブラジルという見知らぬ土地に連れて行かれるのだと実感した。

若狭丸には一千二百人あまりの移民が詰め込まれており、男二人に女一人の割合だった。移民たちは三等船客以下の扱いで、貨物を積載するための船倉を二階建てに改造して居住区画としていた。身をかがめて歩かなければ鉄の梁(はり)に頭をぶつけるほど天井が低かった。

一家族当たり三畳ほどの狭い空間で手荷物の間に身を横たえ、隣との目隠しには毛布などをぶら下げていた。風呂も便所も台所も甲板にしつらえてあり、寄港や入港一週間前になると、その違法な設備が検査官の目に触れないよう居住区画に戻した。

ブラジルで落ち着いた頃、移民船の状態をポルトガル語でカルガ・ウマーナ、人間貨物と呼んでいることを知り、フサノたちは妙に納得させられた。

薄暗い居住区画では、日本各地からやってきた移民たちがお国訛りをがなり立てていたが、親身になってフサノの面倒を見てくれたのは沖縄の人々だった。その心優しさ、温かさが忘れられなかったのだろう。フサノは終生、「沖縄の人達は心が綺麗だから」と褒めそやしていた。

シンガポールと赤道祭

移民たちにとって、食事は楽しみにするような代物ではなかった。吹きさらしの甲板の仮設の調理場の前に並び、家族ごとの食事当番が「熊本県人本村末廣(すえひろ)」など家長の名が墨で書かれた木札を示す。

主食と副食類は大きな方のブリキ製のバケツに入れて渡される。下半分に盛り付けられた米飯は、食欲を減退させるような海のにおいが染みついていた。その上の仕切り板に副食類が乗せられる。

おかずといっても、十年一日の如く代わり映えのしない煮しめがほとんどで、ジャガイモ、人参、牛肉らしき肉片が入っていた。それに沢庵。味噌汁は小さな方のバケツに入れ、船倉の自分たちの居住区画まで運んだ。食器洗いは女たちの仕事で、これまた甲板での作業だった。

「若狭丸」船上に詰めこまれたブラジルへの移民。フサノ乗船時の写真ではないが、当時の移民船のようすがわかる(国立国会図書館ウェブサイト「ブラジル移民の100 年」より転載)

五月二日、フサノはシンガポールの手前で満十四歳の誕生日を迎えた。日本では庶民が誕生日を祝う習慣などない頃のこと、叔父たちもフサノの誕生日など気に掛けてもいない様子だった。

フサノは一人、今日、自分がこの世に生を受けたのだ、それも異国の地で誕生の日を迎えたのは定められた運命かも知れないと、この日のことを忘れないように心に刻んだ。

若狭丸の前部と後部の甲板には天幕が張られ、蒸し暑い船内から逃れてきた移民たちが身体を休めていた。五、六人が一度に入れる水風呂も前部甲板に設けられ、男も女も神戸出港から初めて身体の垢を流すことができた。

シンガポールの港内にはユニオンジャックをはためかせたイギリスの軍艦が何隻も停泊していた。その威光を背に、威張りくさったイギリス人の検疫官が乗り込んできて、甲板に移民を二列横隊に並ばせて点呼を行った。

埠頭では中国人の苦力(クーリー)が長い列をつくり、籠に入れた石炭を船に担ぎ込んでいた。水はポンプを使い、布製の太いホースで船内のタンクに注ぎ込まれた。

上陸を許されたのは一等と二等の船客と船長らに限られ、移民たちは沖泊まりした若狭丸の甲板で押し合いへし合いしながら、久しぶりの陸地、それも南国らしい白い建物が並ぶ大都会の景色をただ眺めるだけだった。

出港した神戸は日本でも横浜と並ぶ異国情緒を漂わせた街だったが、そんなものが田舎じみて見えるほど、一八二四年に大英帝国が開いた海峡植民地シンガポールは優雅で、異国そのものだった。

一等船客らを送迎している小型ボートに乗れば、数分で異国の地に立つことができる。いまの自分には望むべくもないことだったが、フサノの胸は少女なりの夢で膨らんだ。ブラジルに行って、そこから羽根を広げて色んな世界を見て歩くのだ。

甲板から下に目をやると、熱帯の果物を山盛りに乗せた物売りの船が横付けし、移民たちを見上げて声を張り上げていた。初めて見るマンゴー、パパイヤ、ドリアン…。甘ったるい果物の香りと一緒に、初めて嗅ぐ、臭いけれども食欲をそそる匂いも甲板に上がってきた。

フサノはまだ、それが中華文化圏にはつきものの香辛料八角の放つ臭気だとは知らなかった。
シンガポールに二泊した後、若狭丸はマラッカ海峡を抜け、インド洋に入るとすぐに赤道に近づき、さらに南下を続けた。

南十字星は幸せを運んでくれる

シンガポール出港から四日目、「北緯零度を通過」と船内のスピーカーが赤道通過の日時を厳(おごそ)かな口調で告げ、一等船客には船長から赤道通過の証明書が手渡された。海神ネプチューンが間違いなく赤道を通過したと太鼓判を押してくれた通行手形である。

移民たちには証明書の代わりに一人一袋ずつ菓子が配られた。三等船客用の売店で売っている森永のミルクキャラメル、大阪の粟おこし、神戸の瓦センベイが、この日ばかりは無料で提供された。

フサノは生まれて初めてミルクキャラメルを口にし、粟おこしは終生、フサノの手土産の定番となった。儀式が終わると、甲板に急造された舞台で素人芝居やショーめいた出し物が演じられた。

フサノを可愛がってくれる沖縄の家族たちは蛇皮線を奏でた。赤道祭は移民たちの誰にとっても楽しい思い出を残した。三週間後、右手にアフリカ大陸が見えた。次の寄港地はアフリカ大陸南端の大都会ケープタウンだった。

インド洋の大海原を渡りきったあとだけに、移民たちは上陸して足の裏に大地の感触を味わいたい気分だったが、シンガポール同様、上陸は許されず、若狭丸の船上から街の背後に黒くそそり立つテーブルマウンテンを仰ぎ見て、それをケープタウンの記憶として脳裏に刻んだ。

標高一千八十六メートルの岩山は、山頂部分が三キロメートルにわたって平坦な形で、そこからテーブルの名がつけられた。「あれがクロンボばい」と末廣叔父が熊本弁で言った。フサノはこのとき、生まれて初めて黒人の姿を見た。黒人たちは粗末な衣服を身にまとって黙々と荷役を行っていた。

それにしても、とフサノは思った。つい先頃、素晴らしいと思ったシンガポールが田舎町に思えるくらいに、ケープタウンは活気に満ちていた。昼のように明るい電灯が港を照らし、建ち並んだ工場の煙突からは煙が立ち上り、機械の音が鳴り響いている。

フサノは、ここもまたイギリスが支配する土地だと教えられ、大英帝国の版図の広さを記憶することになった。

ケープタウンで二泊して港外に出るとすぐ、立って歩けないほどの大しけに見舞われ、船室の棚からは食器が転げ落ちた。六千トン級の若狭丸でさえ上下左右に大揺れした。大西洋の大しけはインド洋や東シナ海とは比べものにならない荒々しさだった。

船客の大半が船酔いで立つこともできず、寝床の周りにヘドを吐き散らす者も少なくなかった。しかし、十四歳のフサノは酔うこともなく、波が洗う甲板を走り回るのが楽しくて仕方なかった。参っている大人たち横目に、優越感すら覚えていた。

大西洋でフサノは船上の葬儀というものを目にし、人は死ぬと土に帰ると教えられてきたが、海の上では違うのだと知った。どこの誰かわからなかったが、死者は木製の棺に収められ、それを大きな日の丸が覆っていた。

船長や家族が手を合わせる前で、棺は船縁(ふなべり)から落とされ、大海原に消えていった。それが西欧流の水葬であることを知った。

それでも波が穏やかな日には大海原を疾走する若狭丸の横をイルカの群が泳ぎ、快適とは言えない船旅に安らぎを与えてくれた。生暖かく吹く熱帯の風と潮の香りに包まれ、フサノは甲板でゴロ寝したこともある。

伝わってくるエンジンの振動に身を委ねながら、フサノは満天の星空に輝く南十字星を何度も手で掴もうとした。流れ星が消えないうちに念じると願いが叶うとされるように、つかまえたサザンクロスが幸せをもたらしてくれそうに思えた。

ブラジル、赤い大地に上陸

サントス港まであと二日という夕刻、右手前方に南米大陸の山々が姿を現した。既に前日、一等と二等の船客たちは宴を開き、別れを惜しんでいたようだった。二万二千キロメートルを踏破した五十八日間の船旅が終わろうとしていた。

入港日が近づくと、移民たちはそわそわと一月半の間に散らかった荷物の整理に取りかかった。大方の者が着物姿からにわか仕立ての洋装に衣装替えした。

フサノも木綿の袷(あわせ)から洋装に着替えた。神戸で末廣叔父が買ってくれた白いブラウスと地味なスカート。よろけないように靴は踵の低いものを選んでいた。デッキに出て外側から船室の窓ガラスに映すと別人のような自分がいた。フサノは髪を両手で押さえつけ、洋装に合うように整えた。

フサノたちの若狭丸は、第一回移民の笠戸丸より五日余分に航海し、ブラジルの赤い大地テラ・ローシャにたどり着いた。移民たちは接岸までの二日間、沖泊まりで検疫と入国審査を受けた。

到着した六月中旬は、夏を迎える日本とは正反対にブラジルは冬に入る時期だった。六月から十一月は乾期で、コーヒー豆の収穫が最盛期にさしかかる頃でもある。フサノたちは到着早々、ファゼンダと呼ばれるコーヒー農園で農作業に投入されることになっていた。

サントス港にさしかかったとき、目に入ったのは樹木に覆われた低い山々が連なる寂しげな風景だった。それから何キロメートルか河口を遡ると、左手に色鮮やかなサントスの街並みが広がっていた。赤い瓦屋根の下は青、黄、緑といった原色の壁。それが、フサノたちが目にしたブラジルだった。

笠戸丸以来、日本移民が第十四埠頭に第一歩を記してきたサントス港は一五四三年に建設され、約八十キロメートル離れたサンパウロの外港として栄えてきた。フサノたちが着いた頃はコーヒーの取引市場が経済活動の中心だった。

午前三時半に起こされ、七時半頃上陸すると、埠頭のすぐ脇の引き込み線に移民を運ぶための列車が待機していた。フサノたちは荷物をまとめ、家族単位で乗り込んだ。布団をむきだしのまま縄でくくって担いでいる家族も少なくない。

ギョッとさせられたのは、外側から大きな錠前がかけられ、ガチャンという音が響いたときだ。囚人や奴隷を運ぶ感覚なのだろう。逃げるに逃げられない気分にさせられた。木箱をつないだような移民専用列車はガクンと大きく揺れて発車した。車内は固い木製のベンチで、日本では見たことのない巨大な蒸気機関車に引っ張られていた。
サントス港を出ると、蒸気機関車は湿地帯やバナナ畑を抜けたあと、巨体を震わせながら急勾配をゆっくりと登り、クバトンという駅で停車した。そこで列車は六両ずつに分けられ、アプト式牽引線につながれ、ケーブルに引かれてノロノロと登りはじめた。

標高八百メートルのサンパウロに行くには、そうして海岸山脈を越える必要があった。山頂の駅で列車は再び十二両に戻され、サンパウロに向かった。右手の丘に建つ宮殿はブラジルがポルトガルに対して独立宣言を発した場所だと通訳が言った。サンパウロまで、あと八十キロもない。


文/小川和久

「アマゾンおケイ」の肖像

小川 和久

2022年9月26日発売

2,310円(税込)

四六判/368ページ

ISBN:

978-4-7976-7416-3

女は凄い! 人間は凄い! 生きる力が伝わってくる。
柳田邦男氏(ノンフィクション作家)激賞!

──13歳でブラジル移民、横浜でカフェ経営、上海で外交官と恋に落ち、強運で一攫千金、女性実業家として大成功するが……「自立した女性」として激動の20世紀を生きぬいた「母」の波瀾万丈の人生を描く入魂のノンフィクション!

女手ひとつで自分を育てた「母」の数奇で破天荒な人生を丹念に追跡し活写!──熊本の没落地主の家に生まれ、13歳で叔父夫婦とブラジルへ移民、コーヒー農園を脱走してダンサー&タイピストとして自活。横浜でカフェを経営し、ビジネスを学びに渡った上海でアメリカ人外交官と運命の恋に落ちるが、別離。しかし宝くじで一攫千金! 女性実業家として大成功するが、戦中戦後の混乱ですべてを失い……「いついかなるときでも、凜とした女性として一度たりとも誇りを失わなかった」と著者が回想する「母」に捧げた傑作ノンフィクション!

小川和久

1945年12月、熊本県生まれ。軍事アナリスト、作家。特定非営利活動法人国際変動研究所理事長。静岡県立大学グローバル地域センター特任教授。
陸上自衛隊生徒教育隊・航空学校修了。同志社大学神学部中退。『日本海新聞』記者、『週刊現代』(講談社)記者などを経て、日本初の軍事アナリストとして独立。
外交・安全保障・危機管理(防災、テロ対策、重要インフラ防護など)の分野で政府の政策立案に関わる。国家安全保障に関する官邸機能強化会議議員、日本紛争予防センター理事、総務省消防庁消防審議会委員、内閣官房危機管理研究会主査などを歴任。
橋本内閣における普天間基地返還交渉、小渕内閣における情報収集衛星とドクター・ヘリの導入などで中心的な役割を果たす。『フテンマ戦記 基地返還が迷走し続ける本当の理由』(文藝春秋)、『日米同盟のリアリズム』(文春新書)ほか著書多数。

新着記事

この記事に関連するニュース

トピックスRSS

ランキング

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

デイリー: 参加する
ウィークリー: 参加する
マンスリー: 参加する
10秒滞在

記事にリアクションする

次の記事を探す

エラーが発生しました

ページを再読み込みして
ください