1. トップ
  2. 新着ニュース
  3. ライフ
  4. カルチャー

ブラジルに移民した13歳の少女が体験した、赤い大地のコーヒー農園での開拓と労働

集英社オンライン / 2022年11月8日 14時1分

ブラジルに移民した十三歳の小川フサノが送り込まれたのはファゼンダ(コーヒー農園)だった。テラ・ローシャの上に拓かれた広大なコーヒー農園での農作業に日々の家事。重労働をこなしながらフサノは勉学に励み、射撃や乗馬を覚え、成長していくが……。作家・軍事アナリストである小川和久氏が自身の母親を描いたノンフィクション単行本『「アマゾンおケイ」の肖像』の一部を抜粋、再構成して紹介する。

ファゼンダ・ダ・セーハ

サンパウロの日本移民史料館に残る『組合第一回移民原簿 若狭丸 大正六年四月二十日神戸発 大正六年六月十五日サントス着』によれば、フサノたちが送り込まれたのはサンパウロから北東に鉄道で四百キロあまり、さらに別の鉄道で東に八十キロほど入ったファゼンダ・ダ・セーハだった。標高一千メートルあまりの高地にある。



福岡県七家族、福島県と熊本県各三家族の十三家族からなる総勢五十四人。男二十六人、女二十二人に子供六人が含まれていた。

フサノたちがあてがわれた棟割り長屋風の移民小屋は、開かれて百年以上が経った歴史のある農園だけあって、外見だけは赤瓦に白い漆喰壁だったが、家具はなく、寝具は土間に敷かれた枯れ草だけ。枯れ草の匂いは刈り入れた後の稲藁を思い出させた。

ファゼンダは、絵の具をたっぷり塗りつけた原色のキャンバスのようだった。臙脂に近いテラ・ローシャと呼ばれる赤土の上に、碁盤の目に整然と植えられた濃緑色のコーヒーの樹海。目をこらすと赤く熟したコーヒー豆が鈴なりになっている。

ローシャとはポルトガル語で紫色のことだ。玄武岩と輝緑岩が風化してできたテラ・ローシャはコーヒー栽培に適した肥えた土壌だが、粒子が細かく、雨に濡れると泥濘に、晴れた日には土埃になる。ファゼンダの中を行き交う牛車や馬車は下半分が赤く染まっていた。

ファゼンダの朝は早い。起床は午前四時。シーノという鐘の音でたたき起こされる。朝食代わりのコーヒーを飲み終える六時前、またシーノが鳴って、移民たちはコーヒー園に出かける。

集合場所から先は、農場主ファゼンデイロにコーヒー園の運営を任されている監督が、馬上でブジーナという角笛を吹きながら作業場所に数十人単位で移民たちを誘導していく。奴隷制時代の名残で、手には鞭、腰にはピストル。

昼食は本部の鐘と監督のブジーナを合図に午前九時にとる。時計で労働時間を管理するわけではないから、自然、農作業は日没まで続くことになる。

重労働の日々

コーヒーの木は高さ三メートルほど。一畝に二十本が植えてあり、家族によって二畝、三畝と受け持つ。コーヒー豆の取り入れは、低い枝のものは立ったり、中腰で、高い枝は三脚のハシゴに登って行う。

実をちぎって収穫するから、慣れないうちは掌がマメだらけなる。それでも潰れたマメを布で巻いて作業が続けられた。こぼれたコーヒー豆は、熊手状のレーキでかき集め、ペネーラという篩(ふる)いで土砂やゴミを取り除く。細かいテラ・ローシャの土埃で、身体全体が赤く染まっていった。

なにしろ、一日二人で働いても一袋五十リットルのコーヒー豆しか収穫できず、それでは一日五百レイスから一ミルにしかならない。五百レイスだと三十三銭、一ミルだと六十六銭。三十日間休みなしに働いても十円から二十円ほどだ。

実際にはそれほど働ける日がある訳ではないし、生活費もあるから貯まる金は知れている。日本移民は渡航費など四十円の負債を分割払いする義務がある。掌にマメができようと、腰が痛かろうと、移民たちは休む訳に行かなかった。

採取したコーヒー豆は一袋六十キロ。米一俵と同じ重さだった。最初のうち、フサノには持ち上げることもできなかったが、慣れというものは恐ろしい。

日が経つにつれてコツを覚え、難なく担げるようになっていた。フサノたちはコーヒー豆を詰めた木綿や麻の袋を担ぎ、馬車まで運んだ。袋には番号が振ってあり、監督が手帳に控え、空袋は持ち主に戻される仕組みだ。

あまり知られていないことだが、コーヒーは純白の花を咲かせる。八月末頃から十月にかけて三回ほど咲き、最も花が多い二回目にはファゼンダ全体を可憐な花が埋め尽くす。花が月下美人のように二、三日で薄命な生涯を終えると、コーヒーチェリーと呼ばれるコーヒー豆が実る。

1930年代のブラジル移民たちによるコーヒー採取風景(フサノたちが働いていたファゼンダとは異なる農園の写真/国立国会図書館ウェブサイト「ブラジル移民の100 年」より転載)

女たちは農作業のほかに、炊事、洗濯などいくつもの家事をこなしていた。小川のほとりで洗濯板を使って衣類を洗うのは日本の農村でも見られた光景だったが、ブラジルの女たちは腰まで川に浸かって洗濯するし、石油缶に入れた石けん水で洗濯物を炊き、草の上に拡げて晒してから、それを洗濯板に叩きつけて真っ白にしてしまう。

これにはフサノも面食らったが、早く洗濯を済ませることができるうえ綺麗になるので、見習うことになった。

水汲みと薪集めもかなりの重労働だった。ファゼンダのコーヒー乾燥場には大きな水タンクが備えられており、女たちは水の入った二十リットル入りの石油缶を頭に乗せて、自分の小屋との間を何往復もしなければならなかった。

男たちが林を切り拓くと、女たちは薪に使えそうな小枝を集め、その束を頭に乗せて運ぶ。農作業の現場に食料を運ぶのも女で、二つの袋を振り分け荷物にし、前の袋には食料、後ろのほうはビンに詰めたコーヒーを入れていた。

慣れない農作業に追われる毎日だったが、それでもフサノたちはファゼンダの生活になじんでいった。ブラジルの習慣通り、道行く人と朝はボンジーア、昼間はボアタールデと普通に挨拶を交わすようになった。

おはよう、こんにちは、である。家では日本語で会話していた時代だったが、子どもたちは、いつの間にかコーヒーをカフェー、米をアロイスと、ポルトガル語で呼ぶようになっていた。

勉学、射撃、乗馬……成長していく少女

二年あまりのファゼンダ暮らしで、フサノは日本で女学校に行ったくらいの学力を身につけていった。最初の半年が過ぎるあたりから、末廣叔父が難しい日本語の読み書きを、日本から送られてくる何カ月か遅れの雑誌を教科書代わりに教えてくれた。算術も習った。

ほかの家族の子弟も加わり、小屋の外のむしろの上で車座になって勉強した。ちょっとした寺子屋だった。ポルトガル語は監督の配下のブラジル人たちをつかまえては教わった。

現地の小学校で使っている教科書を持ってきてくれたから、難しい言葉はともかく、日常会話と基本的な読み書きもできるようになった。フサノの十四歳の脳みそは、ありとあらゆる知識を海綿のように吸収していった。

日本の女学校に行っても絶対に教わらないことも身につけた。ひとつは家畜の解体法、いまひとつは射撃と乗馬である。

前に述べたように、移民の家には護身用と狩猟用を兼ねて必ず猟銃があったが、末廣は拳銃も手に入れていた。甲種合格で二年間の兵役に行った末廣は、射撃が得意だった。日露戦争で活躍した三十年式歩兵銃を撃ったというのが自慢だった。

単発式だった日清戦争当時の村田銃と違い、列国の小銃なみに五発の銃弾を素早く撃つことができた。末廣は猟銃を撃つときは伏射するように言った。

フサノには猟銃は重く、狙いが定まらなかったからだ。暗夜に霜の降る如く、と帝国陸軍式の引き金の落とし方を教えられた。それだとガク引きにならないから地面を撃つこともない。

中古品を安く買ったらしい拳銃は使い込まれ、角が擦れていた。銃把と呼ばれる握り手の部分にはS&Wの文字が刻まれ、レンコンのような形の弾倉には六発の弾丸が込められていた。両手で銃把をしっかり握り、銃身先端の照星の延長線上に目標を捉える。

教えられたとおり静かに引き金を落としたつもりだったが、フサノは反動で尻餅をついてしまった。末廣叔父が愉快そうに笑った。

フサノは馬とも仲良くなった。ファゼンダには馬車を引くための脚の太い大型と、監督たちが乗っているスマートな馬の二種類がいた。どちらも優しい目が愛おしかった。フサノが乗りたそうにしていると、ファゼンダの使用人たちは快く鞍に押し上げてくれた。

こんな時、子供は得だ。やがてフサノはファゼンダの中を馬で駆け回るようになった。ちゃんと仕事をしていたので、監督や末廣叔父に叱られることはなかった。

成人後の小川フサノ。ブラジルの後、大阪、横浜、上海で暮らし、日本に再帰国後、東京で女性実業家として成功した昭和十年代、日本橋界隈にて。

叔父夫婦との二年間は、農作業や家畜の世話、炊事、洗濯などに追われる中で想像した以上に早く過ぎていた。

ファゼンダ暮らしの間に、フサノの身体は女らしくなっていた。男たちの視線が服の上から身体をなめ回していく。農作業が終わり、小屋の下の川で身体を洗うときも、物陰からのぞく視線を感じた。

フサノに視線を投げたのは男たちばかりではなかった。女らしさを増していくフサノに、叔母のツノは感情を爆発させるようになっていた。夫の末廣と姪のフサノが男女の関係になりはすまいかと、気を揉んでいることがわかった。末廣は意識してフサノを他人行儀に扱うようになった。

娯楽などないファゼンダでは、構成家族として同居している親類縁者の若い娘に家長が手を出し、妻との間で刃傷沙汰に及ぶことも稀ではなかった。フサノは末廣から手を出されることはなかったが、ツノが自分たちの間柄を疑っているからには、無事に済むとは思えなくなっていた。

文/小川和久

「アマゾンおケイ」の肖像

小川 和久

2022年9月26日発売

2,310円(税込)

四六判/368ページ

ISBN:

978-4-7976-7416-3

女は凄い! 人間は凄い! 生きる力が伝わってくる。
柳田邦男氏(ノンフィクション作家)激賞!

──13歳でブラジル移民、横浜でカフェ経営、上海で外交官と恋に落ち、強運で一攫千金、女性実業家として大成功するが……「自立した女性」として激動の20世紀を生きぬいた「母」の波瀾万丈の人生を描く入魂のノンフィクション!

女手ひとつで自分を育てた「母」の数奇で破天荒な人生を丹念に追跡し活写!──熊本の没落地主の家に生まれ、13歳で叔父夫婦とブラジルへ移民、コーヒー農園を脱走してダンサー&タイピストとして自活。横浜でカフェを経営し、ビジネスを学びに渡った上海でアメリカ人外交官と運命の恋に落ちるが、別離。しかし宝くじで一攫千金! 女性実業家として大成功するが、戦中戦後の混乱ですべてを失い……「いついかなるときでも、凜とした女性として一度たりとも誇りを失わなかった」と著者が回想する「母」に捧げた傑作ノンフィクション!

この記事に関連するニュース

トピックスRSS

ランキング

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

デイリー: 参加する
ウィークリー: 参加する
マンスリー: 参加する
10秒滞在

記事にリアクションする

次の記事を探す

エラーが発生しました

ページを再読み込みして
ください