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死を目前にした病床で佐野眞一さんが伝えたかったこと

集英社オンライン / 2022年11月15日 12時1分

ノンフィクション作家の佐野眞一さんが9月26日に逝去して50日。神式の葬儀では忌明けの「五十日祭」を迎える。ノンフィクションライターの安田浩一氏は、佐野氏のデータマンとして数々の佐野作品をアシストしてきた。死の直前の病床を見舞い、葬儀に参列し、師の骨を拾った安田氏が「ノンフィクションの巨人」の背中を追いかけた日々を綴る。

佐野さんの手を握ったのは、これが3回目

ああ、こんなに小さくなっちゃって。

火葬場の収骨室。炉から出てきたばかりの佐野眞一さんは、骨と灰の小さな山になっていた。とたんに寂しさが襲ってきた。

あの大きな背中も、人懐こい笑顔も、グローブのような分厚い手のひらも、そこにはない。肩を左右に揺らし、まるでキャッチセールスのように人を選ばず声をかけ、取材がうまくいってもいかなくても、飲み屋で大酒を食らってから一日を終える佐野さんの姿は、もう見ることができない。



もはやこの世に存在しないのだという現実を、冬枯れの樹木にも似た白い骨片の中に見た。

存命中の佐野さんと最後に会ったのは9月中旬だった。そろそろ危ないかもしれないと、旧知の編集者から連絡を受け、私は佐野さんが入院している病室を訪ねた。

ベッドに横たわった佐野さんは、もはや言葉を発することのできる状態ではなかった。痩せ細った姿が痛々しかった。

「佐野さん」

話しかけても反応はない。いつもだったら「よう」と野太い声で応答してくれるのに。
かろうじて開いたままの目は光を失う瞬間をただ待っているかのように、諦めと倦怠の色に満ちていた。

何を話したらよいのだろう。死を目前にした人に、どう呼びかけたらよいのだろう。言葉の接ぎ穂を失った私は、佐野さんの右手をそっと握った。「早く元気になって仕事しましょうよ」と、およそ現実的とは思えない言葉をつぶやいた。

でも、本心ではあった。時に周囲を辟易させるほどの佐野さんのパワーを、ノンフィクションを書くことに向けた情熱を、もう一度、目にしたかった。

私は両手で佐野さんの手を包みながら、無駄を承知で祈った。体温が伝わってきた。からだは痩せ細ってきたのに、手のひらだけは分厚いままだった。
「佐野さん」。私はもう一度、呼びかける。

その時、開いたままの佐野さんの手がわずかに動き、私の指先を包み込むように握り返してきた。小さな握力は、何を訴えていたのだろう。佐野さんの視線は私ではなく、病室の白い天井に向けられたままだったけれど、きっと私に何かを伝えていた。そう思いたかった。

そういえば──佐野さんの手を握ったことが過去にあっただろうか。ある。たぶん3回目だ。指先に力を込めて無言の会話を交わしながら、私の記憶は出会ったばかりの頃を思い出していた。

1回目の握手:「取材を手伝ってくれないか」

今世紀初めのことだ。私は佐野さんに都内のホテルのラウンジに呼び出された。その頃、私は週刊誌記者を辞めて、フリーランスとして独立したばかりだった。

30代後半にもなって、食っていくのに精いっぱいだった。正直、ライター稼業からの足抜けを考えていた。好きで始めた仕事なのに、その頃は他に仕事がないからと惰性で続けているようなものだった。

そんな私に、しかもほとんど面識のない私に、佐野さんは「取材を手伝ってくれないか」と声をかけてくれたのだ。

それまで、佐野さんとは一度しか会ったことがなかった。

週刊誌記者時代、大手スーパー・ダイエーの経営危機を取材する過程で、佐野さんにコメントを求めた。佐野さんは『カリスマ 中内功とダイエーの戦後』(日経BP社)を刊行したばかりだった。

すでに「ノンフィクションの巨人」と呼ばれていた。剛腕と呼ばれ、緻密と評され、「(本を)出せば売れる」希少なノンフィクション作家だった。

民俗学者・宮本常一の人と業績を描いた『旅する巨人』(文藝春秋)で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞して間もないころでもある。その表情は自信に満ちていた。経験によって蓄積された言葉には重みがあった。それでいながら腰は低く、人懐こい笑顔で、やっつけ仕事ばかりしている週刊誌屋の私と、ていねいに向き合ってくれた。私には、ただひたすら眩しい存在だった。

そんな佐野さんが、大物作家が、私に「手伝ってくれ」と頭を下げてきたのだ。嬉しくないわけがない。きっと、週刊誌時代の私の取材を評価してくれたのだと思った。私は舞い上がった。

後に、それが私の思いあがった勘違いであったことを知る。佐野さんは記者時代の私の取材などまるで覚えていなかった。データマンを必要としていた佐野さんは知り合いのライターに「ヒマそうなやつがいたら教えてくれ」と依頼し、その結果、まさに「ヒマ」を持て余していた私が"選抜"されたに過ぎなかった。

そうとは知らず、高揚した気持ちで「(データマンを)引き受けます」と即答した私に、佐野さんは握手を求めた。力強い握力だったことを覚えている。これが「巨人」の手なんだと思った。この握力が筆力となり、取材対象者を丸裸にしてきたんだ。

「蝶は素手で捕まえろ」

ある時期まで、私は佐野さんと一緒に走り回った。何度、一緒に地方都市を回ったことだろう。歴史の証人を探し求めて、ひたすら家のドアを叩き続けた。そのころの佐野さんは、簡単に取材を諦めるような人ではなかった。

断られたら次の家。そこもダメならもう一軒。聞き込みは終わらない。古地図と住宅地図を照らし合わせながら、「もう一軒」は延々と続く。しかも、ありきたりの取材では満足しない。

業績や経歴は書物で確認すれば十分だ、何を食って生きてきたのか、誰を愛してきたのか、どでかい失敗話はないか。とにかくそんなことを聞き出すことに血道をあげた。

取材対象者に奇行癖などがあると、ことさら喜んだ。そのことばかりに食いついて、相手が困惑する場面に出くわしたことは一度や二度ではない。

だが、それこそが「佐野ワールド」とも言うべき、実に泥臭い、しかし足音が響くような躍動感を作品に与えていた。

そうやって、いくつかの本を仕上げた。

『阿片王 満州の夜と霧』(新潮社)では、戦前に阿片密売を仕切っていた里見甫の生涯を探り、『甘粕正彦 乱心の曠野』(同)で、満州国の「夜の帝王」を追いかけ、『あんぽん 孫正義伝』(小学館)においては飛ぶ鳥落とす勢いだった時代の寵児に迫った。

取材している私も楽しかった。取材の醍醐味を知った。歩いた距離は必ず取材の結果に結びつくのだと信じるようになった。それはいまでも私にとっては信仰のようなものだ。

いつだったか、佐野さんに唐突に問われたことがある。

「安田君、キミならどうやって蝶を捕まえるかい?」

質問の意味を理解できずにいる私に、佐野さんはいたずらっぽい表情を浮かべてこう告げた。

「捕虫網を使っちゃダメなんだ。素手で捕まえるべきなんだよ」

ノンフィクション作家が語るべきは蝶の美しさではなく、自らの指に付着した鱗粉であるべきだ。佐野さんはそう力説した。

だから佐野さんがこだわったのは、スローガンや建前といった「大文字言葉」ではなく、生身の体温が伝わってくる「小文字言葉」だった。切れ者の饒舌よりも、酔っ払いのざれ言に耳を傾ける。そんな人だった。

そんな佐野さんの背中を、私は追いかけてきた。憧れながら。息切れしながら。たまに舌打ちしながら。小さな悪罵をぶつけながら。

二度目の握手:「もっと嬉しそうな顔をしろ」

二度目の握手は、私が『ネットと愛国』(講談社)で講談社ノンフィクション賞を受賞したときだった。晴れやかな席で、佐野さんに「安田君、もっと嬉しそうな顔をしなくちゃダメだよ」と叱られた。

へそ曲がりの私は喜ぶべき時に喜ぶこともできず、つまらなそうな顔を見せてしまうことが多い。

「安田君は労働運動や在日外国人など、地味だけど大事なテーマを追いかけてきたんだ。だからこそ、もっと喜ばなくちゃ。それが、取材に答えてくれた人たちへの最大の恩返しでもあるんだよ」

佐野さんにしては、なんとも常識的な言葉だった。そして、「ほんと、よくやったよ」と言いながら私の手を握ってくれた。

鼻の奥がツンとした。急いでトイレに駆け込んで、顔を洗った。佐野さんの一言は賞金よりも嬉しかった。初めて認めてもらえたような気がした。ちゃんと見てくれているんだと思うと泣けてきた。

『だれにも書かれたくなかった戦後史』の出版記念公演にて

そんな佐野さんにも蹉跌はあった。

2012年、橋下徹元大阪市長を題材とした『週刊朝日』の連載記事は、部落差別を助長させるものだったために抗議が相次ぎ、連載は初回のみで中止となった。当然の結果だったと思う。

出自を根拠に人格を否定することなど、あってはならない。日本社会に根強く残る被差別部落への偏見と差別に対する理解がなさすぎる。はっきり述べておきたい。私は絶対に許容できない。

差別の不条理を訴え続けている私としては、こればかりは何の擁護もできなかった。いや、擁護すべきでないと思った。「配慮」の問題ではなく、明確な差別として責任を問われなければならない。

その後も、「盗用問題」などが明らかとなり、佐野さんは「ノンフィクションの巨人」の座から引きずりおろされた。

たぶん、佐野さんは大きくなりすぎていた。「巨人」と呼ばれ、「先生」と呼ばれ、そこから降りることができない場所に持ち上げられてしまったのではないかとも私は考える。

佐野さんはそこに安住していなかっただろうか。鱗粉は、果たして佐野さんの手指に付着していただろうか。

はるか先を行く背中を必死で追いかけた

2018年、玉城デニー氏が沖縄県知事に初当選した際の選挙事務所にて。高良鉄美・琉球大教授(左=当時)と、TBS「報道特集」キャスター金平茂樹氏(右=当時)と。

だから私は、見知らぬ町を一緒に歩いた日々を、ただひたすら懐かしく思う。陽が沈み、黄昏が消えても、私たちは歩き続けた。いや、はるか先を歩く佐野さんのいかつい背中を、私が必死で追いかけた。

人の死にも、どんな事件にも、“業”を見いだす人だった。喜怒哀楽に流されず、細部に宿る魂を探し求めた人だった。

そんな佐野さんを私は愛した。ときに恨んだ。批判もした。そしていま、寂しくてたまらない。

「安田君よう、どうだい、いっちょやってみないかい?」

仕事を振ってくれたときの佐野さんの声が耳奥に残っている。

ええ、やりますよ。やればいいんでしょ。あなたのことを、いつかきっと書きますよ。あなたがやったように。追いつくことのできなかったあなたの背中を乗り越えるために。

文/安田浩一

さの・しんいち●ノンフィクション作家。1947年東京生まれ。早稲田大学第一文学部卒。1997年、『旅する巨人 宮本常一と渋沢敬三』で第28回大宅壮一賞を受賞。2009年、『甘粕正彦 乱心の曠野』で第31回講談社ノンフィクション賞を受賞。主な著書に『巨怪伝 正力松太郎と影武者たちの一世紀』『カリスマ 中内功とダイエーの「戦後」』『東電OL殺人事件』『だれが「本」を殺すのか』『沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史』『津波と原発』『あんぽん 孫正義伝』など。

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