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「ずっと、ぬかるんでいたい」48歳のふかわりょう、五十にして天命を知る?

集英社オンライン / 2022年11月20日 14時1分

タレントのほかエッセイストしても独特の世界観を提示してきたふかわりょう。このたび、何気ない日常を綴った最新エッセイ集「ひとりで生きると決めたんだ」が発売。わずらわしい社会を悲観し、器用に「おひとりさま」を謳歌する覚悟を持ったのかと思いきや、そうではなかった。

しっくりくる肩書がない、人生が楽しくなる「週5日制」、愛情でできた悪魔・東野幸治さんのこと、人生最後の通信簿……等々、ほとんどの人が「どうでもいい」で片づける“重箱の隅”に宇宙を感じる男・ふかわさんのエッセイは非凡でニッチ。

でも読みすすめるごとに既視感を覚え、共鳴し、気づけば“重箱の隅”が気になってしょうがない(笑)。その発想やこだわりはどこから生まれるのか。そしてタイトル「ひとりで生きると決めたんだ」に込められた真意を語ってもらった。


ひとりで生きるって言っても実際は生きられない。

–––––タイトル「ひとりで生きると決めたんだ」に、羊がただ一匹、佇む表紙。思わず引き込まれてしまいました。見た瞬間、ふかわさんの叫びが聞こえてくるようでした。

もう、すべてがこの表紙に集約されているので本編はおまけです。本編は1ページ目から始まる“あとがき”みたいなものなので読まなくてもいいぐらい(笑)。

ただ、タイトルやカバーありきで文章を綴ったわけではなく本編があるからこのような表紙が生まれたわけで。ラテアートみたいなものです。

これまでの人生で知らず知らずのうちに溜まっていた心の中の澱みのようなものをお湯で溶いて提供するっていうのが僕の(執筆の)基本スタイルで、全部並べて浮き上がってきたものがタイトルになったりするんです。

新潮社より、2022年11月17日発売

––––なぜ表紙を羊に?

以前、アイスランドに行ったときたくさんの羊を見たんですが、どこか儚く悲しげなんです。その表情が僕の心情にすごく合っていて、そんな羊と重ねることでタイトルの言葉は決して強さや自信ではなく、むしろ弱さからくる言葉だって伝えたかった。

同時に、羊の耳には管理ナンバーがパチンとつけられいて結局、群れで生きる宿命というか。人間社会と似ているところがあって。

だから、羊は僕自身でもある。いくらひとりで生きるって言っても、実際は生きられない。でも、こういう言葉を口にする心情はもしかしたら誰かと共鳴するかもしれないって思ったんです。

––––「ひとりで生きると決めたんだ」は、強固なメッセージかと思っていました。厭世で「おひとりさま」を自負する覚悟や達観ではないんですね。

むしろ、強がりや弱音を含んでいて、なんならちょっと涙ぐんでる。その余韻や余白が「ひとりで生きる」で止めずに「ひとりで生きると決めたんだ」ってところに出ていて、そこは明確に喜怒哀楽を表現できるものじゃない。

僕は日常の中で気分の浮き沈みや変化が激しいので、このタイトルを掲げることで不安定に蠢く感情を支えているというか。この言葉によって情緒不安定な感情を支えているところがあるんです。

だからまだ迷っているし、足元がぬかるんでいる。でも、そういう心境だからこそ見える世界を大切にしたいって思いもあるんですよ。

–––つまり、落ち着かない心じゃないと見えない世界を大事にしたいと。

そうですね。ほとんどの人が気にしない“重箱の隅”に目を向けることによって、その世界が開かれるわけです。ただ、僕は誰も気にしないようなことを「重箱の隅」だと思っていない。むしろめちゃくちゃド真ん中に立ちはだかる大きな壁なので、避けて通れないんです。

確かに結びつける事象に多少の乖離がありますけど、みんながそれを「重箱の隅」って言うならそれでいいよって感じで。

喜怒哀楽にハマり切らない曖昧なものが好き

––––でも、その乖離が新鮮で面白い。例えば「同じフレーズでも微妙にメロディーラインやコードを変えるべートーベンの曲」と「時の流れと共に少しずつ変貌する故郷」を同じ線上に並べる話とか。かけ離れすぎていて、なかなかそこは結びつかないです(笑)。

そこはもう勝手に結びついちゃう。買い物で、この食材とこの食材を合わせたら、この料理ができるかなと考えるのに近いのかも。僕は料理の組み合わせはできないけど、「べートーベン」と「故郷」をつなぐ橋を作る「土木技術」は好きなんです。

ただ、これは創作においてはいい作用をするけど日常生活、例えば恋愛においてはややこしくなる。
具体的な現象としては電話の向こうから聞こえた相手の何気ない相槌と、以前、嫌なことが起こる前触れだった別の人の相槌がふと結びついてしまうとか。「これはあのときの相槌と同じ周波数だぞ」って。

––––別れの話の予感的な?

そう。実際は違うかもしれないのに勝手に昔の記憶と結びついて、起きてもいないストーリーに感情が支配されてコントロールがつかなくなってしまう。だから大変です(笑)。

他にも、中学時代、からかわれると「やめろよ」って肘で押す動作をするAくんって子がいたんだけど、しばらく彼のことは忘れていたんですね。でも去年、雨上がりの夜、道のド真ん中にいたカエルを動かそうと思ってちりとりでツンツンってやったら、「やめろよ」って動作をして。その瞬間「Aだ!」って(笑)。

––––ははは(笑)。

そこで、中学時代のAくんが発していた圧とカエルが重なっちゃったんですよ。で、そこから文章が始まったりするので創作においてはすごくいい影響がある。

バラエティ番組でも、その回路が武器になったりもする。でも同時にややこしいこともあるので、結局「ひとりで生きると決めたんだ」って言わざるを得なくなるわけです(笑)。

––––でも、そういう日常の些細な瞬間に目を向け積み重ねていくとメンタルの可動域が広くなって。いろんなことに心が動き感動しやすくなる気がします。

確かに、喜怒哀楽のわかりやすい枠にハマらない、曖昧なところに位置するものは僕は好き。泣くだけが感動じゃないし、あははって声を出すだけが笑いじゃない。映画にしてもじんわり体が温まるぐらいのものが根底では好みだったりもします。

だからタモリさんのように、なんでもない坂道で感動できる人って憧れなんです。そこには想像力が必要かもしれないけど、そういう人って多分幸せだと思うし豊かだと思う。僕もそうありたいです。

「わからない時間」を大切にしている

––––最後に、ふかわさんが、日常の中で心がけていることを教えてください。

「わからない時間」を大切にしているところはあるかもしれない。
今って検索すれば何でもすぐわかってしまうから、わからない時間がどんどん削ぎ落とされているじゃないですか。
でも、わからない時間って意外と豊かさにつながる時間じゃないかと思っていて。

僕は毎週日曜日にラジオ(文化放送「阿川佐和子&ふかわりょう 日曜のほとり」)をやっているんですけど、いつも答えを出さないんです。

修学旅行の夜や遠足のバスの後ろで話しているような感じで、答えにたどり着くまでの道中を楽しんでいるところがある。そういう部分を削ぎ落としちゃうと、社会の大事な隙間もなくなってしまうなって思いがあるんです。

––––あえて答えを出して安心しなくてもいい。わからないままの自分を受け入れていいと。

実際、人の心って二極じゃないですからね。もっとグラデーションでありもっと曖昧。
正解か不正解かの二元論では語れないものがたくさんあって、あれかな?これかな?って思いを巡らす時間こそが有意義じゃないかなって思う。

だから僕は白黒つかないわかりにくいものに惹かれる。ぬかるんでいる自分や時間を大切にしたいと思っています。

取材・文/若松正子 写真/松井秀樹

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