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10分ですべての答えを欲しがる「ファスト教養」現象を加速させた「いじめマーケティング」と「オンラインイベント症候群」【レジ―×宇野常寛】

集英社オンライン / 2022年12月14日 19時1分

「役に立つ」知識を手っ取り早く身につけ、ビジネスパーソンとしての市場価値を上げたい。そんな欲求を抱えた人たちに熱烈に支持される、YouTubeやビジネス書などの「ファスト教養」。そういった現象を分析した新書『ファスト教養』が話題を呼んでいるレジ―氏と、評論家で批評誌〈PLANETS〉編集長の宇野常寛氏が対談。「ファスト教養」が広まる背景にある、メディアの問題について語る。

「レジーさんと絶交するのかもしれない」

宇野 この本のタイトルを見た時、「俺、もしかしたらレジーさんと絶交するのかもしれない」と思ったんですよ。

レジー (笑)。

宇野 もちろん、言いたいことはよくわかるんです。自分たちが愛してきた知的な営みが、ビジネスパーソンのためのサプリメントのようなものとして提供されて、いかに「商売の役に立つか」という基準でしか価値がないかのように扱われていたり、そのせいでものすごく雑にまとめられたものが広まってしまうのを見ると、とても悲しくなる。



ただ、その一方でこうした言説は「ビジネス本のファスト教養をありがたがる無教養な人たち」に石を投げて、「知的で文化的な自分たち」を肯定したいという人たちの欲望に応える「投石機」として消費されてしまうことが多いわけです。

実際にこうやって文化系が苦手なビジネスマンやブルーカラーの傾向を「分析」という形式で揶揄的に「いじり」倒して、「あいつらと自分たちは違う」という文化系の自意識をくすぐる本は定期的に出て話題を集めます。これは若手から中堅ライターが注目を集める一つの手段として確立しているとすら言えると思います。

けれども、僕はそういう本を書く人やそれをありがたがる人たちが実際に文化的だったり、教養があったりしたケースを一つも知らない。どちらかというと、そうやって他のスタイルで生きている人たちをバカにして自己肯定したがる層というのは、文化や教養なんて実はまったく必要としていなくて「文化的な自分が好き」な人たちなのだと思います。

現実問題として、目立っている人たちに石を投げてやりたいという人たちの気持ちに乗っかって、自分のことを棚に上げて何かしらダメ出しするということは、実際に「教養」として機能する研究や批評を生むよりもはるかにかんたんなことで、実力はないけれど目立ちたい人たちが手っ取り早くその欲望を叶える方法の一つですし、それをわかっていて利用する編集者も少なくないと思います。

こうした知的なコンプレックスの解消法として、実際に豊かな文化や教養を伝える仕事を手掛けるのではなく、「イタいやつらがあそこで目立っている」と名指しして溜飲を下げるのは、とても卑しいことだと僕は考えていて、軽蔑しか感じません。

僕はこうした「あいつらはバカで、自分たちは賢い」と線を引いて、SNSで数字を集めようとするやり口を「いじめマーケティング」と呼んでいます。『ファスト教養』というタイトルを見て、「もしかしたらレジーさんもそっち側へ行ってしまったんじゃないか」と不安になったんですよ。

社交スキルアップのために古典を読み、名著の内容をYouTubeでチェック、財テクや論破術をインフルエンサーから学び「自分の価値」を上げる…こうした「教養=ビジネスの役に立つ」といった風潮が生む息苦しさの正体を明らかにした『ファスト教養』

レジー 確かにタイトルだけを見ると、そう思われてもやむを得ない部分もあるのかもしれないです。言葉のインパクトを最大限に押し出したものではあるのですが、何かを揶揄するようなニュアンスを感じる人がいてもおかしくはないですよね。

宇野 でも、実際に読んでみたら全然そんなことはなかった。それどころか、僕がいま指摘したように「いじめマーケティング」的にこの本が消費されてしまうことを完全に織り込んで、ただ「ファスト教養」やそれにかかわる人々を断罪すればいいという立場に決して立たないように配慮しながら、この「ファスト教養」という現象を歴史的に掘り下げていく。

かいつまんでいうと、レジーさんはそもそも明治政府の富国強兵、殖産興業の一環として導入された「教養」という概念そのものが、「ファスト」な側面があり、それが今日の労働市場などの環境の中で発言したという主張を展開しているわけです。

つまり、「教養」のファスト化そのものが必然的なものであり、これに対抗するには、もっと根底のレベルからこの国の「知」の位置づけを変えていく取り込みが、それも多方面から必要であることが示唆されています。この議論は、とても説得力があり、指摘も重要なものだと思います。

そして誰かを悪者にして、イージーなサプリメントには絶対にしない、という誠実さにも好感を持ちました。レジーさんが悪い編集者に騙されて、いじめマーケティング本を書いてしまったんじゃないかと、一瞬でも疑った僕を、許して欲しいです(笑)。

レジー ありがとうございます。ホッとしました(笑)。ファスト教養的なものを単純にこき下ろす本にだけはしちゃいけないというのは、最初からずっと思っていたことです。おっしゃる通り僕自身も本の中で批判的に分析している論者や言説に親しんでいた時期もあり、そうしたものが生まれるある種の必然性も体感的にわかっていた。なので批判するだけでなく、「ビジネス」と「文化」の間にどうやって橋を架けるかを意識しました。

誰も健全な業界を作れなかった

宇野 ただ、残念ながらここまで配慮して、先回りして、丁寧に議論を進めたレジーさんの意図はおそらく半分ぐらいしか伝わっていない。僕の周りでも、この本を「文化系によるビジネスパーソン批判の決定版が出版されて、溜飲が下がった、よくやった」という他虐ポルノ的な見方で読んでいる人を何人も見かけました。文化系的な自意識を振りかざすなら、本一冊くらいもっと丁寧に読む努力が必要じゃないかと思うのだけれど……。

レジー あるいは「この著者はファスト教養を叩いているだけ」みたいな感想もやっぱり多いですね。どちらでもない場所から考えなきゃいけない、というのが自分のメッセージなのですが。

宇野 でもこうした反応そのものに、レジーさんがこの本で指摘した日本の近代知の性質がそのまま表れているとも言えます。レジーさんは謙虚だからそこまで強い口調では書いていないけれど、この本にはそういうシビアな認識が通底している。

レジー お話を伺っていて、期せずしてものすごく大きなテーマに手をつけてしまっていたんだというのに改めて気がついて背筋が寒くなっています(笑)。最初に「ファスト教養」という言葉を使った記事を出した際には、シンプルに「ファストなコンテンツ」の受容のされ方についての話が中心でした。本を執筆していく中で自分の問題意識を深掘りしていくうちに、結局は社会そのものの話になってしまったというか。

宇野 ただ、僕は年齢的にもキャリア的にも「ファスト教養」や「いじめマーケティング」本がはびこるこの出版業界を他人事として、安全圏から批判すればいい立場にはいないな、と思ったんです。言い換えれば僕はもう本当にナイフを突きつけられたような気分になったんですよ。

僕もこのような不毛な言論状況の進行を止められなかったひとりなのは間違いない。「業界が悪い」と他人事で済ませるのではなく、自分のできることを考えていかなきゃいけないと強く思いました。

この10年くらい、手っ取り早く数字や業界受けが欲しくて、誰かを貶めてアテンションを集めて延命しようとする人たちから遠ざかっていったんです。誰にも告げずにその人のSNSをミュートとして、こちらからは決して連絡しないようにした。

ただ、今の僕は少し考え方が変わっていて、彼らがこうした卑しい仕事に手を染めなくても、ちゃんと食べていけて、そして「無教養なあいつらをバカにする」のではなく自分が書きたいことを書いて新しい教養をつくっていけるような仕事を提案して実現していくようなアプローチが、難しいけれどいちばんいいんじゃないかと思うようになってきました。

「ファスト教養」本を書いてしまうような人たちや、「いじめマーケティング」に手を染めてしまう人たちを叩くんじゃなくて、そっと遠ざかる。その上でタイミングを見て彼らに「一緒に面白いことをやろう」と改めて提案する。それしかないんじゃないかなと。

正直最近は「40代も半ばに差し掛かってきたし、書き手としての時間を大事にしようかな」とか「編集は若い人たちに任せて、半分引退しよう」とか考えていたけど、実はこの本を読んで、ここで引き下がっていちゃダメだなと改めて思ったんです。

結局、僕たちは健全な業界を作れなかったわけです。たとえば本格的に長い論考が読めて、まともな原稿料が出るようなWebサイトがもっとあれば全然状況は違ったはず。けれど、既存の出版社も僕らみたいなインディペンデント系もそうした場を作れなかった。

もっと言えば、出版社にせよ著者にせよ、本来はもっと経済的、時間的な余裕がないと本なんかまともに作れないわけですよね。だから、メディアをやっている人間として、やっぱり知的なものを楽しむ読者層をしっかり育てる責任がある。そういう問題意識が明確になったのも、レジーさんの本のおかげです。

マゾヒスティックな快楽を受け取れる読者を育てる

レジー 文化の受け手をどう作っていくかという話は、僕も最後の第6章を書く上での大事な論点として考えていました。自分はこうやって本を書いたりして何かを発信する立場にいる一方で、それだけを生活の糧にしているわけではない点では「半分は発信者だけどもう半分は受け手」というような意識が強くあります。

なので、「文化の受け手をどう作るか」というのは「自分はどう立ち振る舞うべきか」という問いでもあるんです。そういうマクロな問いとミクロな問いを行き来しながら、「ビジネスの役に立つ」という発想とも両立する今の時代らしい知のあり方を見出したいという思いがありました。

宇野 僕は書かれたものに純粋に向き合って、しかもそのことから苦痛ではなくて、ある種のマゾヒスティックな快楽を得られるような読者を、きちんと時間とお金をかけて作っていかないとダメだと考えているんです。

「発信」して自己主張したい人は増えたけれど、僕の考えでは文化は何よりまず、他人の話や妄想を受け取ることを面白がってしまうというか、自分の外側にある圧倒的なものに自分が侵食されて、壊されて、変えられてしまう快楽を覚えることが出発点だと思うんです。これがいま、「発信」の快楽に酔うことで忘れ去られてしまっていると思います。

たとえば、コロナ禍の影響もあって、今は今ってやたらとオンラインイベントが乱発されているけど、ああいうものに夢中になってコメント欄に張り付いている人たちは、「発信」の快楽に耽溺しすぎているって思うんです。

やっぱり、登壇者のご機嫌を伺って、認められたい気持ちから迎合的なことを書いてしまうし、登壇者も受けを取りたくてどんどんコメント欄のモードに引っ張られていく。そして気がついたら、みんなで叩きやすい対象を欠席裁判して盛り上がるだけの場所ができてしまう。

そういった場所では登壇者が「敵」に対するデマを流して中傷しても、誰も諌めない。要するに、みんな「バカ」になっている。僕はこれを「オンラインイベント症候群」と呼んでいます。そしてそんなオンラインイベント症候群にハマっている人が堂々とオンラインサロンブームを批判していたりする。ハッキリ言って滑稽です。でも、大事なのはやっぱり自分たちがどう、オルタナティブを作るかだと思います。

レジー 宇野さんが最近出されたご著書『砂漠と異人たち』(朝日新聞出版)の終盤でも、そうした状況への処方箋として、プラットフォームの捉え直しの話がでてきますよね。関連して、序盤の方でエリート層の「賢い」言葉が届かない「忘れられた人々」(トランプ支持者であるアメリカの中産階級)についても論じられています。

こうした人々に対して、宇野さんはどうやってご自身の処方箋を届けていこうと考えているんでしょうか。実は僕自身はここについて執筆時点では少し考えあぐねていたというか、刊行後に読者の方からもらった指摘を通じてこの問題と今向き合っているという経緯があります。

『砂漠と異人たち』。情報社会を支配する相互評価のゲームの〈外部〉を求め、「僕」は旅立った。そこで出会う村上春樹、ハンナ・アーレント、コリン・ウィルソン、吉本隆明、そしてアラビアのロレンス――。20世紀を速く、タフに走り抜けた先人の達成と挫折から、21世紀に望まれる主体像を探る「批評」的冒険譚

宇野 回答は二つあると思います。ひとつは、地味な啓蒙がやっぱり大事だなということです。たとえばこの本にも出てくるロレンスはバイク事故で亡くなっているのだけど、僕が子どものころと現在を比べてみたって、交通事故は明らかに減少しているわけです。

みんな馬鹿にするし、即効性はないけれど、啓蒙は地味に、そして確実に効果がある。「どうせ大した効果はあがらない」と、とにかく人のやっていることに、よく考えれば何にでも当てはまるようなダメ出しをして自分を賢く見せるのが、インターネットではコストパフォーマンスのいい人生のごまかし方なのはわかりますけれど、そういう声を気にせずコツコツやり続けるのがやっぱり大事かなと。

レジー そうですね。長期戦で考えた方がいいだろうなというのは自分も思っているところです。

予期せぬ出会いを生み出す場所=「庭」

宇野 もうひとつは、人間よりも、物事の力がもっと強くなるべきだということです。いま『群像』で連載している「庭の話」では、タイトル通り比喩的な「庭」の可能性について考えています。「庭」とは人間が人間外の「物事」と出会う場所です。そこは人間が関与できるけれど、支配はできない。

「飲み会」でボスの機嫌を取るために、ボスの顔色ばかり窺っているとものを考える力は弱っていくし、そこで偶然出会う物事への感度も低くなって、出されている料理の味はわからなくなる。やっぱり、人間が純粋に人間間の承認の交換のゲームからはなれて物事に触れ合える場が必要で、それを僕は「庭」の比喩で考えています。

たとえば夏の雑木林に迂闊に入り込んだら、虫に刺されるじゃないですか。こういう体験が重要なんです。「庭」に存在している物事が強い力を持って我々に襲いかかってくることで「事故」が起こるわけです。自分が事物を能動的に見つけに行くのではなく、事物の方が我々に襲いかかってくる──そんなイメージを復活させることが大事なのではないかと最近考えています。

レジー なるほど。

宇野 SNSがどれだけ発展しても、あるいは人工知能のレコメンドの精度がどれだけ高まっても、結局自分の好きなものに出会うだけなんですよね。「マームとジプシーのファンがヤマシタトモコに出会う」くらいの、当たり前のことしか起こらない。

一方で、カリスマ店長がいる個人書店みたいなものも、僕は大好きだけどやっぱり「庭」にはならない。そこにあるのは店主の棚という「作品」を眺める喜びであって事故のような出会いではない。僕が考えたい「庭」というのは、自分から興味を持たなくても向こうから襲いかかってくるような事物の力、それによって事故——つまり、予期せぬ出会いを生み出すことのできる場所なんです。

僕自身も子どもの頃に予期せずして石ノ森章太郎や富野由悠季に出会ったことで、人生を狂わされてしまった人間なわけです。そういうものに出会うと、否応なく変身させられてしまって二度と元に戻れない。そんな受動的な主体、マゾヒスティックな主体を考えたいんです。ロレンスの耽溺したマゾヒズムを、ポジティブに活用したいわけです。

レジー マゾヒズムはひとつ重要なキーワードですね。自分のことを自分でコントロールできる主体じゃなくて、何かを受け取り変容してしまう主体。ファスト教養と自己責任論のつながりについて本で述べていますが、自己責任という考え方自体が「何もかも自分でどうにかできる」という発想と分かちがたく結びついていると思います。そこからどう脱却するかというのは重要なポイントだなと。

宇野 多くの人は自由に能動的になることで相互評価のゲームから抜け出そうとするけど、実はそうやって何者かになろうとする時点でもうゲームに囚われてしまっている。それはコンプレックスを抱えたアムロやシンジ君みたいな少年が、モビルスーツという拡張身体やSNSのアカウントを手に入れてイキっているようなものですね。

対して、本郷猛や一文字隼人は自分から仮面ライダーになったのではなく、ショッカーに改造されて「変身」できるようになった……というのは半分冗談ですが、僕は「なりたい私になろうとする」ことはあまり人間を変えないと思っているんです。

たとえば僕自身はサブカルチャーのせいで私生活とか半分ぐらい壊れているわけですよ。1日のうち1時間ぐらいはオークションサイトをチェックして、「このフィギュアは既に3つ持っているんだけど、状態のいいものがこの価格で出ているなら俺が保護しなければならん」とか思って気がついたら購入している。そして自宅の部屋とかもう、とんでもないことになっているし、そのことで可処分時間や可処分資産の何割かが確実に失われていってるわけで(笑)。

レジー (笑)

宇野 でも身体が変化してしまっているからもう止められないんです。その時には完全に相互評価のゲームの外側にいて、自分の社会的な地位や人からの見られ方、もっと言えば締め切りやお金なんかもどうでもよくなっちゃっていて社会人としては破綻しているんです。

レジー 僕も中古CD屋で好きなバンドやアイドルのCDが100円とかで売られているのを見かけるとすでに持っているのに「これは自分が保護しなくては!」となったりするので、その感覚は大変よくわかります。その瞬間は合理性みたいなものとは距離がある状況に置かれる気持ちよさがありますよね。

ファスト教養の根本には、「何でも簡単にわかったことにしたい」「時間だったり仕事の成果だったり、すべてのことを自分の理解できる範疇で管理したい」というマインドがある気がします。事物の暴力性やマゾヒズムの強調はたしかにそれに抗うところがあるかもしれないですね。

取材・構成/松本友也

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