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「168cmの中学生プレーヤー」田臥勇太に絶句。“練習会で起きた事件”を能代工メンバーが証言。「俺たちはユニフォームを着られなくなる」

集英社オンライン / 2022年12月16日 11時31分

今からおよそ四半世紀前の1996〜98年。秋田・能代工業高等学校は高校バスケットボールの全国タイトルを総なめにし、史上初の「9冠」を成し遂げた。漫画『スラムダンク』山王工業のモデルともいわれる同校は、なぜ最強たり得たのか。田臥勇太ら当事者の証言を元に、その軌跡に迫る短期連載。第1回は「田臥勇太の高校入学/96年」編をお届けする。

24年前、田臥勇太3年時に「高校バスケ9冠」

1996〜98年、能代工のエースに君臨した田臥勇太

能代工バスケットボール部で部長を務めていた安保敏明は、24年が経とうとしている今もあの狂騒を思い出すと鳥肌が立つと言う。

「東京体育館がすごい客の入りだったんです。最初は正面入り口から選手たちは入っていたんですが、途中から東京都の高体連の先生方のご配慮でマイクロバスを裏口に付けさせてもらえるようになって。あんな経験は後にも先にもあの時だけでした」



1998年12月。「ウインターカップ」と呼ばれる全国高校選抜大会(現在の全国高校選手権大会)での能代工は、それほど世間からマークされていた。

1967年の埼玉国体で初めて優勝してから49回の日本一を誇る、高校バスケットボール界では超がつく名門。その歴史のなかでも、エースの田臥勇太、シューターの菊地勇樹、守備の要の若月徹が1年生から主力を担ってきた98年世代の強さは圧倒的だった。

彼らが入学してからの能代工は、高校バスケットボールの主要大会であるインターハイ、国体、ウインターカップで全て優勝しており、98年でもすでに2冠を獲得していた。

3年連続3冠の「9冠」に王手をかけて臨んだこのウインターカップで、熱源となっていたのは田臥だった。

身長173センチ。バスケットボールにおいては小柄に分類される選手のプレーは異次元だった。代名詞となっていたノールックパスはもちろん、変幻自在のドリブルやステップワークで相手を翻弄する。そして、ダブルクラッチといったフェイントを利かせ、鮮やかにゴールリングを揺らす。そんな創造性あふれるパフォーマンスで観衆を虜にした。

準々決勝で6400人だった有料入場者数は、準決勝では9936人。大会関係者などを含めれば東京体育館メインアリーナの上限である1万人を超える数字であり、「消防法違反の恐れがあるから決勝では入場が制限された」と、まことしやかに囁かれるほどだった。

狂騒の渦中にいながらも、コートに立てば王者は無類の強さを見せた。8344人が見守る決勝戦でも98対76と市立船橋を寄せつけず、9冠を成し遂げたのである。同時にそれは、能代工にとっての「V50」も意味していた。

98年、「9冠」を決めたウインターカップの優勝報告を行う能代工の選手たち

入学前…神奈川に「すげぇ中学生がいる」

高校の団体競技において、これほど勝ってきたチームはおそらくない。この年、「平成の怪物」松坂大輔を擁し、甲子園球場で開催される春の選抜大会と夏の選手権大会で優勝した名門・横浜高校ですら、全国制覇は5回である。

9冠へと導いた監督の加藤三彦の言葉は、そのことを認めるように核心を突いていた。

「田臥たちが入る前の年(95年)だって、インターハイとウインターカップの2冠を獲った強い世代なのに、消されちゃってますからね。それくらいすごいことをしたってことなんですよ、彼らが成したことというのは」

この時代の能代工で中心にいたスーパースターの田臥は、まさに「現象」とも言うべきものだった。

田臥が覚えているのは、勝てたことへの安堵感と東京体育館の息づかいだった。42歳となった現在でも、すぐに時間を巻き戻し、当時の感覚を呼び覚ますことができると言う。

「東京体育館の景色は鮮明ですね。あの独特の感じ――お客さんの歓声だったり、会場の熱量というのは思い出です。高校生であの経験をさせてもらえたのは財産でした」

能代工に入学する前から、田臥は田臥だった。
神奈川県の大道中時代は無名に近い存在ながらも、そのプレーにひとたび触れた者たちは「なんだあいつは!」と唸った。

中学3年になる直前に開催される、「ジュニアオールスター」と呼ばれる都道府県対抗ジュニアバスケットボール(現在の全国U15バスケットボール選手権)でのことだ。京都選抜として出場しており、のちに能代工でチームメートとなる洛西中の前田浩行は、神奈川代表の田臥の舞いに目を丸くした。

現在はBリーグ・三遠ネオフェニックスでアシスタントコーチを務める前田浩行さん

「すげぇのがひとりいるなって。とんでもないパスを出したり、自由に動き回っていて。とにかくうまいなって思いましたね」

なぜ秋田の名門・能代工を選んだのか

型にハマらないプレースタイルは、田臥が育ってきた環境とも大きく関係している。

NBA好きの父の影響で、小学生の頃からシカゴ・ブルズのマイケル・ジョーダンやフェニックス・サンズのチャールズ・バークレーなどスター選手たちのプレーに釘付けだった少年は、そのエッセンスを自身のプレーに反映させたいと好奇心を揺さぶられた。

また小学、中学の指導者たちから基本を教わるなかでも「自分の得意な分野を活かせ」と後押しされてきたことで、田臥はのびのびとスキルを伸ばすことができた。

それは、バスケットボールにおいて最重要とも言える体格差を「感じなかった」と言い切る、田臥の言葉からもうかがえる。

「『サイズに対抗しよう』ってマインドがなかったんですよ、もとから。相手に大きい選手がいるのはわかっているんで、高さで敵わない分、速さだったり、シュートやドリブルでフェイントをかけたり、タイミングをずらしてどれだけ惑わせられるか。できる、できないは別として、そういうことを楽しみながらチャレンジしていたというのはありますね」

右手で試して相手にブロックされたら、今度は左手に持ち替えてみよう――田臥はトライ&エラーを繰り返すことで、プレーのバリエーションを豊かにしていった。

ジュニアオールスターで爪痕を残した田臥は、中学3年の全国大会で前田がキャプテンを務める洛西中に敗れたもののチームを3位へと導き、自身も大会ベスト5に選ばれた。それが、能代工への道へと繋がることとなるわけだが、田臥は最初から、この名門への進学を望んでいたわけではなかった。

知名度の高さや数々の栄光への憧れはあったが、優先順位はまだ地元の神奈川にあった。湘南工科大附や横浜商大高といった強豪校があり、中学のチームメイトには田臥の実家近くにある横浜へ進む者もいる。選択肢があったなか能代工を選んだのは、有望な中学生が一堂に会す練習会に誘われたことがきっかけだった。

中学生・田臥が能代工に与えた衝撃

伝統ある能代工の体育館に戦慄が走った。

当時、1年生ながら1995年インターハイ優勝に貢献したガードの畑山陽一は、心底「やべぇ」と危機感を覚えたという。

「あの代は前田とか菊地とか、すげぇやつらが来るとは聞いていたんですけど、田臥は別格でしたね。『これは気合いを入れないとユニフォームを着られなくなる』と思いました」

田臥の1つ上の代で活躍した畑山陽一さん。現在は市役所職員

先輩たちが衝撃を受けたのは、「突破練習」というガード専門のメニューでのことだった。ディフェンスふたりをひとりでかわしてシュートする。言葉にすると単純だが、これが能代工クラスとなるとハードルがぐんと上がる。

障壁役は、メンバー外ながら3年生の“ピラニア軍団”と呼ばれる、相手に食らいつきながら守るスペシャリストたちで、同学年で点取り屋の高橋尚毅やポイントガードの半田圭史ですら、成功は10本中6、7本。畑山も2、3本で上出来だったほどである。

しかも練習生は、股の間にボールを通して相手を抜き去るレッグスルーといった個人技を禁止されていた。洛西中で全国優勝を経験し、中学MVPにも輝いた前田ほどの実力者でも、1本を決めるのがやっとだったという。

一方で田臥は、それがあたかも容易であるかのようにピラニア軍団を抜き去り、あっさりとゴールを決めた。成功率は10本中8、9本。目撃者たちは、言葉を失っていた。

入学前からNBAスターとCMで共演

田臥が能代工の手練れたちを翻弄できた要因のひとつに、天性のアドバンテージがあった。

この時はまだ168センチだったが、リーチが「190センチ近くある」と言われるほど極端に腕が長かったのだ。中指の長さが手首から20センチ以上あるほど手のひらも大きく、足のサイズも最終的に29センチまで伸びた。身長以外はバスケットボールに適していたことを田臥自身も実感しているほどである。

「ディフェンスをやっていてもボールを奪いやすかったり、ドリブルでも相手を抜けたりとか、得した部分はあるのかなって思います」

地元の神奈川でバスケットをするものだと思っていた田臥は、名門から正式に誘われ、迷わず「行きます」と返事した。

この中学生が「バスケット界のホープ」だと断定できる所以は、それまでの実績や能代工の先輩たちを相手にしての度肝を抜いたプレーだけではなかった。

田臥はひと足先に“世界”に触れていた。進研ゼミのテレビCMで、当時ニューヨーク・ニックスのスタープレーヤーだったパトリック・ユーイングと共演する機会に恵まれたのである。

本来なら「中学MVP」の前田が出演するはずだったのだが、洛西中から許可が下りなかったため田臥にオファーが届いたとされている。とはいえ、何よりもその姿が日本全国に広まったことが大きかった。

「あのCMに出ていた中学生」

能代工に入学時点で、田臥はすでに全国区の選手となっていた。

(つづく)

取材・文/田口元義

♯2 高校バスケの名門・能代工で田臥・若月・菊地と「5人中3人が1年生」。当時監督・加藤三彦が明かす“レギュラーから上級生を外した”真意 はこちら(12月17日公開予定)

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