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田臥勇太ら「下級生中心チーム」で高校バスケ3冠の能代工。「力がなかった3年生」が今も“自分たちの代で勝った”と思う理由

集英社オンライン / 2022年12月19日 11時31分

今からおよそ四半世紀前の1996〜98年。秋田・能代工業高等学校は高校バスケットボールの全国タイトルを総なめにし、史上初「9冠」を成し遂げた。漫画『スラムダンク』山王工業のモデルともいわれる同校は、なぜ最強たり得たのか。田臥勇太ら当事者の証言をもとに、その軌跡に迫る短期連載。第4回は「力がなかった3年生の3冠/96年」編をお届けする。

インターハイ前の恒例「地獄のOB戦」

能代工「1996年世代」でマネージャーを務めた金原一弥さん

高校バスケットボールにおいて最初のビッグタイトルとなる7月末のインターハイを前に、能代工には“地獄”が待っている。



大学に進学したOBが夏休みを利用して母校を訪れる。彼らは練習着を身にまとい、後輩にあたる現役の選手をプレーで激励する。多ければ1日5試合。それが連日、絶え間なく続く。

能代工のお家芸である速攻劇。オールコートで相手にプレスを仕掛け、自陣ではゾーンで守り、相手の隙を突いてボールを奪い攻勢に転じる――相手が高校生であれば圧倒できる戦術も、フィジカル、技術と全てにおいて優るOBたちには通用しない。

「もう嫌……本当に嫌でした!」

菊地勇樹が1年生当時の記憶を呼び覚ます。

「どこを攻めたらゾーンを崩せるかとか、パスが通りにくいかとかを見抜かれているので、歯が立たないんです。それで、(加藤)三彦先生に怒られて……っていうのが延々続く(苦笑)」

こってりと絞られること、およそ1週間。インターハイ直前に収穫できるハイレベルな「基準」は、選手たちにとってあまりにも大きい。

2年生センターの小嶋信哉は、大学生とのOB戦の意義を冷静に分析していた。

「ボールの運びとかシュートのリズムっていう部分では、高校生はまだ安定感がないなって、そこで改めて感じますよね。だからこそ、相手に合わせず自分たちのバスケットをしっかりやろうって思っていました」

1年生・田臥勇太、衝撃の全国デビュー

1996年夏に山梨で開催されたインターハイ。初戦の相手の横浜商大高は、3月の練習試合で、7試合中5回も負けたとあって、能代工からすれば厄介な相手だった。

ましてや横浜商大は田臥の地元、神奈川の代表校だ。メンバーのなかには知っている顔もいる。なにより、1年生の彼にとって初の大舞台でもあり、緊張もある。表情が硬くなるのも無理はなかった。

「緊張してるのか?」

試合前のウォーミングアップでマネージャーの金原一弥が尋ねると、田臥は素直に「はい」と返す。そんなぎこちないやり取りに気づいた畑山陽一が、田臥にボールを投げつけてケラケラ笑う。先輩たちは、そうやって1年生に平静を取り戻させようと努めていた。

手の内を知られているだけに、この試合でも前半から劣勢を強いられたが、思わぬところで能代に流れが傾く。前半も残り10分を切った頃だ。10点ほどリードされていた展開で、突如、視界が遮られる。会場が停電するアクシデントが発生したのである。

試合が中断するなか、潮目の変化を瞬時に察知した監督の加藤三彦は、2年生ポイントガードの畑山を呼び、指示を送った。

「点差が離れちゃったから、お前と田臥で3ポイントをどんどん打っていけ」

試合が再開すると畑山が田臥へ積極的にボールを供給し、加藤の思惑通り立て続けに3ポイントが決まった。試合は結局、前半で1点差として流れを掴んだ能代工が、79-61で難敵を退けた。田臥は30得点を記録。試合前に緊張で硬かったルーキーの、華々しいデビューだった。

1冠目…立ちはだかる大型チーム

1、2年生主体の能代工にとって、インターハイ制覇への道は過酷だった。

2回戦の東住吉工に77-66と辛くも勝利し、3回戦は小林に82-58、準々決勝は市立船橋に96-61と強豪との対戦が続いた。そんな大会のハイライトは準決勝の福岡大大濠戦だった。205センチのセンター・三苫佑介を筆頭に、スタメンの平均身長は191センチ。平均184.6センチの能代工より7センチ近く高い大型チームで、優勝候補にも挙げられていた。

ゴール下で競り合うセンターの小嶋にとって、三苫との15センチの差はあまりにも大きすぎたが、それでも臆せず空中戦を戦えたのには理由があった。

なぜ身長差をカバーできたのか?

能代工には「ビッグマン・ドリル」という、ゴール下対策の守備練習がある。これは、アメリカの大学にコーチ修行に行ったOB、加藤康洋が母校に持ち帰ってくれたメニューだった。小嶋は1年生だった95年に教わったなかで、とくに「実になった」と自信を持ったのがリバウンドだった。ボードにボールを当て、右腕と左腕で交互にキャッチすることで、捕球技術をアップさせることができた。

ドリルの練習以外でも、ディフェンスの幅を格段に広げられた。ゴール下でのボールの奪い合いがそうで、ステップによって優位なポジションを確保できることを、加藤から学ぶことができた。

「リバウンドだけではなくて、ドリルにはディフェンスの全てが詰まっていて。その他の練習でも、1年の時に加藤さんに叩きこんでもらえたことが生かされました」

田臥の1つ上の代でセンターを担った小嶋信哉さん。現在は都内の会社に勤める

福岡大大濠との試合では、三苫のプレーの幅を狭めるために体を当ててスペースを作らせず、ボールを供給させないよう努めた。そして、1年前はスモールフォワードだった小嶋は外側からのシュートも精度が高いため、要所で3ポイントを狙う。それにより相手マークを引き付けることでゴール付近にスペースが生まれ、能代工はペースを掴んでいった。

95-77。優勝候補を退けた能代工は、決勝でも強豪・洛南を110-65で圧倒し、2年連続でインターハイを制した。

3年生の葛藤「怒られるのは俺たちだけでいい」

「よく優勝できたなぁ」

表彰式の間、控室で荷物の整理をしていた金原は感慨に浸っていた。喜びより安心感。日本一を宿命づけられた能代工において、「無冠」は不名誉な印象を後進に植え付ける。自分たちもそうだったように、タイトルの有無によってOB戦などで母校を訪れた先輩の見る目が変わるのだ。

その一方で、金原のなかには、田臥ら下級生主体で勝ったことに対して「申し訳ない」という不甲斐なさも去来していた。

「僕だけじゃなくて、みんなもどかしさがありました。『自分たちに実力が足りないから、後輩たちに負担をかけさせてる』って」

練習で監督から「そんなこともできないならいらないよ!」とハッパをかけられても下を向かず、「怒られるのは俺たちだけでいい。思いっきりやれ」と後輩の背中を押す。

ただ、3年生だけになると、どうしても負の感情が押し寄せてくる。

「俺たちが第一線で試合に出られたら、あいつらをもっと楽にさせてやれんのに」

キャプテンの田中学から本音が漏れる。

「実力が足りないなら、他でカバーするしかねぇべ。うちらにできることを考えよう」

金原が田中の肩を叩き、励ます。

3年生は後輩たちをとことんサポートした。2年生の畑山は「自分らが勝てたのは、間違いなく3年生のおかげですよ」と頷く。

1996年の能代工。左から田臥(1年)、畑山(2年)、金原(3年)

「面白くない先輩だっていたと思うんです。けど、試合の応援だったり、体育館の掃除だったり、『自分たちに何ができるか?』って考えてくれているのがすごく伝わってきました」

国体も制覇。3年生・金原が流した涙

現在は都内の会社に務める金原さん

1、2年生の結束は、10月の広島国体でもコートで発揮された。国体は本来、各都道府県の優れた選手で結成される選抜チームだが、秋田は能代工の単独チームで挑むのが通例となっていた。

大会でのキープレーヤーは1年生シューターの菊地だった。とりわけ大阪選抜との決勝戦では3ポイントシュートを8本決めるなど、チーム最多の34得点と爆発した。

インターハイ優勝時に「3年連続3冠を獲ります!」と豪語し、加藤から「1年坊主が大口叩くな。“九官(9冠)鳥”か!」と皮肉られた国体の殊勲者も、3年生にこう感謝する。

「キャプテンの(田中)学さんとかがやりやすい環境を作ってくれたんで、『やるべきことをやろう』って集中できたのが大きかったです」

3年生が抱える苦悩をコートで打ち消し、2冠をもたらしてくれた後輩たちの熱意。

金原は優勝後の控室でひとり、涙を流した。

「本当に嬉しかったんですよ、国体でも優勝できて。そこからはもう、チームの気持ちをどう上げていくかしか考えていませんでした」

3年生「俺たちの1年が、必ず次にも繋がる」

12月のウインターカップでは、それまでにない強さがあった。2試合連続で100点ゲームと相手を圧倒。準々決勝の土浦日大戦と準決勝の仙台戦では、相手の3ポイントシュートを中心とした攻めに苦戦を強いられながらも、持ち味の速攻で終盤に相手を突き放した。そして、福島工との決勝戦は111-88の完勝だった。

5年ぶり7度目の3冠。

偉業を成し遂げた時、能代工では特別な儀式が行われる。コート上に3大大会の優勝カップを中心に円陣を組み、校歌に加え、『能工バスケットボール部の歌』と『三冠王の歌』を合唱するのだ。

「俺たちの1年間が、必ず次にも繋がる」

金原はそう念じていた。「力不足」と苦しみ続けた世代は最後、誇りを残した。

「勝利に直結するような貢献はできなかったかもしれないですけど、あの3冠は自分たちの代で勝ち取ったものだとは思っています。まあ、本当に力はなかったですけどね」

26年後の笑みには、少しの自嘲と達成感が入り混じっていた。

(つづく)

取材・文/田口元義

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