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〈写真多数ルポ〉「グウォーオォン、ゴォッ、ゴォッ…」「動いた!」。苦節10年・旧日本軍九五式軽戦車が日本に里帰り。街の自動車工場の“親父”が挑み続けた日本上陸作戦とは

集英社オンライン / 2022年12月16日 10時16分

「グウォーオォン、ゴォッ、ゴォッ、グォッ!」。12月某日。神奈川県横浜市の本牧ふ頭。国内物流の中心地に異様な轟音を発生するコンテナが!? そのコンテナの中から出現したのは、重装甲にキャタピラ、そして砲塔を搭載した紛うことなき戦車だった。

世界で2台しかない希少な戦車

コンテナで運ばれた九五式軽戦車

これは1935年に旧日本陸軍が制式採用した秘匿名称ハ号こと、九五式軽戦車。車体番号「4335号車」で、太平洋戦争中はミクロネシア連邦ポンペイ島へ派遣され、戦後は日本へ返還されて京都嵐山美術館に展示されていた。

しかし、1991年に京都嵐山美術が閉館し、その後国内の美術館に移管されるが、あえなくそこも閉館。それをイギリス人のミリタリーマニアが買い取り、長らくイギリスで保管されることに。



それを知った、静岡県内で自動車整備工場を営む、NPO法人「防衛技術博物館を創る会」の小林雅彦代表(52)は、10年程前よりイギリス人から九五式軽戦車を買い取るプロジェクトを始動。それが成功して今回、再び日本に里帰りすることになったのだ。
この里帰りは「すべてがギリギリでした」と小林代表は語る。

「イギリスからの運送費用は100万円ぐらいなら自分でなんとか出せるかなと思っていました。しかし、新型コロナとウクライナ戦争の影響で世界的に物流が大混乱し、さらに空前の円安。各種手続きを含めると、運送費用の総額は1500万円を超える金額となりました。とてもじゃないが自己資金で払える金額ではありません。ですが、この戦車は当時の三菱のエンジンで走る世界で2台しかない希少な戦車です、チャンスは今しかないと思いました」

車体番号の下に三菱のマークが…

里帰りさせる条件は厳しかった…

そこで小林代表は運送費用を集めるためにクラウドファンディングをスタートする。そもそも九五式軽戦車の購入資金に1億円ほどが発生しており、その多くもクラファンで調達した資金だった。

「幸いなことに今回も目標額である1500万円を調達できました。しかし、問題はそれだけではありません。戦車は兵器なのです。国が定める貿易管理令では、九五式軽戦車のような【装甲板を有する自動車】の輸入は、防衛省またはその委託を受けた者しか認められていません」

戦車を里帰りさせる条件は厳しく、輸入するには“博物館展示品”であるということを行政に認めてもらう必要があった。

具体的には、【保管・展示先である「防衛技術博物館」設立計画の目処が立っていること】、【九五式軽戦車が1945年までに製造されたものであるこの証明】、【第三者機関に歴史的、技術的に重要な機械産業遺産であることを証明する書面の発行】。そして【搭載戦車砲の発射機能が無いことの証明】をなどクリアしなければならなかった。

戦車砲が搭載されている

しかし、今回里帰りした九五式軽戦車には戦車砲が搭載済み。小林代表、これは大丈夫なのだろうか?

「戦車砲は軽金属で製作したものにオリジナルから交換してあります。これは砲身も塞がれており、つまり精巧なモデルガンという扱いなのです。また、1945年までの製造と、機械産業遺産であることの証明は、もともと九五式軽戦車を展示していたイギリスのボービントン戦車博物館が書面を提出してくれて、条件は整いました」。

では、防衛技術博物館の設立計画の目処は?

「防衛技術博物館の設立に向けて、防衛技術博物館建設推進連絡協議会を発足しました。これによって条件がクリアできました」。

弾痕の残るボックス

苦節10年、待望の戦車の上に乗る“親父”の笑顔

10年間で1億円近い資金を投じ、行政を説得するために奔走してきた小林代表。彼がここまで軍用車両にこだわる理由とはなんなのだろうか。

「やはり日本人が生み出した技術を未来に残したい。私は陸上自衛隊の富士演習場のある静岡県御殿場市で育ち、多くの軍用車両に慣れ親しんできました。そして家業も板金屋であることから、機械やそれに使われる技術が大好きなことも理由にあります。

例えば、九五式軽戦車の内部には細かいハッチがたくさん設けられ、メンテナンス性が優れています。こういった部分はある意味、日本製品ならではですよね。そして、よく“日本の戦車は最弱”と言われることがありますが、1935年時に搭載されたディーゼルエンジンやトランスミッションも当時の最先端技術だったのです。

ただ、それをアップデートしたり、新型を開発する工業力は当時の日本にありませんでした。なので制式採用から10年使い続け、太平洋戦争のころには“最弱”と呼ばれてしまったのでしょう。

“最弱”と呼ばれてしまった…

そういった歴史や機械技術を後世に伝えたいという思いもあり、防衛技術博物館の設立を目指しています。そもそも戦車をはじめとする防衛装備品の博物館は多くの国では当たり前に存在しています。これらも、その時代で最先端だった機械技術遺産を後世に伝えるのが目的ですから」

戦車は御殿場に運ばれていった

防衛技術博物館のオープンは2027年に予定されており、今後はさらなる軍用車両も揃えていきたいという。

「私達は2014年に国産初の四輪駆動車である『くろがね四起」を走行できる状態まで復元しました。もちろん、この車両も展示します。今後は旧陸軍の車両だけでなく、自衛隊の戦車や装甲車といった陸上装備品の獲得にもチャレンジしたいですね」

苦折10年、待望の戦車に乘った小林代表は、満面の笑みを浮かべていた。
彼の挑戦は続くー

取材・文/直井裕太 撮影/下城英悟

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