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【洋服誕生の知られざる理由】日本人はいつから和服を捨て、洋服を着るようになったのか?

集英社オンライン / 2022年12月25日 14時1分

2022年、日本で洋服が誕生してから150年を迎えた。では、わたしたち日本人がどのようにして洋服を着るようになったのかご存じだろうか。明治の文明開化で外国の文化が入ってきたからというのは単純な考えで、日本人の洋装化にはもっと複雑な背景があったのだ。大河ドラマ「西郷どん」で軍装・洋装考証を担当した歴史学者・刑部芳則著『洋装の日本史』(集英社インターナショナル)より一部を抜粋、要約してお届けする。

洋服誕生150年?

明治5年(1872)11月12日に「礼服ニハ洋服ヲ採用ス」という太政官布告が出された。国家の官僚が従来の衣冠(いかん)や狩衣(かりぎぬ)といった日本古来の装束ではなく、西洋の王室で用いられているのと同じような礼服へと改めた。世界に対して日本の礼服は、和服から洋服へと変更したことを告げた日となった。



昭和4年(1929)に現在の東京都洋服商工協同組合、昭和47年(1972)に全日本洋服協同組合連合会が、11月12日を「洋服記念日」と制定した。2022年は日本で洋服が誕生してからちょうど150年という記念の年にあたる。

最初に洋服を着た日本人は、ジョン万次郎

日本人で最初に洋服を着た人物は、土佐高知藩の漁民中浜万次郎(ジョン万次郎)、伝蔵、五右衛門らといわれている。天保12年(1841)1月、漁に出航したが、強風によって遭難し、伊豆諸島の鳥島(とりしま)に漂着する。植物採取に鳥島に寄ったアメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号によって救助され、ハワイを経て万次郎はアメリカへ向かう。

弘化3年(1846)に万次郎は、伝蔵と五右衛門に再会し、嘉永4年(1851)に3名は日本へ帰国する。3名は長崎奉行から尋問を受け、所持品の検査を受けた。このとき万次郎の所持品として「木綿筒袖襦袢(もめんつつそでじゅばん)」「天鵞絨(ビロード)木綿刷合胴着(どうぎ)」、伝蔵と五右衛門の所持品として「羅紗(らしゃ)筒袖着物」「毛織羅紗筒袖着物」が記されている。それぞれ外国で入手したもので、洋服であることに間違いない。

洋服は「鬼」や「悪魔」が着るもの

彼らと同じような体験をしたのが、播磨国(現在の兵庫県)で廻船業を営む家に生まれた浜田彦蔵である。嘉永4年(1851)10月、浜田は紀伊半島の沖で難破し、南鳥島付近でアメリカの商船によって救助される。この船中で浜田は航海士からフランネルのシャツと羅紗のズボンを貰っている。浜田は「からだがひどく窮屈なように感じた。でも洋服は自分の着物よりはるかに暖かだったし、そのうえ仕事をするのに便利だった」という。

着物から洋服に着替えた翌日には、航海士によって髷(まげ)を切り落とされてしまう。浜田は「私の心は悲しみに突きおとされた」と回想し、また不浄と考えられていた「四つ足の肉」を食べてしまったことを悲しんでもいる。だが、すべては「郷に入ったら郷に従えだ」と諦めるしかなかった 。

嘉永5年(1852)2月にサンフランシスコに到着すると、新しい洋服とともに靴を買い与えられている。浜田は町中で洋服を着て歩くアメリカ人を見て「黒い顔、白い歯、それに大きい赤い唇は、煤にまみれたような顔と対称をなしていて、おそろしくてぞっとするほどであった」と感じ、まさに「『鬼』(悪魔)にちがいない」と述べている。

洋服を着た外国人は「鬼」であり、浜田は鬼ヶ島の地から故郷に生きて戻れるか、神に祈願する思いであった。浜田は無事に帰ったら、神に自分の髷を切って奉納するつもりでいた。
このように「鬼」や「悪魔」と感じる外国人たちと同じような洋服を着てみたい、または散髪を行ってみたいと思う日本人は、この時代いなかっただろう。

洋服採用のきっかけは廃藩置県

映画やテレビドラマでは、明治に元号が変わるとすぐに和服から洋服姿へと変わっているものが少なくないが、いずれも視聴者に時代が変わったことを伝える演出であり、史実とは異なっている。明治政府で洋服・散髪・脱刀が許可されるのは、明治4年(1871)8月9日から洋服・散髪・脱刀姿で宮中や太政官に行くことが可能になってからである。

つまり、明治4年7月14日に廃藩置県が断行され、木戸孝允(たかよし)や大久保利通(としみち)ら旧藩士出身者が政府の要職である参議に就任することで、服制改革が実現したのである。藩が消え県となることにより、旧藩主と旧藩士との君臣関係は制度的に切り離された。明治新政府が発足してから4年間、旧藩士たちは彼らの上に位置する旧藩主や旧公家たちの意見に配慮しなければならず、新しい制度改革に着手することが難しかった。旧藩士出身者たちは天皇の臣下となったため、旧藩主に遠慮することなく改革に着手できた。

苦渋の選択だった洋服採用

それまで新政府の服制に洋服を取り入れようという議論はなかった。なぜこの段階でそれを採用したのか。彼らは幕末に攘夷の対象であった外国人の洋服に袖を通すことは好まなかった。しかし、公家たちが着る衣冠や狩衣などの装束も着心地が悪いと感じていた。旧藩士たちは苦渋の選択を迫られたのである。

政府内で主導権を握った旧藩士たちが洋服・散髪・脱刀を採用したのは、外見から身分制をなくすためであった。公家と武家の髷の違い、天皇から与えられた位階の上下によって着る色の異なる衣冠などは、四民平等とはかけ離れていた。したがって、公家・藩主・藩士といった身分の差、さらには農工商民との違いをなくしたのである。

洋服・散髪・脱刀は、世襲門閥(もんばつ)制による身分制から実力や能力を重視する四民平等へと時代が大きく変わることを示していた。そのため旧藩士たちは、月代(さかやき)を剃った結髪に二刀差し、羽織袴という出で立ちも捨て去ったのであった。

岩倉具視は息子の説得で洋装へ

岩倉具視

明治4年(1871)11月12日で、岩倉具視(ともみ)を代表とする使節団が横浜を出発した。アメリカのサンフランシスコに到着すると、使節団の大使と副使は、現地の写真館で記念撮影をしている。木戸孝允、山口尚芳(ますか)、岩倉具視、伊藤博文、大久保利通である。このうち大使の岩倉を除く4人の副使は、散髪でフロックコートを着ている。岩倉を含む全員がシルクハットと、革靴を用いている。大使の岩倉具視だけが公家特有の髷を結い、洋服を着ようとしなかった。

岩倉使節団

明治5年1月21日にワシントンに到着すると、25日にはアメリカ大統領グラントに国書を渡した。このとき大使は小直衣(このうし)、副使は狩衣、書記官は直垂(ひたたれ)を着ていた。当日の模様を大久保利通の息子である牧野伸顕は、「岩倉公は普段は羽織、袴で、公の場合は衣冠束帯を着けておられた。それだからホテルから正式の訪問に出掛けられる時などは、ホテルの周囲は見物だかりで大変な人出であった。まるで見世物か何かのよう」と回想している。岩倉の服装が珍しくて外国人が集まってくるという。

大久保と同郷の旧薩摩藩の出身でアメリカに駐在していた少弁務使・森有礼(もりありのり)は、岩倉の結髪と和装を快く思っていなかった。森は当時アメリカに留学していた岩倉具定(ともさだ)と具経(ともつね)に、父の具視を説得するよう依頼している。息子二人から説得されて岩倉も改心したようだ。明治5年2月6日にホテルで開催された晩餐会で燕尾服を着用している。そして2月17日にシカゴに到着したときには、公家特有の髷もなかった。

岩倉使節団の参加者は全員が散髪に洋服姿となり、帰国後に髷と和服姿へと戻ることもなかった(自宅や私的に和服を着ることはあったが)。

文/刑部芳則

洋装の日本史

刑部 芳則

2022年12月7日発売

1,089円(税込)

新書判/320ページ

ISBN:

978-4-7976-8112-3

日本人はいつから和服を捨て、洋服を着るようになったのか?
日本人が洋服を着るきっかけとは?——明治政府の欧化政策? 関東大震災の教訓? 戦後のアメリカ文化の流入? ——実はどれも史料的、数字的な根拠がありません。
本書はNHK大河ドラマ「西郷どん」で軍装・洋装考証をつとめた著者が、膨大な史料を丹念に読み込み、日本人の服装の変遷を、幕末から昭和まで発展段階論を用いてわかりやすく解説します。
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