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田臥勇太がファンにもみくちゃに…加熱する能代工フィーバーのなか高熱でダウン。田臥らメンバーが明かす、前人未踏「9冠までの舞台裏」

集英社オンライン / 2022年12月23日 11時31分

今からおよそ四半世紀前の1996〜98年。秋田・能代工業高等学校は高校バスケットボールの全国タイトルを総なめにし、史上初の「9冠」を成し遂げた。漫画『スラムダンク』山王工業のモデルともいわれる同校は、なぜ最強たり得たのか。田臥勇太ら当事者の証言をもとに、その軌跡に迫る短期連載。第8回は「前人未到の9冠/98年」編をお届けする。

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田臥世代に課された「3年連続3冠」

当時、能代工メンバーが乗ったバスを囲むファンの姿 ©産経ビジュアル

この夏もまた、こってりと絞られた。

1998年7月、インターハイ直前に行われたOB戦。大学と実業団の第一線でプレーする能代工を知り尽くした先輩たちが、現役プレーヤーを刺激する。



ゴール下のリバウンドからルーズボールの奪取、オールコートプレス、電光石火の速攻の強化。およそ1週間、勝ちへの執念をひたすらアップデートさせられることで、チームの士気が一層高まっていく。

そこに慢心はない。この年のキャプテン・田臥勇太の言葉が物語る。

「僕らの時代はデータや情報がそんなにあるわけじゃなかったんで。対戦したことがある強豪校なら、少しは対策を立てられましたけど、実際に試合をするまでわからない部分も多いし。相手は失うものがない感じで向かってくるんで、油断なんて全くなかったです」

シューター菊地「感覚が研ぎ澄まされていた」

この年の高知インターハイ。能代工は初戦からギアを上げた。準々決勝までの3試合のうち2試合を100点ゲームで快勝し、迎えた市立船橋との準決勝。相手の2年生センター・鵜澤潤は身長196センチとサイズがあり、なおかつ左利きのためゴール下でリバウンドのポジショニングやタイミングが取りづらい。

そこで有効となったのが、菊地勇樹の3ポイントシュートだった。

1年生からレギュラーだった経験豊富なシューターも、「2年までは水物。打ち続けることでメンタルが鍛えられましたね」と笑う。

「責任感っていうのかな。(加藤)三彦先生からも『お前がシュートを打てるのは、田臥や若月が走ってくれているからなんだよ。そういう感謝も忘れるなよ』って言われていたんで。3年になってその気持ちが強くなりました」

現在の菊地勇樹さん

このインターハイ、菊地はシュート感覚が研ぎ澄まされていたのだという。

加熱する能代工フィーバー

3ポイントを決めやすい、リングから45度の場所でボールを受け取ると、照準を合わせてからモーションに入る。左手を添える位置、ボールを放つ右ひじの角度が決まれば、フォロースルーの時点で「決まる」と確信を得られるまでになっていた。

市立船橋との試合で44得点と暴れた菊地は、仙台高との決勝でも気を吐いた。

71-69と緊迫していた後半。残り10分を切ろうとしていた終盤に、菊地の3ポイントから能代工の攻撃ラッシュが始まり、最終的に103-80。菊地は2試合連続でチームトップとなる42得点を叩き出した。

「個人的にインターハイは、一番イメージ通りにできたんじゃないかなって思います」

これが98年の初タイトル。この頃になると、チームのタレントである田臥、菊地、若月徹の人気はバスケットボール界を席巻していた。

当時、能代工の体育館は見学自由であり、連日のように地元住民が訪れる。この年はファンの数とマスコミの取材が尋常ではなかったと、部長の安保敏明が苦笑していたほどだ。

「みなさん、最低限のルールを守ってくれてはいましたが。まあ、マスコミの対応も含めて、こちらが『申し訳ありません。高校生なんで部活に集中させてあげてください』と、お願いすることが多かったような気がします」

ファンにもみくちゃにされて…当時の秘話

インターハイを制して迎えた10月の神奈川国体になると、その熱はますます上昇した。

98年も能代工単独で臨む秋田の試合になると会場には試合前から列ができ、体育館は常に満員となった。試合が終わると、チームを待ち構えていたファンに田臥たちがもみくちゃにされながら会場を後にする。それが当たり前の光景となっていた。

後輩の堀里也の証言が当時をリアルに描写する。

「先頭で田臥さんたちを誘導する後輩が、クーラーボックスを両腕に抱えてガードしながら歩いて、両サイドは僕とかが道具を持ちながら『田臥さん、こっちです!』とか言いながら守ってましたね。
ファンの人たちに『なに、こいつぅ!』とか言われながら役割を全うしてましたよ。あの時は完全にガードマンでした(笑)」

苦戦のチームに「なにが3年連続3冠だ」

加熱する“能代工フィーバー”の国体で、誰もが「一番しんどかった」と口を揃えていたのが準々決勝の沖縄高戦だった。前年の国体で能代工単独チームの秋田を警戒させた、あの安里幸男が率いる難敵だ。しかも、この日はダブルヘッダーで、勝利した兵庫との試合からインターバルがわずか3時間しかなかった。

「1試合目からずっとコートの往復ですからね、とにかくしんどかった。しかも、沖縄はうちを研究しているチームだし、ゾーンディフェンスでハメようとしてもなかなかうまくいかない。『これはヤバいな』と」

現在の若月徹さん

センターの若月がそうつぶやくように、序盤から選手たちの動きが鈍い。前半は36-36。後半も拮抗するなか、監督の加藤三彦がチームを突き放す。

「なにが3年連続3冠だ……もういいから、お前らでやれ!」

監督の檄で選手たちの尻に火が付く。着火剤は、またも菊地の3ポイントだった。

兵庫戦で2本しか決められなかったのが嘘のように立て続けに決まる。この試合で14得点だった田臥をカバーする38得点を挙げ、80-73で辛くも逃げ切った。

準決勝でも強豪の新潟に84-60で勝利し、迎えた京都との決勝。今度は田臥が見せた。

開始10分で10点ビハインドと劣勢のなか、積極的に仕掛けることで局面を打開し、逆転に成功。チームトップの34得点で87-64と相手を退け、9冠に王手をかけた。

9冠に王手…しかし

しかし、未踏の頂に近づくほど道は険しくなるのだと、選手たちは実感することになる。

12月のウインターカップ初戦。能代工は法政二高に序盤から苦しめられた。シーソーゲームが展開されるなか、前半残り7分のタイムアウトから、アウトサイドからシュートを多投し、オールコートプレスでスティールを仕掛けることで点差を広げ勝利することができたが、99-77の点差以上に心は疲弊していた。

「やっぱり、簡単には勝たせてもらえないな。意外にヤバいかもしれない」

菊地が危機感を募らせれば、若月も「1個、1個『勝たないとマズい』と思いながらやっていました」と同調していた。

準々決勝後、田臥が高熱でダウン

当時のバスケットボールはセットオフェンス――いわゆるサインプレーのようなシステムが主流だったが、能代工はフリーオフェンスだった。攻撃のタクトを振るのは田臥で、エースが仕掛けてスペースを作ることで菊地と若月が自分に有利なポジションを確保でき、得点を量産できていた。

だが、その大黒柱が、鳥羽との準々決勝に勝利した夜、38度の高熱を出してダウンした。

夕飯ものどを通らず、マネージャーの前田浩行がイチゴを買ってきて食べさせ、休ませる。翌朝、本人は「大丈夫、大丈夫」と笑っていたが、コンディションの不調は小林との準決勝で一目瞭然だった。

明らかに動きにキレがない。わずか12得点だったことがその証左で、そんなエースの穴を菊地が31得点、実は自身も熱を出し寝込んでいた若月も22得点を挙げてカバーした。

味方の援護もあって9冠まで「マジック1」とした市立船橋との決勝戦。復調した田臥が大一番で輝きを放つ。

点の取り合いだった序盤。3ポイントを3連続で決めるなど、開始10分で12得点とチームに勢いをもたらし、能代工は前半で53-34と主導権を握った。

フィナーレが1秒、また1秒と近づいてくる。残り15秒。ゴール下で競り合った3年生の控え選手、渡部直人からパスを受けた田臥が迷わずシュートモーションに入り、ミドルショットを決めた。この試合で自身37点目、能代工の98点目から10秒後に、ブザーが鳴った。

前人未到の9冠。田臥は何を思ったか

前人未到の9冠。能代工にとって通算50回目の日本一。東京体育館のスポットライトが英雄たちを照らしていた。

マネージャーの前田が応援団に向かって歓喜を謳う。安堵の表情を浮かべながら拳を突き上げる仲間を見て、田臥に笑みがこぼれた。

「優勝して、コートでユニフォームを着てる奴らが喜んで、その後にベンチメンバーと前田、応援団と一緒に喜ぶ瞬間っていうのが一番嬉しかったですね」

9冠を目指した、最後のこの大会。加藤は一度もタイムアウトを取らなかった。それは、監督とチームの志がひとつになっていることを示すためでもあったという

能代工を未踏の地へと導いた名将が語る。

「勝つごとに期待が大きくなるなかで3年間、そこに応えてきたことのすごさですよね。指導者が求めていることに気づき、考え、理解し、判断できる人間になってほしいと思っているなかで、彼らは本当にいい雰囲気でチームを作り上げてくれました。僕もこの3年で10年分くらい勉強させてもらいましたよ。本当に『ありがとう』と言いたいです」

静けさを取り戻しつつあった東京体育館のコートで、いつもの儀式が始まる。

トロフィーを囲み、校歌と『能工バスケットボール部の歌』『三冠王の歌』を奏でるなか、田臥は9冠への軌跡に想いを馳せていた。

「いい同級生、先輩、後輩と3年間一緒にバスケができて、幸せでした」

1998年の能代工業のウインターカップ優勝メンバー

取材・文/田口元義

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