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読書の凄み 第35回柴田錬三郎 受賞作『底惚れ』青山文平

集英社オンライン / 2023年1月2日 11時1分

仕事柄、私は多くの本を読みます。読むに連れ、ああ、私はなんにも知らないなあ、と思わされます。でも、しかたありませんね。人の頭のなかに収まる知識や考え方の量には限りがあります。けれど、それで本を読むのを止めたりはしません。自分の頭を、本の収蔵庫にするために読むわけではないからです。本を読むのは、自分を知るためです。

読書の凄み

仕事柄、私は多くの本を読みます。読むに連れ、ああ、私はなんにも知らないなあ、と思わされます。
でも、しかたありませんね。人の頭のなかに収まる知識や考え方の量には限りがあります。けれど、それで本を読むのを止めたりはしません。自分の頭を、本の収蔵庫にするために読むわけではないからです。本を読むのは、自分を知るためです。


自分なんてとっくに知っているという方がいたら、一つ質問しましょう。あなたはもう、自分が本当に好きだと思える人と出会いましたか。出会えたとしたら、その人は、あなたが前から抱きつづけてきた好きなタイプそのものでしたか。
誰が言ったのかは、もう記憶にないのですが、“自分がどんな相手を本当に好きと感じるかは、自分が本当に好きと感じる相手と出会うまではわからない”という言葉と出くわしたときは、目の前から薄皮が一枚取れた気がしました。
この言葉の凄いところは、好きな相手の他にも無限に通用することです。自分がどんな仕事を本当に合うと感じるかは、自分が本当に合うと感じる仕事と出会うまではわからないし、自分がどんな考え方と本当に共感するかは、自分が本当に共感する考え方と出会うまではわからない。私はかなりの歳になってからソロキャンプの楽しさを知ったのですが、趣味でもなんでも、自分を組んでいるあらゆるものが、実は、実際に自分が欲しているものと出会うまでは、本当に自分が欲しているものなのかどうかわからないのです。
そのように、人はさまざまな出会いを通じて自分を知っていきます。自分が本当に好きだと思える人と出会ったとき、あなたは、自分が本当に好きな人を発見するわけですが、もう一人、そういう相手を本当に好きだと思う自分をも発見しているのです。
自分を知ると、なにがどうなるのか……。人は無限の知識や考え方を獲得できるわけではありません。でも、生きていけば、暮らしの場面場面で、数え切れないほどの判断を下すことになります。たいていの場合、専門知識のないままにどうするかを決めなければなりません。でも、いわゆる専門家だって条件は同じです。専門家とは、ごくごく限られた専門領域の他はなにも特別には知らない人のことを指します。そして、人生に立ちはだかる問題は、実に多くの条件が絡み合っています。解決する難しさは専門家だってなんにも変わりません。
で、自分を知る、なのです。自分がなにを好み、なにを望み、なにを拒み、なにを受け入れがたいか、突き止めておくことなのです。
いやです。できません。保留します。やります。ぜひ、やらせてください。条件を変えてください……突き止めておけば、言葉が出てきます。問題は複雑でも、肝腎の決めるあなたがどんな人なのかはくっきりしているからです。仮に、そのときは望まぬ結果になったとしても、望まぬ返答をして望まぬ結果になるよりは後悔しなくて済むし、また、長い目で見れば、望んだ結果になるかもしれない。なによりも、自分が自分の主になれば、生きていくことがつまらなくなくなります。
だから、自分を知る。
でも、現実の世の中で、自分が本当に好きだと思える人と出会い、自分が本当に合う仕事を得て、自分が本当に楽しいと感じる趣味に打ち込み、自分が本当に共感する考え方を持つ人と巡り合うのは、かなりハードルが高いでしょう。
だからこそ、言いたいのです。本がありますよ、と。不思議ですね。時として読書は、リアルに勝るリアリティを読む者に届けます。その読書の凄みが、現実の出会いに代わって、あなたが見知らぬ自分と出会うのを助けるのです。私は本を読み始めた時期が遅く、いささか悔やまれるのですが、それでも、いま、小説を書いているのは、読書の凄みのお蔭と思っています。

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