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「リスクを負って攻めろ、走れ」オシムが遺してくれたもの【追悼試合手記】

集英社オンライン / 2022年12月30日 13時1分

今年5月に亡くなった、元サッカー日本代表監督のイビツァ・オシム氏。サッカー界での業績はもちろん、あらゆる民族や階層からも尊敬を受けていたオシム氏は、日本にも多くの遺産を残した。その人物像を広く日本に知らしめたベストセラー『オシムの言葉』の著者・木村元彦氏による惜別の手記。

11・20 オシムさん追悼試合

蘇我駅を降りて小雨のパラつく歩道を歩いていると、ふいに後ろから名前を呼ばれた。振り返ると、ジェフのレプリカユニに身を包んだ見覚えのあるカップルが手を振っていた。

「ああっ」思い出した。会うのは十何年振りだろう。旧知のジェフサポーター夫妻との久しぶりの再会だった。

「しばらく、スタジアムではお見かけしませんでしたね?」



「ええ、もう足が向かなくなってしまったんです」

オシムが代表監督になってから、サポーターを休止してしまったと言う。

「オシムさんが、私たちのジェフから代表に引っ張られたことが、やっぱり引っかかっていたんです」

悔しい、今日はだから、お別れを言うために16年ぶりに来たんですと、小さく笑った。雨が少し強くなった気がした。

もうほとんどの人が話題にもあげなくなってしまったオシムの日本代表監督就任の経緯だが、今も忘れられない人がいるのだ。

言い換えれば、私たちこそがオシムさんを愛していたのだと、夫妻はジェフの2006年版のユニを着てフクアリ電子アリーナにやって来たのだ。

「でも、今日はオシムさんのその命がけの仕事を悼もうよ。代表にも大きなものを残してくれたのだから。それにこの追悼試合はジェフの選手の発信だし」

「そうですね。勇人ですよね。あの勇人がね。うちらはもちろんオシムジャパンではなく、オシムジェフを応援しますよ」

追悼試合の発案は佐藤勇人だった。20年間のプロ生活を務め上げ、今、バンディエラ(イタリア語で騎手、クラブの象徴的選手の意)としてジェフ千葉のCUO(Club united officer)を担っている勇人は、オシム逝去の報が入ると同時に動き出した。

サラエボでもグラーツでもオシムのゆかりの土地では、それぞれに行政が動いて追悼の式が行われたが、日本のそれは、教え子の発意から始まった。

勇人はクラブに提起すると同時に、ジェフと代表でオシムの下でプレーした選手たち、50人以上に自ら電話をかけて出場を働きかけた。ほとんどの選手が、即答で賛意を示し出場を快諾してくれた。

「水本(裕貴・SC相模原)とかJ3で現役でやっている連中も試合さえ無ければ来たいと言ってくれていたし、あの(チェ)ヨンスさんも韓国(江原FC)で監督をしていなければ、行きたいと連絡をくれたんです」

「あのチェ・ヨンスさん」ならぬ「あの勇人がね」と夫妻が言ったのには、わけがある。ジェフのユース育ちの佐藤勇人はトップチームに上がる前に二度サッカーをやめていた。才能には自信があったし、周囲もそう見ていた。

しかし、自分がサッカーだけの人間と思われるのが嫌だった。10代特有の自意識から、髪を茶色に染め、ブレスレットやネックレスを身にまとうとコーチから「あいつは使えない」と言われた。

理解してくれない指導者がいる退屈な練習場よりも、町や海の方に魅力を感じていた。勇人は同世代の選手が高校選手権に向けてギアを上げる高校二年になると、練習に出なくなり、ゲームセンターとサーフィンにはまった。

脱色した長髪を無理やり黒く染められて出場した国体では、千葉県代表のキャプテンとしてチームを優勝に導く。

それでもやはり、退屈からは抜け出せず、全日本ユース代表監督の西村昭宏が代表に招聘しようと電話をかけると、日焼けサロンから「僕、もうサッカーやめたんです」と告げて、驚かせた。

才能を惜しまれてプロになり、U-21日本代表にも選ばれていたが、燃えるものが無く「サッカーはもういいか」と考えていた。21歳でスパイクを脱いでいてもおかしくなかった。そんな勇人がその後バンディエラになると、当時いったい誰が予想しただろうか。

すべては2003年に監督に着任したオシムとの出逢いからだった。

ピエリアンアウンの「3本指ポーズ」

スタジアムが見えて来た。

「じゃあ、この辺で。うちらはオシムジャパンではなくて、もちろんオシムジェフを応援しますよ」

そう話す夫妻と別れて記者席に向かった。

「ああ、そう言えば」フクアリ、日本代表、佐藤勇人で三題話のように思い出した。昨年2021年、私は日本サッカー界で「オシム的」なものに何度か、遭遇していた。

きっかけは、このフクアリスタジアムで5月に行われたW杯アジア二次予選の日本対ミャンマー戦だった。この試合の国家斉唱時にミャンマーの第2GK・ピエリアンアウンは、母国で起きた軍事クーデターに抗議を示す3本指ポーズを示した。

ミャンマーでは2月1日に選挙で大敗した国軍が政権を転覆させ、自国の国民に銃を向けていた。抵抗する者には容赦なく、ピエリアンの後輩であるU-21の代表キャプテン・チェポーポーニェエンまでも撃ち殺された。

ピエリアンの抗議のアクションはミャンマー民衆を勇気づけたが、同時に本人の身に危険が迫った。このまま帰国すれば、空港で逮捕されて下手をすれば獄中で、殺害される。

政治亡命を決意し、難民認定を受けたピエリアンは、オシムを日本に招聘した祖母井秀隆が指導する淑徳大学でトレーニングを重ねていた。そこに勇人が来てくれていたことがあった。

ピエリアンは全身にタトゥーを施している。学生選手を怖がらせたくないとの気持ちから、「これはミャンマーの文化なのです」と汗だくになって説明していた。国家の暴力に対しては大胆な行動をとったGKも初めての環境の中で大きな緊張に包まれていた。

そのときだった。勇人が「そんなの全然、平気っすよ〜、俺なんか〜」と袖を捲りあげて、二の腕に彫ったった息子の名前を見せてくれた。異国で生きていこうとする難民選手を気遣うその優しさが嬉しかった。

その後、ピエリアンはJ3のYSCC横浜の練習に参加することになった。埠頭にあるクラブ事務所に受け入れの挨拶に行くと、入り口にオシムの大きなポスターが貼ってあった。「これは上手くいくのではないか」と気持ちが明るくなったのを覚えている。

案の定、難民ヘイトもかまびすしい中、オシムサッカーに心酔していたというSCC横浜の吉野次郎代表は、ピエリアンの境遇を理解し、フットサルチームのメンバーへの選手登録を進めてくれた。そう、オシムもまたボスニアからの難民であった。(現在、ピエリアンアウンは現役を引退し平和アンバサダーとして活動している)

しばしば、オシムの生涯を「寛容と多文化へのオマージュ」と記したが、その生き方が日本のサッカーファミリーの中に息づいていると思えたものである。

リスクを負って攻めろ、走れ。

雨の中、試合が始まった。オシムジャパン、先制の一点目は天の配剤か、我那覇和樹だった。ゴール前で闘莉王の落としから、丁寧にゴールを決めた。

2007年の代表監督時代、オシムは我那覇が、ドーピング冤罪事件に巻き込まれたあともこの沖縄出身のストライカーを気にかけていた。

メディアや関係者が正しい事実を把握せずにドーピングだと騒ぎ立てていた同年5月3日、横浜FC対川崎Fの試合を視察したオシムは「選手に被害のない形で、きちんと解決した方がいい」(日刊スポーツ5月4日)と唯一、渦中の被害者を思いやる発言をしている。

さらには指導者を引退後も「最も記憶に残っているゴール」として、2006年9月6日、アウエイ・サナアのイエメン戦での我那覇のゴールをあげている。

何の罪も犯していないにも関わらず、冤罪で苦しめられた選手にエールを送り続けるかのような発信であった。我那覇は現在も九州リーグのジェーイリース大分で現役を続けている。

試合は4対1でオシムジャパンの勝利。

巻誠一郎はラストのスピーチでこんなことを言った。

「今日はジェフOBはオシムジャパンに歯が立たない完敗でした。オシムサッカーはしっかりと走れないと勝負にならない。今日の勝者はオシム監督だと思っています。

リスクを負って攻めろ、走れ。歩みを止めて諦めるのは簡単だ。オシムさんの魂は、責任を持ちながら、一歩を踏み出す勇気を持てということだと思っています。僕自身、そういう人でありたいと思っています」

巻は現在、NPO法人ユアアクションを立ち上げて地元熊本地震の被災者に寄り添い、復興支援を続けている。

ミックスゾーンで選手を待つと、我那覇が出て来た。

我那覇和樹

「僕が一点目を決めていいのかわからなかったですけどね(笑)オシムさんに教わったことを体現できてよかったです。16年ぶりの代表ユニフォームですけど、オシムさんに認められたいという思いでやっていたので」

続いて現れたのが、大分で市議会議員として活動している”ミスタートリニータ”高松大樹。

高松大樹

「明日から公務で12月から定例議会が始まります。スポーツを活かした街づくりに向けてがんばりますよ。僕なんかまだまだペーペーですけど、オシムさんがサッカーの力は無限だと教えてくれたので、スポーツによる活性を議会にも提言してまたがんばっていきたいです」

「遺志を継ぎたいんですよ」

オシムさん追悼試合の発案者であり、ジェフ千葉のCUOを務める佐藤勇人

最後に追悼試合の発案者が囲みに応じてくれた。

勇人はオシムが常々言っていた「日本サッカーの日本化」という命題に取り組み続けていきたいという。

「サッカーの日本化については、あえて僕たちに課題として残してくれたんじゃないかと思うんです。自分は選手だけではなく、裏方さん、スタッフ、メディア、サポーターさんにもあの時代に学んだことを伝えていきたいんです。追悼試合の単発で、答えがわからない状態では終われない。遺志を継ぎたいんです」

熱く語るCUOには、オシムのサッカーの深淵を体感した強い思いがある。何より、自分の人生がそれで変わったのだから。

21歳のときに初めて指導を受けたときの教わった衝撃はそれだけ大きかった。当初は厳しい練習に選手たちからの不満も出たが、降格争いの常連だったジェフが気づけば優勝を争っていた。何より、革新的だったのは、そのサッカーの質だった。

「あの頃、オシムさんが求めていたものが今のサッカーの主流になっていますよね。スピード、走力、リスクを冒しての前からのチャージ、デュエル(=マンツーマン)、こういうサッカーがやってくるのを20年前にわかっていたんですね」

オシムはすべての選手に平等にハードワークを求めた。チームのためを考えれば、上手い選手ほど走らなくてはならない。その最終形が2022年のカタールW杯で躍動していた。言うまでもなくクロアチアのルカ・モドリッチである。

オシムのサッカーを語る上で、象徴的な試合がある。2003年7月20日。対ジュビロ戦である。前年度、26勝3敗1分で前後期を制し、ベストイレブンに7人が選出されていた当時のジュビロは、クラブ世界選手権用に考案された「Nボックス」と呼ばれるシステムでJリーグを席巻していた。

このジュビロにジェフは真っ向から打ち合いを挑んだ。高速でパスを回し、名波、藤田、服部、西らジュビロの中盤に運動量で対抗。

2対2で迎えたロスタイム、90分を全力で走り回っていた勇人は、最後の得点機に駆けあがった。絶好機シュートを外してしまうが、オシムはミスよりもその時間帯にボランチが前線に走っていたことを評価してくれていた。

一方でこの日も大胆なチップキックでPKを決めるなど、ゴールに絡んでいたFWのチェ・ヨンスにもオシムは容赦無く、守備をすることを要求。それまで歴代監督がアンタッチャブルにしてきたエースにも忖度はしなかった。

現在、大阪の毎日放送で報道カメラマンを務める樋江井亮は、当時ジュビロのジュニアユースでこの試合のボールボーイをしていた。強烈な熱量をもった試合に圧倒されながら、ピッチの上でオシムがチェ・ヨンスに厳しく要求し続けていたのを記憶している。

「僕の僕はまだ13歳でしたけど、痺れましたね。人生が変わるくらいに、今でも頭に焼き付いている試合です。それでいてプレーが切れると、怖そうに見えたオシムさんが、裏方の自分たちにはすごく優しいんですよ。それも印象に残っています」

樋江井は現役を離れた今もこつこつとサッカーのドキュメンタリーを制作している。選手もサポーターも裏方も、あのヤマハスタジアムの空間にいた者すべてを魅了するような試合だった。今、思えば日本が世界に向けて繋がるハードワークであり、ゲームマネージメントだった。

「遺志を継ぎたいんですよ」と勇人は言った。文化は箱ものではなく、人に蓄積するという。オシムが遺したものは紛れもなく、多くの人の中に残っている。

文/木村元彦 写真/AFLO

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