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“異色の登山家”栗城史多氏をテレビ番組で取り上げ、彼の「劇場」に加担した反省と責任

集英社オンライン / 2023年1月30日 14時1分

2018年に亡くなった「異色の登山家」とも称される栗城史多氏を描き、注目を集めた『デス・ゾーン 栗城史多のエベレスト劇場』。栗城氏は登山の様子を動画配信するなど、型破りな活動で話題を呼んだ人物だったが、その活動には激しい毀誉褒貶がついて回った。同書の文庫版発売にあたり、2021年に公開された著者インタビューをここに再掲する。

――本書の重要なテーマとして、「インターネット」や「SNS」が挙げられると思います。栗城さんはネットでの活発な発信や、動画での登山中継などで話題を集めて「異色の登山家」とも呼ばれました。本作では、そうした栗城さんのネットとの関係性についても克明に描かれています。著者である河野さんご自身は、ネットやSNSとはどのように付き合っているのでしょうか。



河野 実は、この本が発売されてからネットは一切見ないようにしているんですよ。

――えっ、ネットを見ていない。

河野 そうなんです(笑)。一つ感想を読んでしまうと、また次の感想という風に、気になってどんどん読んでしまうだろうなあ、振り回されてしまうだろうなあと思ったんですね。

執筆中にはむしろネットの情報を毎日、それこそ探るように、溺れるように見ていました。「ネット登山家」とまで呼ばれた栗城さんの足跡は、ネット情報を見ないと辿れない部分がかなりあったので。

ただ、今回の本が発表されてからは一切見ないようにしています。勤務している北海道放送の同僚から、直接「面白かった」と言われたりとか、あるいは取材対象者の方から手紙が寄せられたりすることはありますが、ネットで自ら感想を探すことはありません。

やっぱり栗城さんの人生を辿っていたら、ネットという場が怖くなった、ということが大きいですね。それに前編でも触れましたが、僕ごとき無名のテレビマンのブログにさえ、相当すごいコメントが来たことがありますから。

これを一つ一つまともに受け止めて、咀(そ)嚼(しゃく)しようとしていたら身も心も持たないな、と感じたので見ないようにしています。何を言われても動じないぞ、と言えるほど強い男でもないので。

ただ、決して色々なご意見を無視しようとしているということではありません。執筆中には本書が世に出ることで向けられるであろう、あらゆる批判を覚悟したうえで書こうと決意を持って取り組んだのは事実です。

この話に関連することで、朝日新聞の北海道版にも寄稿したんですけれども、僕は今回の原稿を書きながら、ときどきその書く手を止めながら行っていた「作業」があるんです。

――どんな「作業」でしょうか?

河野 自分自身を思いつく限りの言葉で罵倒していたんですよね。

――自分で自分のことを罵倒していた!?

河野 例えばこんな感じです。

「栗城史多の知名度に便乗して利益を得ようとするサイテー男」

「人の秘密を暴き立てるマスゴミ」

「彼が死んだとたん、舌なめずりしながら現れたハイエナ」


――ある面ではそうなのかもしれませんが……。

河野 この本が発表されたら、おそらく傾聴すべき批評だけではなくて、僕に対しての批判や中傷が執拗に届く可能性もあるだろうと予想していました。

もしそうなったら、そしてその状況に僕の心が折れてしまったら、家族など近しい人にも影響を及ぼしてしまいます。だから、やがて受ける可能性が高いこういった批判に、徐々に自分自身を慣らしながら原稿を書きました。

ただ一方で、それによって委縮して無難な内容になってしまうのは避けたかったので、筆は緩めないようにしながらも、自分の覚悟を徐々に固めていきながら書いたという感じですね。ノンフィクションを書くということは、それだけ取材対象などを傷つける暴力的な行為だということは常に意識していました。

――開高健ノンフィクション賞の最終選考会講評には、“自身もテレビ番組で栗城さんを取り上げ、彼の「劇場」に加担していたことの反省をもっと書いて欲しかった“という趣旨のコメントもありました

河野 そうですね。僕自身、その責任の一端は絶対にあると思います。「反省が足りない」というご指摘にも、その通りだなと思います。

ただ、これは今回の原稿を書かなければならなかった動機でもあるんですけど、彼を持ち上げたことに対する反省や責任ということは、少なくともテレビ界では誰も口にしなかったと思うんですよね。

前編でもお話ししたことですが、栗城さんが最後になぜエベレストで亡くなったのか。なぜ滑落してしまったのか。そして、彼にとって登山がどういうものであったのか。そうした詳細は、調べようと思えば調べられる。普通の取材者であれば、彼と長年付き合ったシェルパに行き着くはずですし、そのシェルパだって尋ねれば正直に話してくれる。

そうした「裏取り」の基本さえも怠って、彼が亡くなった時にはどこのテレビ局も、ただ淡々と事務所が発表した情報を伝えるだけだった。しかも、最初は死因について誤報を伝えてしまった。これはある種の怠慢ですよね。

ひょっとしたら、メディアの中では彼はもう最後まで、単なるトリックスターで良かったのかもしれない。ある種のキャラクターとして面白おかしく動画を提供してくれればそれで良いという、そういう存在でしかなかったのかもしれません。

番組制作者も記者も、誰も栗城さんとは本気で向き合っていなかったんじゃないかという思いはありますね。そんな苦い思いもあって、だからこそ彼について書かなければいけない、自分なりに「栗城史多」というひとりの人間に迫らなければならない、という意識は強くありました。

たとえ誰かに攻撃されたとしても、逆に誰かを傷つけてしまう可能性があっても、世に問う意義がある。そう信じて書き続けました。自分なりの「覚悟」というのは、そのうえで必要なものでした。

――ネット、あるいはSNSと栗城さんとの関係についてはどのようにご覧になりましたか?

河野 リアルタイムで追っていたわけではないので、あくまでも後から調べた範囲ですけれども、栗城さんの場合には少しわかりづらい面があったと思います。

栗城さん自身は傷ついた素振りを外に全く見せませんでした。中傷されたり批判を受けたりしても、それに対して彼も反論していました。しかし、登山や動画配信の失敗を繰り返すようになった栗城さんに対する、ネットやSNSでの一時期の叩き方というのは、ものすごかった。傍から見ている僕が怖くなるくらいでしたから。

そのうえで、何よりも彼はネット自体が最後まで好きだった。だから「ネットの被害者」という風には、少なくともメディアは報じなかったですよね。ましてやテレビ界では誰も口にしなかった。

――ネットやSNSについて、河野さんご自身はどのようにお考えですか?

河野 嘘と真(まこと)が共存する世界というのか、虚実もさまざまな感情も増幅し合っている世界だという認識をちゃんと持って付き合わないと、人の命にかかわる問題を生む恐ろしいシステムなんだよ、ということは言いたいですね。そのことは、本書を通して伝えたかったメッセージです。

表現の仕方が難しいんですが、ネットのやり取りは実体がともなわないというか、いったい誰と話しているのか、誰を叩いているのかわからなくなってしまう。「なぜ俺はこいつに怒っているんだ?」ということさえも、書きながらわからなくなってしまうこともあると思うんですよね。ネットという場は、恐らくそういう魔力を持っているんだろうなと思います。

もちろん、便利だということもわかります。2000年のことですけど、スウェーデンのド田舎の町を取材したことがあるんですね。人口が500人ぐらいの小さな町だったんですが、そこでネットで音楽を配信している若者を取材して。

彼はそれで収入を得ていたし、ネット一本でこんなド田舎にいても世界と繋がることができるんだ、って語ってくれて。あっ、これはすごいなあ、こういうネットの使い方ができるんだったら素晴らしいなと思った記憶があるんです。

――まるでYouTuberのような、時代の先駆けとなるミュージシャンがいたんですね。

河野 だから本当にもう使い道次第だと思いますし、今の時代、必需品には違いない。すごく古くさい言い方に聞こえちゃいますけど、この便利な「文明の利器」とどう付き合っていくかというのを、本当に自分の頭で考えなきゃいけないんだろうな、と思いますね。

最後は自分で考えないとどうしようもない。ネットの世界にちょっと足を踏み入れると、色々な人の意見や、様々な言葉、優しい言葉、激しい言葉、いやらしい言葉、そういう言葉の洪水で溺れそうになる。その中でよりどころになるのは、最後には自分自身。だから実は、僕がネットからイメージするのは“孤独”というキーワードなんです。

『デス・ゾーン』では栗城さんの人生を自分なりに描きました。栗城さんをテレビや著書で知っていた方は、それまで彼に抱いていたイメージが変わるかもしれません。栗城さんを知らなかった方にとっては、人は威勢の良いことを言っていても、突き詰めると弱くて脆いところがあるんだな、などと人間について改めて考えるきっかけになるかもしれない。

どのように感じていただいても自由ですが、とにかく考えてほしいというのが願いです。栗城さんの生き方に賛同する人がいても良いと思いますし、逆に彼の生き方にあまり共感できず、「俺はしっかりと自分の足元だけ見て生きていこう」と思う人と、両方がいて良いと思います。

ただ、どちらの道を選ぶのか、ちゃんと自分一人の頭で考えてから選択して欲しいな、ということだけは強く思います。

河野 ちょっと話がズレますけど、今回ノンフィクションを書きながら感じていたのは、これは栗城さんがやってきた表現方法とは逆のアプローチかもしれないな、ということなんですね。

――栗城さんとは逆のアプローチ、ですか。

河野 はい。栗城さんの表現方法っていうのは「キャッチーで、見た目が面白くて、派手でわかりやすい」というものでしょう。そして、「夢を共有しよう」「否定の壁を越えよう」といった万人が否定しづらいフレーズを使い、選ぶ言葉も一つ一つがわかりやすい。

逆に、ノンフィクションっていうのは地味だけど、根気よくと言いますか。派手じゃないけど突っ込んで深く、と言いますか。わからないことはわからないまま提示する、わかりやすさなんか求めないという表現形態でもある。

執筆を通して、まったく逆のアプローチだな、っていうのを感じながら、愚直に彼の人生を辿っていったという実感がありますね。

――活字のノンフィクションは、テレビのドキュメンタリー番組のつくり方や表現の仕方とはかなり違うのでしょうか。

河野 まさにそのことを僕も考えながら執筆していました。やっぱり違いますね。テレビでは宿命として1時間なら1時間、1時間半なら1時間半という枠の制約があります。さらに厄介なことに、視聴率という要素も絡んでくる。

そうなるとどうしても、やっぱり面白くわかりやすく、お客さんが逃げないように、という配慮が必要になります。それで、結局「わかりづらいこと」は提示しづらいんですよ。この点が決定的な差かもしれません。

「いろいろ考えたけど、よくわかりませんでした」という結論になってしまったら、じゃあなんで放送するんだ、なんでつくったんだ、というツッコミが即座に飛んできてしまう。

だから、特に人物を描く時には、良心的な制作者ならば誰しもが悩むはずです。どうしても長く時間を共にしていると、その追っている人物の良くない面も見えてくるわけですよね。

それをどの程度番組に入れるか、あるいは入れないかで葛藤する。悪い面を全く落としてしまって、良い点だけを謳い上げて、実際の人物とは違う人間を描いちゃうのも問題ですから。

それでも、どうしても「わかりやすく」描く必要がある。そういう「まとめなきゃいけない」というテレビの性(さが)というのは非常に重い足枷と言いますか、難しい問題なんですね。

――活字のノンフィクションでは、そうした制約はあまり感じなかったでしょうか。

河野 そうですね。活字ならば、調べたり考えたりしてもわからなかったことを「わからない」と書ける。テレビドキュメンタリーの場合には、わからなかったことはシーンとして構成しない、つまり「無かったこと」にして描かないことが多いんですが、活字だとそういうモヤモヤした部分もしっかり描ける、というのは発見でした。

同時に、ネットでもテレビでも活字でも溢れている、一見威勢の良い言葉とか、耳当たりの良いキャッチフレーズに簡単には乗らないような社会が一番深くて豊かなんだろうな、ということも改めて思いました。

今回の本も、「いいね」をつけて拡散してすぐに忘れてしまうようなものではなく、読んだ人の心の中にずっしりと深く沈んでいくようなものであってほしいなあ、という願いを込めています。

――最後に、河野さんにとってノンフィクションで書きたい、あるいは今後書くだろうなと感じるテーマというのは、どのような題材なのでしょうか。どんな時に「ノンフィクションとしてこれを書かなければならない」と思うのか、伺えますか。

河野 これはテレビでドキュメンタリーをつくる時にも同じなんですが、どのメディアもこぞって持ち上げるような題材ではなく、誰も見ないところを見たいな、といつも思っているんですよね。

わかりやすい例で言うと、「スポーツの北海道日本ハムファイターズの○○○選手はここがすごい!」とかっていうのは、誰でもやると言いますか。そういうように皆で持ち上げたり、あるいは批判したりするテーマや対象というのが世の中にはあります。

これはいわば、「悪いヤツはこんなに悪い」「良いヤツはこんなに良い」「すごいヤツはこんなにすごい」ということを、誰が一番うまく描くか、という競争みたいなものです。

そうじゃなくて、悪いヤツにもこんなにめんこいところがあるんだとか、いとおしい部分があるとか。この人はいつも威勢の良い美しい言葉を使っているけど、こんな悪事も働いているんだとか。そんなように人がなかなか気づきづらい、描きづらいような、あえてそういった人物なりテーマなりを探していきたいなとは思っています。

――有り難うございました。


(注:めんこい/北海道方言。「かわいらしい」「愛らしい」といった意味)

文責:集英社新書編集部 写真:定久圭吾

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『デス・ゾーン』の文庫版刊行に際して、丸善ジュンク堂書店の複数店舗で「開高健ノンフィクション賞20周年記念ブックフェア」の開催が決定した。過去の受賞作2作と合わせて、「冒険」をテーマにした3作品が大々的に展開されている。

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