脱原発デモの先に何が見えるのか? 哲学者・國分功一郎「デモというのは単に人が“現れる”ことです」

週プレNEWS / 2012年8月9日 18時0分

哲学者の國分功一郎氏は「10万を超える群衆が集まった光景は確実に日本人の脳裏に焼きついた」という

日本全国に脱原発デモが広がっている。日本の未来にかかわる「原発」という問題に対し、反対の声を上げる人たち。その一方で、デモ参加者たちに冷めた目を向ける人もいる。デモをしたくらいで何が変わるというのか。

はたしてデモの先には、何が見えるのか。デモが本来持つ意味、そして日本型デモのあり方を、哲学者の國分功一郎氏に聞いた。

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デモをやってなんの意味があるのか、何が変わるのか。日本では必ずそう問われます。逆に私は聞きたい、あなたはデモに何を期待しているんですかと――。

不思議なことに日本ではこれまで、デモというと、参加者が強い問題意識を持ち、現場ではシュプレヒコールを求められる、敷居の高い行動だという思い込みがありました。

背景には、かつての社会運動がもたらしたトラウマがあると思います。60年代から70年代に先鋭化した学生運動は「社会運動をすると人が傷つく」という負のイメージを残して衰退していった。

今回のデモの特徴は、そうしたトラウマから人々が自由になっているところです。実際に官邸前を訪れてみると、子供連れの女性から学生、老人まで、幅広い参加者がいる。ガチガチの反原発論者から「なんとなく来た」という人まで、動機も濃淡があります。「何かおかしい」という感覚を共有した人たちがただ集まっている。ここが重要です。

私はフランスに留学していたのですが、デモはありふれた光景でした。雇用や教育などイシューはさまざま。参加者に特定の傾向もなく、サンドイッチなんかを頬張りながら、数万の群衆が週末の街をただ練り歩く。

デモのことをフランス語では“manifestation(マニフェスタシオン)”といいますが、これは「現れる」という意味なんです。デモというのは、ある論点をめぐって人が単に現れることです。「何かおかしい」と思う人がただそれを行動で示す。それだけのことだし、それのどこに問題があるのでしょうか。イヤなことにイヤだというのは当たり前のことです。

しかも実際にはそれ以上の効果がある。数万の群衆はある意味で不気味です。権力側が努力と配慮を怠れば、現在の秩序は維持されないかもしれない――。デモはたとえ平和的であってもその可能性を存在感によって示します。

ただし、今の日本の政治家があまりに鈍感だという現状は考慮しなければなりません。再びフランスの話ですが、06年、若者の雇用促進を目指す新しい労働契約の法案が提示された際、フランス全土でデモや激しい抗議行動が行なわれました。試用期間中は自由に解雇されるというのが反対の理由で、当時の首相ド・ヴィルパンは結局この法案を撤回します。

その撤回の際のド・ヴィルパンのテレビ演説が耳に残っているんです。彼は「この法案は若者たちのことを思ってつくった。なのにそれが理解されなくて残念だ」と国民に向けて語りました。法案の評価はともかく、ここには政治家と抗議の間で対話が一応成立していたわけです。

今の日本でこういうことが考えられるでしょうか。政治家はコソコソやってこっそり法案を通すのが政治だと思っている。しかも政策も十分に考え抜かれていると思えない。政治不信を超えた、政治不安が現在の日本の抗議運動の根幹にあります。

官邸前デモは永遠に続くものではありません。しかし、10万を超える群衆が集まった光景は確実に日本人の脳裏に焼きついた。今後、このお行儀のよい日本型デモはカルチャーとして根づいていくと思います。声を上げる習慣を日本が取り戻していく、その兆しを感じます。

國分功一郎(こくぶん・こういちろう)



1974年生まれ、千葉県出身。高崎経済大学経済学部准教授。専門はフランス哲学。近著に『暇と退屈の倫理学』(朝日出版社)がある



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