今こそ読み返したい、史上最高の「ゼロ戦パイロット」の言葉

週プレNEWS / 2013年8月15日 6時0分

坂井三郎氏が操縦する“零戦一一型”。中国大陸上空にて1941年6月頃

今日、8月15日は終戦記念日。特に今夏は宮崎駿監督の新作に続き、300万部突破の大ベストセラー小説の映画版も完成と、ゼロ戦に熱い視線が注がれている。そんななか、ぜひ読み返したいかつての「週刊プレイボーイ」名連載がある。伝説の操縦士、坂井三郎氏による「人生相談」だ。

■先に敵機を見つけるための特訓法とは?

太平洋戦争において、「撃墜王」としてその名をとどろかせた、ゼロ戦のエースパイロットがいた。

そして、戦後50年を目前とした1994年―。その伝説のパイロット・坂井三郎氏は、週プレで人生相談『大空に訊け!!』を連載。大きな反響を呼んだ。例えば、仕事が長続きせず悩んでいるという読者の相談にはこんな言葉を贈っている。

「昔、クラークとかいう北大の先生が『少年よ、大志を抱け』と言ったが、冗談じゃない。少年なんていうのに大志があるはずがない。

若い間は自分の進む道がわからなくて当たり前。まずは、“これをやってみたい”というものをあれこれやってみる。(中略)そうやって“天職”というのを有効射程距離に近づけていくのだ」(94年2月8日号)

坂井氏は1916年、佐賀県の生まれ。17歳で海軍へ入隊し、1938年から終戦までの7年間、主にゼロ戦を駆って大空で活躍した。

この連載を担当したジャーナリストの世良光弘氏はこう語る。「周囲からどんなに『天才パイロット』と言われても、自分を天才とは認めなかった。いつも『自分は才能がないから努力をした。努力で才能を買った』と口にしていました」

坂井氏は、自らの圧倒的な努力について、こう回想している。

「戦闘機パイロットは敵に見つかれば命を失う。そこで、こっちから敵を見つけるために、昼間の星でも見えるほどに視力を鍛え上げた。見えなければ殺される。そう思って訓練していくうちに実際に見えるようになった。お蔭で、一度も敵に先に発見されたことがない」(94年2月8日号)

彼は、自身が残した驚異的な撃墜スコアをひけらかすことはなかった。だが、ひとつだけ誇りにしていたことがある。どんな窮地に陥っても、自分の部下たちを死なせなかったことだ。

「いかに自分を、そして部下の命を守りながら勝利するかを全身全霊を挙げて研究努力した」(94年2月8日号)

「ゼロ戦パイロットと週プレ」という意外な組み合わせで始まった、この「人生相談」連載だったが、坂井氏は、若い読者に対して本当に優しい人だった。届いた何百通もの手紙すべてに目を通し、誌面には掲載されなかった相談にも最善の答えを考え、時間が許す限り、手紙を書いていたという。

「最近の若者はダメ」という風潮に憤る読者の問いには、こんな言葉を贈っている。

「私はけっして今の若い者をけなしたり怒ったりはしません。(中略)よく私たち年配の戦前育ちの年寄りが口を開くと『現代の若者はなっとらん』とか言うが、その年寄りたちも若い世代には『今の若い者は……』と怒られ育ってきたのでした。人間はそうやってだんだん進歩し育っているのです」(94年5月24日号)

いつの時代でも、新たに時代を切り開いていくのは若者だと考えていたのだ。

■彼は毎日、誰に手を合わせていたのか?

連載時の1994年になっても坂井氏は、かつての戦友たちを誰ひとり忘れることがなかった。

「ほとんどが戦死したか、生還しても他界したかしているが、今も彼らは私の心の中に生き続けている。存命の戦友たちとは、たとえ遠く離れていようとも互いに連絡を取り合い、今も固い友情の絆で結ばれている」(94年2月22日号)

親友とケンカをしたという読者から来た「この世に本当の友情などないのでは?」という問いには、次のように発想の転換を促した。

「自分が真剣勝負で毎日を生きていれば、生き死にをともにするほどの親友と深い友情の絆を結ぶことができる。逆に、自分をごまかし毎日を言い訳でやり過ごしていれば友人は離れていく。敵は己にあり、だ。自分の人生を粗末にしてはならない」(94年2月22日号)

 

戦後は、当然のようにその腕を買われて警察予備隊(今の自衛隊)からの誘いもあった。しかしそれを断り、東京・両国で小さな印刷会社を始める。並行して自身の戦闘体験をつづり、特に『大空のサムライ』(1953年)は世界的なベストセラーとなった。アメリカ軍からもリスペクトされ、在日米軍基地に呼ばれて講演する機会も多かった。そんな彼は、戦争に対してどんな思いを抱いていたのか。

「愚かな戦争といわれる太平洋戦争に参加した日本海軍の一兵士として、一パイロットとして、(中略)戦った戦友たちが何を考え、どう戦い、何を悩んで死んでいったかを、臭いものに蓋をせずに語り続ける使命があるのだ。

確かに、戦争中、私は数多くの人の命を奪った覚えがある。だからこそ、自分が手にかけた人たちの数以上に誰かを幸せにしなければ自分は死ねないんだという信念で毎日を生きている」(94年3月8日号)

世良氏によると、坂井氏の自宅の応接室には大きな神棚があった。坂井氏はその神棚に向かい、戦死した仲間だけでなく、撃墜したアメリカ、イギリス、オーストラリアや中国の人の魂にも毎日手を合わせていたという。

2000年9月22日に永眠。享年84歳。坂井氏は、21世紀を見ずにこの世を去った。しかし彼が究極の“生き死に”の境で得た、生きる覚悟と平和への思いは、21世紀にも語り継がれるべきであろう。

●坂井三郎氏は、1916年佐賀県生まれ。33年に海軍入隊。38年より九六艦戦、ゼロ戦の操縦士として、敵機大小64機の撃墜スコアを持つ。想像を絶する激戦を生き抜き、戦後は印刷会社を営みながら戦争体験をつづった。94年には本誌で人生相談を連載。2000年永眠

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