セルジオ越後の一蹴両断! 第329回「“ドーハ”のチームがW杯本大会に出ていれば面白い試合をしただろうね」

週プレNEWS / 2013年11月7日 14時0分

早いもので「ドーハの悲劇」から20年が過ぎた。1993年10月28日、アメリカW杯アジア最終予選の最終戦でイラクと顔を合わせた日本は、後半ロスタイムに2-2の同点に追いつかれ、土壇場でW杯初出場を逃した。

もう大昔の話に感じるし、実際、若い世代の選手やファンなど当時のことを知らない人も増えた。ただ、その後の日本サッカーに大きな影響を与えたことは間違いないし、あの経験から学ぶことは今も多い。

当時のアジアのW杯出場枠は2(現在は4.5)。Jリーグが誕生したばかりの日本は、前年にアジア杯で優勝するなど勢いに乗っていたけど、実力的にはまだアジアナンバーワンじゃなかった。大会方式は一都市集中開催のセントラル方式。酷暑の中東で2週間に5試合を行なう過密スケジュールだ。

宿泊するホテルは全チーム一緒で、エレベーターで顔を合わせることもしばしば。DVDやテレビゲームなど、選手が息抜きをするための娯楽もほとんどなかった。取材で現地にいた僕は、毎日のようにそのホテルのカフェに行き、ラモス(瑠偉)と話をしていたんだけど、本当に厳しい環境だった。

迎えた運命のイラク戦、最後に同点に追いつかれた場面は今でも忘れられないね。僕はもうW杯に行けると確信していた。試合終了直後は記者席にいた報道陣もみんな放心状態でしばらく動けなかった。翌日、選手と一緒の帰国チャーター便の中もシーンとしていて、お通夜みたいな雰囲気だった。

結果的にW杯初出場を逃したわけだけど、オフト監督の率いたチームは本当にいいチームだった。エースのカズ(三浦知良)は絶好調。何よりラモス、柱谷(哲二)を中心に、個性豊かな選手たちが「俺たちが世界の扉を開くんだ」という強い気持ちを持って戦っていた。あのチームがW杯本大会に出ていれば、勝てるかどうかはわからないけど、面白い試合ができただろう。それは今思い返しても残念に思う。




とはいえ、冷静になって振り返ると、プロ化してまだ日の浅かった日本は経験不足だったんだろう。例えば、最後のイラク戦、後半24分に逆転してから、時間稼ぎのプレーを全然しなかった。それまでと同じようにまじめにプレーしてしまったんだ。コーナーフラッグ付近でボールをキープして行なう時間稼ぎのプレーも、日本で定着したのはドーハ以降だったと思う。

ドーハは日本サッカーが羽ばたき始めたときに迎えた大きな試練。そこで学んだ教訓は次のフランスW杯出場に生かされた。選手も日本サッカー協会も「次も行けなかったら日本サッカーが終わる」というくらいの危機感を持ち、メディアもファンも「W杯出場は絶対のノルマ」として厳しい視線を注いだ。だから、オフトの後任のファルカン監督は短期間で解任され、その次の加茂(周)監督も最終予選の土壇場で更迭された。

アジアの出場枠が増えたのは大きく、今や日本はW杯に出場するのが当たり前になった。また、多くの選手が海外でプレーするようになり、選手のレベルも多少上がったかもしれない。でも、そこに以前のようながむしゃらさ、厳しさはあるだろうか。明確なノルマがないまま、漫然とW杯本番を迎える。それでいいのだろうか。

ドーハの悲劇、あの頃の日本サッカーの熱さや厳しさを懐かしく思うのは僕だけではないはずだ。

(構成/渡辺達也)

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