甲子園のブラスバンドが完璧すぎることの違和感

日刊SPA! / 2019年8月17日 8時50分

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写真はイメージです(以下同)

 連日の熱戦で盛り上がる、夏の高校野球。そんな中、今年もアルプススタンドから鳴り響くブラスバンドに注目が集まっている。「星空のディスタンス」や「レッツゴー習志野」の“美爆音”で名を馳せる習志野高校や、対戦相手がなぜかピンチになってしまう「ジョックロック」の智辯和歌山など。いずれもプロ顔負けの演奏で、ブラバンブームを牽引する存在だ。

 ネット上では、各校の実力や選曲について多くの感想が投稿され、吹奏楽部の練習風景を取材するテレビ番組もあった。

◆ヘタさが若々しいブラスバンドは絶滅危機

 確かに、どの試合を観ていても、皆一様に聴かせる。主旋律に対して細かな符割りのカウンターメロディを織り交ぜたり、手数の多い太鼓で小気味よくビートを刻んだりと。なかには、ラップのコールアンドレスポンスで客を笑わせるサービス精神旺盛な高校もあるから恐れ入る。
 演奏の質や選曲のセンスだけでなく、プレゼンテーションの趣向まで競い合う現状は、さながらもう一つの全国大会が同時に行われているかのようだ。ファンが夢中になるのも無理はない。

 その一方で、明らかにヘタクソなブラバンが絶滅の危機にあるという点も気にかかる。今と違って、高校野球の応援がただの応援に過ぎなかった時代、資金力のある伝統校以外は、それなりにしょぼくれた演奏だったのだ。
 裏拍やハーモニーなど、どこ吹く風。ユニゾンでドンドコドンドコ直進し続けるスタイルもあれば、肺活量の不足から音が情けなく裏返ることもしばしば。だが、それも高校野球観戦の味わいだった。学生の学生らしさを証明する健全な未熟さが、この感動ポルノに少しばかりのユーモアを与えてくれていたのだ。

 それからすると、昨今の高校生ブラバンは、あまりにもきちんとしている。もっと言えば、息苦しさすら覚える。優秀さに特化された彼らの技術が、このニッチな世界を先鋭化させるほどに、筆者にはある考えが浮かんでくるのだ。“彼らは、プロの高校生なのではないか”と。

◆音楽でなく、管理・統率の徹底ぶりに圧倒される

 そこで、一部で“ブラック部活”とも揶揄されるほどに厳しい鍛錬の行きつく先を考えてみたい(もちろん、ブラバン強豪校がブラック部活だと言っているわけではない)。
 アルプススタンドから聞こえる傷一つない演奏には、職人的な辛気臭さが充満している。よく言われる“プロ顔負け”という形容詞は、裏を返せばそういうことだ。

 その中で、吹奏楽部強豪校のレギュラーを目指すとは、誤差が許されない部品を延々と納入し続ける手工業に近いのではないだろうか。そこでは、全体を見渡す視野ではなく、歯車のひとつとして身を捧げることに疑問を抱かない、都合の良い素直さが要求される。

 これこそが、“見事な”吹奏楽の演奏に対して、筆者が直感的に抱く違和感の正体である。

 もちろん、習志野高校の“美爆音”も、“魔曲”を奏でる智辯和歌山も、完成度において、立派な芸であることは否めない。だが、音楽に感動しているというよりは、管理、統率の徹底ぶりに圧倒されていると言った方が正確だろう。

 足並みはバラバラ、ピッチが不安定でも、音楽は成立する。フラフラしながらも、底力を振り絞るニューオリンズの子供たちの演奏を聴けば、その違いは明白だ。彼らが身を捧げるのは音楽、楽曲であって、部活動ではない。

 一方、高校の吹奏楽は、そのフィールドから一歩外に出た途端に効力を失ってしまう。脆(もろ)く危ういバランスの上に成り立つ曲芸だから、目立っているとも言える。そんな風に儚(はかな)い“芸”を特別視する精神性は、スポーツ風メロドラマとも呼ぶべき、特殊なカテゴリーに属する高校野球に通じる。
 学生が好きでやっているのだから放っておけばいいと思いつつ、しかし、このちんけなカタルシスの生贄(いけにえ)になるには、10代はまだ早すぎるのも事実である。

<文/音楽批評・石黒隆之>

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