司馬遼太郎は「保守」ではない、共産主義者ではなかっただけ/倉山満
日刊SPA! / 2020年11月30日 8時30分

『司馬遼太郎と昭和』 (週刊朝日ムック、画像:amazonより)
かつては「保守」陣営を代表する言論人と目されていた、司馬遼太郎。しかし、憲政史家の倉山満氏は「当時、司馬が『保守』だと思われたのは、他の言論人のことごとくが、多かれ少なかれ左翼色を帯びていたからだ」という――。(以下、倉山満著『保守とネトウヨの近現代史』より一部抜粋)
◆「新憲法」が死語になった
敗戦から二十年、東京オリンピックが終わったころには、「新憲法」が死語になった。日本国憲法が定着したので、もはや「新」とは呼ばれなくなったのだ。昭和四十年代の最初の八年間、総理大臣の地位を独占したのは佐藤栄作だ。佐藤の実兄の岸信介は日本国憲法の改正を生涯の努力目標とし、日米安保条約に基づくアメリカ軍の駐留も暫定的だと考えていた。だが、岸の抱いた自主憲法自主防衛は佐藤内閣で否定され、日本国憲法も在日米軍の駐留も永遠であるかのような前提で政策が採られていく(この点に関しては過去の多くの著作で論じたが、『自民党の正体』PHP研究所、二〇一五年を挙げておく)。
こうした時代を代表する「保守」陣営の言論人と目されたのが、司馬遼太郎である。NHK大河ドラマの原作に採用された作品だけでも、『竜馬がゆく』『国盗り物語』『花神』『翔ぶが如く』『最後の将軍 徳川慶喜』『功名が辻』と六本を数える。
◆今でも評される「司馬史観」
さらに、日露戦争を描いた『坂の上の雲』は大河ドラマを上回る規模で製作され、数年かけて放映された。この作品の影響は大きく、特に戦前日本で英雄だった乃木希典は「愚将」として評価が定着した。司馬の歴史観は今でも「司馬史観」と評される。
最大のヒット作が『竜馬がゆく』で二一二五万部、二十位の『最後の将軍 徳川慶喜』(大河ドラマ『徳川慶喜』の原作)でも二二〇万部である。ちなみに、現代において最大のヒットメーカーである村上春樹の『騎士団長殺し』が一三〇万部、「保守」業界で最大のベストセラー作家である百田尚樹の『日本国紀』が六五万部である。
◆司馬史観はなぜ画期的だったのか
司馬はもともと産経新聞の記者で、昭和二十三(一九四八)年に京都支局に入局している。三島由紀夫の小説『金閣寺』の題材となった金閣寺放火事件が昭和二十五年に起きているが、この事件の記事を産経新聞に書いたのは京都にいた司馬である。
代表作の一つである『坂の上の雲』が、単行本全六巻として文藝春秋から発売開始されたのが昭和四十四(一九六九)年。『坂の上の雲』は、前年から四年間にわたって産経新聞(一時期サンケイ新聞)夕刊に連載された新聞小説である。
司馬の小説は、その歴史観にマルクス主義を採用しない点が画期的だった。たとえば、斎藤道三・織田信長・明智光秀の三人を主人公とした『国盗り物語』は、武将たちの生々しい政争の現実や戦国時代の経済の実態について随所で解説している。マルクス主義のイデオロギーにとらわれずに政治や経済を解説する点が、斬新だった。
だが今では、いわゆる「保守」業界において、司馬の評価は二分される。
◆小説家である司馬が大御所だったのは文壇であり、論壇ではない
まさに『坂の上の雲』が典型だが、司馬作品においては日露戦争までの日本は非常に美化される。しかし、以後の日本近代史、特に昭和初期の歴史に関しては批判的で、しばしば「司馬史観は自虐的だ」と批判される。司馬自身もエッセイで、昭和初期に関して批判的な点を認めている。
司馬が「保守」だと思われたのは、当時の他の言論人のことごとくが、多かれ少なかれ左翼色を帯びていたからだ。特に政治を語る論壇は、左翼と極左の全盛時代である。親ソ派と親中派が大喧嘩している論壇の片隅で、「保守」はひっそりと生息していた。小説家である司馬が大御所だったのは文壇であり、論壇ではない。
◆左翼と極左の全盛時代、司馬が「保守」と目されたのは自然であった
当時の言論界が、いかなる状況だったか。一九六〇年頃から表面化した中ソ論争は、一九六八年にソ連がチェコに侵攻したことで様相を変た。中国はソ連を社会帝国主義と呼び、ソ連は中国を反レーニン・反共産主義として罵り合っていた。これは日本の言論界にも影響する。
たとえば、上山春平という京都大学教授の哲学者は、『大東亜戦争の意味 現代史分析の視点』(中央公論社、一九六四年)などの著書で、先の大戦を肯定的に位置づけようとした。だが、その意図は「親中派」「親毛沢東派」からのスターリン批判である(「大東亜戦争の思想史的意義」『中央公論』一九六一年、『弁証法の系譜―マルクス主義とプラグマティズム』未來社、一九六三年)。「大東亜戦争」などという当時の放送禁止用語を使う上山でこれなので、他は推して知るべし。
共産主義者の批判をしている論者も、共産主義者である。そうした時代にあって、共産主義者ではない司馬が「保守」と目されたのは、自然であった。
◆司馬の主張を「小説の形を借りた歴史読物」と一刀両断した福田恆存
司馬の存命中から、批判的だった数少ない「保守」言論人が、福田恆存である。福田は評論家であり、文芸批評家であり、翻訳家であり、劇作家であり、舞台演出家だった。
司馬の重要な主張の一つは、日露戦争中の旅順攻略戦での乃木希典批判であるが、これに対し福田は「近頃、小説の形を借りた歴史読物が流行し、それが俗受けしてゐる様だが、それらはすべて今日の目から見た結果論であるばかりでなく、善悪黒白を一方的に断定してゐるものが多い。が、これほど危険な事は無い。歴史家が最も自戒せねばならぬ事は過去に対する現在の優位である」と一刀両断である(『中央公論 臨時増刊「歴史と人物」』、一九七〇年)。
◆論壇から干され続けた福田恆存
もちろんこのことばかりが理由ではないが、福田は論壇から干され続けた。福田はイニシャルではあるが明らかにわかる表現で、司馬が雑誌『正論』に圧力をかけて、福田に執筆と講演をさせないように妨害している事実を記している(「問ひ質したき事ども」『中央公論』、一九八一年四月号。なお、このエッセイで福田は、自分が一年も執筆していない事実に気づかない読者にも慨嘆している)。
司馬の歴史観がどれほどのものだったか。これは公開情報になっていないと思うので、特に記す。司馬遼太郎と、ある高名な近代史研究家の対談が企画されたが、司馬の「不愉快だ」の一言で企画が成立しなかったことがある。理由は二つで、司馬自身がプロの研究者の水準にまったく達していなかったこと、もう一つはその研究者が反共の論者だったからである。
つまり司馬の立ち位置は「保守」よりも左であり、「共産主義者でなければレベルが低くても歓迎する」とされた時代の作家なのである。今でも「保守」業界で尊敬される福田からすれば、許し難い存在だったのだ。
【倉山 満】
’73年、香川県生まれ。中央大学文学部史学科を卒業後、同大学院博士前期課程修了。在学中より国士舘大学日本政教研究所非常勤職員を務め、’15年まで日本国憲法を教える。現在、「倉山塾」塾長、ネット放送局「チャンネルくらら」などを主宰し、大日本帝国憲法や日本近現代史、政治外交について積極的に言論活動を行っている。ベストセラーになった『嘘だらけシリーズ』のほか、『保守とネトウヨの近現代史』が9月25日に発売された
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