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広岡達朗89歳が語る、“打撃の神様”川上哲治と決定的に決裂した日

日刊SPA! / 2021年7月12日 8時53分

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’64年、まさにホームスチール激怒事件が発生した年のオフに広岡(左)と川上(右)の肩に手を置く正力亨オーナー

大男たちが一投一打に命を懸けるグラウンド。選手、そして見守るファンを一喜一憂させる白球の行方――。そんな華々しきプロ野球の世界の裏側では、いつの時代も信念と信念がぶつかり合う瞬間があった。あの確執の真相とは? あの行動の真意とは?68年にわたりプロ野球に携わってきた重鎮、広岡達朗の確執と信念をひもとく。

◆信念を貫く広岡の引退を引き留めた“昭和の大物”の存在

 68年もの間、日本プロ野球に内外から携わり続けた広岡達朗。監督時代に指導した幾多の選手からのちの監督経験者を14人も輩出し、誰よりも球界に“人”を残した男でもある。そんな広岡と“打撃の神様”と呼ばれた川上哲治との確執を、広岡本人の証言からひもといていきたい。

「カワさん(川上哲治)には、入団から引退までずっと虐げられ続けた。もし水原(茂)さんがずっと監督を務めていたら、何度も3割を打ってるよ!」

 冗談めかして話す89歳の広岡だが、内心本気ではないかと感じさせるほど巨人時代に壮絶な闘いを強いられた。二人の確執の要因は、野球観の相違というより人間性が相容れなかったように思える。

 ’54年(昭和29年)、広岡は鳴り物入りで早稲田から巨人に入団。その頃の巨人軍はリーグ3連覇中で、監督に名将と呼ばれた水原茂、そしてチームの大黒柱としてプロ入り14年目の4番打者・川上哲治が君臨していた。

「カワさんはファーストの守備が本当に下手だった。『俺はこの辺りしか捕らないからな』と言って、自分の胸の辺りに弧を描く。練習中ならまだしも、試合でもその範囲に来た送球しか捕らないんだから。決定的に決裂した日のことは今でもよく覚えているよ。’54年4月27日の西京極球場での洋松(現DeNA)戦で、8対4で勝っていて9回裏を迎えたときのことだった。ピッチャーはベテランの中尾(碩志、通算209勝)さんだったかな。

2回ショートゴロが来て、2回とも一塁に悪送球して1点を追加された。悪送球っていっても大暴投じゃなくて、ちょっとジャンプすれば捕れる球。だけど、カワさんは捕らない。そして青さん(青田昇)に逆転満塁ホームランを打たれてサヨナラ負け……。敗戦は悪送球した自分のせい。ゲームが終わってひとりでいるところに担当記者が近寄ってきて『えらいことしたね〜』って声をかけるから、『悪いことをしてしまった……でも、あのくらいの球を捕らんファーストがいて野球ができるかい!』って言ったんだ。それが翌日、新聞にデカデカと載ってさ。潮目が明確に変わったのはそこからです」

◆一介の新人からの痛烈な批判に…

 この“神様批判”とも取れる発言が新聞に取り沙汰されたことで、巨人軍に不穏な空気が蔓延し始める。広岡は正論を言ったまでだが、世の中はそう単純ではない。日本プロ野球史上初の2000本安打を達成し“打撃の神様”と呼ばれた川上哲治を一介の新人が痛烈に批判したのだから、大きなハレーションが起こるのも当然である。

「確かにバッティングの練習は“神様”と呼ばれるだけあって凄まじかった。調子が悪くなると、二軍の投手を2、3人引き連れて多摩川で2、3時間も打ち続けるんだ。『おい、ヒロ、わかったぞ。来た球を打てばいいんだ』って話していたこともあった。打撃練習では持ち時間など気にせず好きなだけ打つが、そのくせ守備練習は一切しないから下手クソなままだった」

◆“昭和の大人物”による慰留と引退撤回

“打撃の神様”ではあったが、“野球の神様”ではなかった川上は絶えず広岡を牽制し、衝突を繰り返しながら’61年に監督就任。そして’64年、本連載第3回で書いた「長嶋ホームスチール激怒事件」が起きてしまう。

「ホームスチール事件の前に『週刊ベースボール』に手記を書いてくれと頼まれたことがあった。球団にお伺いを立てて書いたのに、その内容が球団批判と取られて『広岡を追い出せ』とばかりにトレード話が浮上した。その話はすぐ立ち消えたが、例のホームスチール事件で俺が試合を放棄して家に帰ったもんだから、トレード話が再燃。

シーズン終了後、我が師でもある思想家の中村天風に相談したら『巨人の広岡として死ね!』と言われたことで引退を決意し、当時の正力亨オーナーに引退する旨を告げた。すると、亨は『君の気持ちはわかった。しかし私の一存では何も言えない』と言う。そこで、父の正力松太郎が裁定するという話になった。『それほど巨人を愛するのなら、辞めることはまかりならん』と正力松太郎が言うので、結局巨人に残ることになった」

◆己を貫き通した広岡

 正力松太郎といえば“読売興隆の祖”であり、日本にプロ野球を作った大人物である。戦後は国務大臣、初代科学技術庁長官などを歴任しただけでなく、テレビの誕生・​発展にも貢献し、日本のテレビ界の父とも呼ばれる。

 もはや“歴史上の偉人”といっても過言ではない正力松太郎が一プレーヤーの処遇で動くことなど、まずありえないことだった。そんな大人物を動かしてしまうほど、現役時代の広岡は誰に迎合することもなく、己を貫き通したわけだ。

 一方、監督の川上は広岡をトレードに出そうと画策。品行方正のONと違って、勝負の世界における正義とフェア精神の名のもとに思ったことをズバズバ言う広岡が煙たくて仕方がなかったからだ。

◆江藤省三(元慶応監督)が当時を振り返る

 V9時代、広岡に代わりショートのレギュラーを務めた黒江透修は広岡についてこう語ってくれた。

「当時の巨人軍の縦社会は非常に厳しく、迂闊に先輩にアドバイスを求められる時代じゃなかった。でも新人だった自分が同じポジションの広岡さんのところへ聞きに行くと懇切丁寧に教えてくれた。広岡さんからレギュラーを取った形になったけど、『別にお前に取られたからってどうってことはねえんだよ』って広岡さんは笑いながら言ってくれたのを覚えています」

 ’66年に巨人へ入団した江藤省三(元慶応監督)も、懐かしそうに当時を振り返る。

「セカンドだった自分が広岡さんに『ゲッツーのときにどの辺りに投げればいいですか?』と尋ねると、『どこに投げても捕ってやるから遠慮せずにやれよ』と言われた。本当に嬉しかった」

◆野球を愛する心、野球へのスタンス

 広岡は新人の頃、川上の横柄さで苦労したことを思ってそう声をかけたに違いない。自分の利益よりもチーム、後輩のために突き進むことができる広岡と、己の理想を追求するために邁進する川上。野球を愛する心は同じだったかもしれないが、野球へのスタンスが決定的に違ったのだ。

 結局、正力松太郎の裁定で巨人に残留するものの、一度生じた亀裂は埋まらず、広岡は2年後にひっそりと引退する。これで川上から解放されると思いきや……その呪縛はまだまだ広岡に付きまとうのであった。(第5回に続く)

【広岡達朗】
’32年、広島県呉市生まれ。早稲田大学を経て’54年に巨人に入団。引退後は’76年からヤクルト、’82年から西武の監督を務め、日本一に3度輝く。その後は野球解説者として活動を続け、89歳となった今もコラム連載を多数抱える

取材・文/松永多佳倫 写真/産経新聞社

【松永多佳倫】
1968年生。岐阜県出身。琉球大学大学院在学中。出版社を経て2009年8月よりフリーランスとなり沖縄移住。ノンフィクション作家として沖縄の社会学を研究中。他にもプロ野球、高校野球の書籍等を上梓。著作として『まかちょーけ 興南 甲子園優勝春夏連覇のその後』、『沖縄を変えた男 栽弘義―高校野球に捧げた生涯』(ともに集英社文庫)、『マウンドに散った天才投手』(講談社α文庫)、『最後の黄金世代 遠藤保仁』、『善と悪 江夏豊ラストメッセージ』(KADOKAWA)など。現在、小説執筆中

―[プロ野球界でスジを通した男たち]―

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