1. トップ
  2. 新着ニュース
  3. 社会
  4. 社会

「死ぬまでムチ打つぞ」タリバンに脅された日本人“恐怖の一夜”

日刊SPA! / 2021年8月28日 8時50分

写真

1998年当時の筆者。カンダハルから首都カブールへ向かう約500kmの道中。当時は30時間かかった

◆タリバンが政権掌握、自由を求めて命がけで国外に逃げ出す人々

 8月15日、反政府武装勢力タリバンがアフガニスタンの首都・カブールに侵攻し、政権を掌握した。これは攻撃を開始してからたった10日あまりのできごとであった。

 タリバンがカブールに入城した後、国外脱出を目指す人々が空港に殺到するようになった。離陸する輸送機にしがみつくも落下し7名が落命したり、自分の赤ちゃんだけでも出国させようとする親がいたり……という、衝撃的な光景が相次いで報道された。

 2001年秋以来の約20年間、アメリカはアフガニスタンに軍を駐留させ、国作りに関わってきた。民主主義を根づかせようとしたり、女性の社会参加を促したりした。そんな米軍が撤退し、再びタリバンが政権を掌握することになった。

 そしてこの急変する事態を受けて、再び自由が制限されることを怖れた人々が、命がけで国外を目指しているのだ。

 政権を掌握して2日後の8月17日、タリバンは初めての記者会見を開催。「(米国協力者らへの)報復はしない」「教育や就労など女性の権利、報道の自由は、イスラム法の範囲で保障する」と、アフガニスタン国民や国際社会にアピールした。しかしその一方で、外国人協力者を個別訪問したり、ドイツ人ジャーナリストの家族が殺害される事件が発生したりと、情勢が暗転する兆しを見せている。

 人々が逃げ出したくなるぐらいの恐怖政治が今後、やはり敷かれるのか。それともタリバンは以前とは変わっていて、安全な存在になったと言えるのか(この原稿を書いていた8月26日、カブール空港付近で2回の爆発があり、60人以上が死亡するという自爆テロ事件が発生、「イスラム国」が犯行声明を発表した。早くも暗雲が漂い始めている)。

◆残虐かつ強権的な所業の数々

 そもそもタリバンとはどんな集団なのか。その説明からしてみたい。

 1994年、パキスタン難民キャンプのイスラム学校にいた聖職者や生徒たちが、パキスタンの後押しを受けて蜂起した。それがタリバンである。そのころアフガニスタンは内戦下にあった。

 1989年にソ連を追い出し、政権についたイスラム戦士たちは内輪もめをして戦闘を激化させたり腐敗したり、ほとんど強盗団と化したりしていた。国内を平和にするどころか、戦乱の世へと導いてしまっていたのだ。

 タリバンはそんなイスラム戦士たちを駆逐した。住民たちに「正義の味方」として歓迎され、あれよあれよという間に勢力を拡大。1996年にカブールを制圧し、彼ら主導による国作りが始まった。しかし、タリバンもまたアフガニスタンの人々を幸せにはしなかったようだ。

 タリバンが信じている「イスラム教スンニ派」の教えを厳格に守るという方法で、この国を治めようとしたからだ。それは西側諸国の人間からすると過激すぎるものであった。

 私が1998年当時聞いていたのは、以下のような所業の数々である。

●女性に教育や就労の自由を認めず、移動の自由も制限。さらには、全身を追う水色の布「ブルカ」の着用を強制

●物を盗んだ者の腕を切り落として引き回す、不貞で有罪となったカップルを投石により公開処刑するなど、残虐な刑罰

●偶像崇拝を認めず、人や動物の写真を撮ることをご法度に。テレビやスポーツを禁止

●タリバンを構成するパシュトゥン人以外の民族を虐殺

 タリバンのやっていることは残虐かつ強権的な手法だと国際社会からは受け止められた。2001年9月11日に起こったアメリカ同時多発テロの首謀者とされたウサーマ・ビン・ラーディンを匿っているということから、米軍をはじめとするNATO軍がアフガニスタンに侵攻、タリバン政権がカブールから駆逐されたことは周知の通りだ。タリバンが上記のような残虐で強権的な手法をとっていたことも、NATO軍侵攻の背景にはあった。

◆アフガニスタン入国直後、銃を持った男に連行される

 話を1998年に戻そう。
 そうしたタリバンの所業の数々を知ったうえで、私は沢木耕太郎著『深夜特急』のルートを辿るという取材、そして行方不明になった日本人大学生の捜索のためアフガニスタンへ出かけた。1998年の4月末のことだ。

 アフガニスタンの南側にあるパキスタンとの国境を超え、第2の都市カンダハルに近い国境から入国した。

 私がタリバンに連行されたのは入国したその日のこと。宿にチェックインし、日本人行方不明者のポスターをほかの客に見せていたところ、ひとりの男にいきなりそのポスターを乱暴につかみ取られ、ビリビリに破られてしまった。

 それからほどなくして、カラシニコフ銃を担いだ男が現れた。その銃を持った男に促され、私は荷物を持ち、日本製のランドクルーザーに乗り込まされた。

 真っ暗闇の町の中を5分か10分。連れて行かれたのは、蛍光灯がついた横長の公民館風の平屋。ここは警察署だろうか。民族衣装を着た30~40代の男たちが5、6人、表情一つ変えずに代わる代わる質問してきた。英語に通訳をするのは、20代前半と思しき男。背が高く、同じく民族衣装を着ていた。彼は「タスミン」だと自己紹介した。

「いつカンダハルへ来たのかね?」
「一人でか?」
「期間は?」

 パシュトゥン語による男たちの矢継ぎ早の質問を、タスミン氏が逐一英語に訳してくれた。私は極度に緊張しながら、口に全神経を集めて慎重に英語で答えた。

◆タリバンの「荷物検査」に戦慄

 30分か1時間ほどで事情聴取が終了。タスミン氏の手引きで、再びランクルに乗せられる。

 これで帰れるのかと思ったら、違っていた。タスミン氏が運転する車が停まったのは、元いた宿の前ではなく、モスクのような建物の前だった。中に入ると、お祈りをする場所なのか、20畳ぐらいのじゅうたん敷きの広間になっていた。

「じゃあ、荷物検査を始めさせてもらうよ」

 タスミン氏の言葉を聞いて、私は戦慄した。

 ドイツのジャーナリストが撮影していて捕まり、しばらく投獄されたり、テレビクルーが高価な機材を没収・破壊されたりという事例を聞いていたからだ。自分も何らかの危害を加えられるかもしれないとおののいた。

 ザックの中にはカメラ3台にレンズ3本、フィルム50本が入っていた。一つ一つ衣服で慎重に包み込んで底に隠していたが、それは無駄な抵抗だった。

 案の定、タスミン氏はすぐに服の不自然なふくらみに目をつけて金属の固まりを発見。すぐに一眼レフカメラのボディを取り出して見せた。私はバツが悪く、うなずくしかなかった。

 カメラが一つ見つかると芋づる式だった。タスミン氏は衣服の固まりの中からカメラやレンズを次々と見つけては並べて見せた。カメラを発見するごとに彼の表情は笑みが薄れ、だんだんと怒りを帯びてきた。

◆「殺されるんじゃないか」眠れぬ一夜

 すべての荷物の検査が終わったとき、タスミン氏はピクピクと怒りに打ち震えながら私に告げた。

「カメラは持っていてもいい。しかし……人間だけじゃない。植物以外、生き物すべて撮ってはいけない。絶対にだ」

「撮るとどうなるのですか」

「死ぬか生きるかわからないぐらいまでムチ打つ。そして牢獄行きだ。永久にだ」

 これ以上タスミン氏を怒らせてしまうと、突然私刑を振るわれて命を失ってしまうような、そうしたまがまがしい雰囲気があった。タリバンは常に武器を所有している。ムチで制裁しなくても、やろうとすればいつでもやれる。

 結局その晩、ホテルに帰されることはなかった。「暗い夜道を帰るより、ここに泊まっていけ」という言い分ではあった。それが親切によるものなのか収監目的なのか、私は真意を測りかねた。その晩は「殺されるんじゃないか」という考えが頭から離れず、不安な夜を過ごしたのだった。

◆目撃した“恐怖支配”の一端

 その後、私はカンダハルからカブールへ陸路で移動して数日をすごしたのち、さらに陸路で東にあるパキスタン国境を目指した。カブールのバスターミナルで、150km東にあるジャララバードという都市へ向かう乗り合いのミニバス(ワンボックス)に乗ろうとした。

 ミニバスに乗り込もうとしたときだ。薄汚れたブルカの女性たちに取り囲まれ、身体をぐいぐい引っ張られた。隙あらば荷物を盗もうという、必死で乱暴な手つき。暴力を振るおうとしていないことは明白だったが、あちこちから引っ張られたときは、顔が見えないだけに、いっそうの恐怖を感じた。

 なんとか乗りこんだ後も、ミニバスはなかなか発車できなかった。ブルカの女性たちに取り囲まれ、車体をバンバン叩かれたり、窓ガラスから手をのばされたりしたからだ。

 約10日間のアフガニスタンの旅で私が成人の女性と接近したのはそれきりだった。子どもを除く女性たちは全員がブルカを着用していて、顔すら見ることがなかった。

 そのミニバスがジャララバード手前にさしかかったときに検問があり、いったん車外へと降ろされることになった。当時ビン・ラーディンが匿われていた場所に程近いポイントだったためか、その検問での荷物検査は大変厳しいものだった。ひとたびタリバン兵士が私のカメラを見つけると、銃を突きつけてきた。そして、カメラを放棄するように命令をしてきた。

 そのときは、たまたま英語の話せるアフガニスタン人の新聞記者がそばにいて取りなしてくれた。彼がいなければ、タリバン兵士の虫の居どころ次第によっては、銃で撃ち殺されていても不思議ではなかった。

◆タリバンが“怖い存在”というのは本当なのだろうか?

 アフガニスタンでは「殺されるかもしれない」という体験を何度もした。この国に住んでいる人々なら、そうしたことは日常茶飯事だろう。ところが当のアフガニスタン人はというと、「タリバンのおかげで平和になった」という声が多数だった。

“恐怖体験”を重ねた私からすると、意外ではあった。しかし現地の人びとは言わされているフシは感じなかった。素直にそう言っているようなのだ。

 現地人による支持(許容しているだけかもしれないが)に基づいたタリバン統治。これについては、私の独りよがりな考えではないようだ。というのも、長年アフガニスタンに滞在し、人道支援を続けた医師・中村哲さんが次のように語っているのだ。

「タリバンは訳が分からない狂信的集団のように言われますが、我々がアフガン国内に入ってみると全然違う。恐怖政治も言論統制もしていない。田舎を基盤とする政権で、いろいろな布告も今まであった慣習を明文化したという感じ。少なくとも農民・貧民層にはほとんど違和感はないようです」(2001年10月22日号『日経ビジネス』より)

 確かに私も脅されはしたが、私が会ったタリバンの人々は暴力を振るうことは一切なかった。「怖くて狂信的」というイメージから、勝手に怖がっていたという気がしてならない。

 しかし、その中村哲さんも2019年に現地で凶弾に倒れている。タリバンは怖い存在なのか、否か。狂信的なテロリストなのか、それとも地元の支持を受ける良き人たちなのか。彼らの正体はいったいどこにあるのだろうか――。

文・写真/西牟田靖(にしむた・やすし)
ノンフィクション作家。1970年、大阪府生まれ。国境や家族などをテーマに執筆。タリバン政権時代の1998年、アフガニスタンを取材し、危険な目に。著書に『僕の見た「大日本帝国」』(情報センター出版局)『ニッポンの国境』(光文社新書)『本で床は抜けるのか』(中公文庫)『わが子に会えない』(PHP研究所)『中国の「爆速」成長を歩く』(イースト・プレス)など。

この記事に関連するニュース

トピックスRSS

ランキング