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元チームメイト・松井秀喜とメジャーで対決。岡島秀樹が回顧「松井さんと対戦するのはイヤでした」

日刊SPA! / 2024年5月9日 15時51分

 ’12年のキャンプイン直前、岡島のもとに信じられない通知が届いた。メディカルチェックの結果、「あなたの肩には異常があるので、契約はできない」と告げられたのだ。

「本当に驚きました。何も痛みはなかったからです。それでも、医師の言うことは絶対なのでいくら言ってもダメでした。このときが、野球人生最大のショックでした」

◆野球人生の最後はアメリカで迎えたい

 途方に暮れていた岡島に救いの手を差し伸べたのが福岡ソフトバンクホークスだ。

「1年だけ日本球界に復帰したけど、僕の中には『絶対にヤンキースを見返してやる』という思いしかありませんでした。それで、’13年にオークランド(・アスレチックス)でプレーする選択をしました」

 アスレチックスではマイナー生活が続いたが、5月にメジャー昇格した際に、ヤンキースとの対戦が実現した。

「結果的に(ロビンソン・)カノには打たれたけど、『オレはまだ投げられるんだ』ということを証明できたので、自分の目標はクリアできました」

 すでに37歳となっていた。この年限りでアスレチックスからリリースされると、翌’14年は再びホークスに。そして’15年は横浜DeNAベイスターズに移籍した。

「’15年は肩やヒジではなく、脚の故障で満足に投げることができないまま戦力外通告を受けてしまいました」
 
 40歳直前での戦力外通告。誰もが「岡島は引退するだろう」と考えていた。しかし。

「僕の気持ちとしては、『野球人生の最後はアメリカで迎えたい』という思いが強くありました。だから、もう一度挑戦することにしたんです」

 40歳で迎えた’16年シーズンはボルティモア・オリオールズとマイナー契約を結んだが、開幕前に戦力外となった。希望通り、野球人生の終焉の地はアメリカとなった。完全燃焼だった。改めてアメリカで過ごした日々を振り返った。

「レッドソックスでは一度も外国人である疎外感を覚えたことはなかったです。人種や育ってきた環境が違っても、『勝つためにはみんなで助け合わなければいけない』という共通の思いがあったから。本当にいいチームでプレーできたことが最大の誇りです」

 すべてをやり切った者だけが手に入れることのできる満足感と爽快感を滲ませて岡島は言い切った──。

【岡島秀樹】
1975年、京都府生まれ。1994年、ドラフト3位で巨人に入団。’06年、日本ハムへトレード。’07年、レッドソックスへFA移籍。’12年、ソフトバンク、’13年、アスレチックスでメジャー復帰。’14年、ソフトバンク、’15年、DeNA。’16年、引退

撮影/ヤナガワゴーッ! 写真/時事通信社

【長谷川晶一】
1970年、東京都生まれ。出版社勤務を経てノンフィクションライターに。著書に『詰むや、詰まざるや〜森・西武vs野村・ヤクルトの2年間』(インプレス)、『中野ブロードウェイ物語』(亜紀書房)など多数

―[サムライの言球]―

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