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「お風呂の中でスピーチを練習」逆境を乗り越えた偉人たちの勉強法とは?

日刊SPA! / 2024年6月8日 8時52分

ただ、お互いに強烈な個性があるがゆえに、結婚生活は波乱に満ちたものでした。一度は別れを選んでいますが、再び結婚しています。互いに運命の相手だったのでしょうね。

【名言】
「たったひとつ、よいことがあります。それは苦痛になれ始めたことです」

◆テストの結果が散々で評論家になった坪内逍遥

明治18年、坪内逍遥が評論『小説神髄』を刊行して、小説の新しい方向を提唱すると、各方面で話題を呼ぶことになりました。

どんな点が支持されたかというと、江戸時代に流行した物語は「勧善懲悪」ものばかり。つまり、「善良な人や善い行いを奨励して、悪者や悪い行いを懲らしめる」という内容が多かったのです。

そんななか、坪内は「もっと人間のありのままを描こう!」と写実主義を訴えました。さらに、「小説の目的は、何かを教え諭すことではない。ほかの芸術と同様に、人を楽しませるものだ」として、多くの人から共感されることになりました。

まさに小説に対する人々の価値観をがらりと変えたわけですが、そこには坪内自身の反省も込められていました。

大学時代、坪内は成績が悪く、特に英語のできがよくなくて、一度は落第してしまいます。そんなとき、試験でアメリカ人の教授から、「『ハムレット』に出て来る王妃のキャラクターを批評せよ」という問題がなされます。

そこで試験の答案で、坪内が道徳的な解釈をしたところ、悪い点をつけられてしまいます。そのことが悔しくて、図書館に通い、西洋文学の批評をむさぼり読んだところ、あることに気づきます。

「自分は文学について、江戸時代の伝統にすっかりとらわれていたんだ……」

これまでの思い込みを払拭することで、坪内は時代にあった新しい文学観を打ち出すことに成功します。

「聞かれたことがわからずに悔しい……」という後悔は、人を勉強へと駆り立てます。そう思うと、間違うことは何ら恐れるべきことではないことだと気づかされます。

坪内が実践したように、図書館通いから自分の世界を広げるというのは、今すぐにでも実践できる「視野の広げ方」ではないでしょうか。さあ、まずは実践からです。

【こぼれ話】
坪内逍遥の影響を受けて作家になったのが、幸田露伴です。露伴は北海道で電信技手として働いていましたが、18才で坪内が書いた『小説神髄』を読んで、衝撃を受けます。

「そうか、文学を職業にしてもいいんだ!」

20才のときに仕事を投げ出して、東京へ。作家を志すようになります。執筆活動を知られると、父からは「恥ずかしいことをするな」と叱られたそうです。そんなことがあるたびに露伴は『小説神髄』を引っ張り出して、気合を入れ直したことでしょう。

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