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「A級戦犯で処刑された7人」人知れずひっそりと熱海の山に眠る

日刊SPA! / 2024年8月15日 8時51分

◆生涯を通じて日中の親善が最大で唯一の哲学であった松井石根

 さて、東京裁判で死刑判決を受けた7人のうちのひとり、松井石根である。生涯を通じて日中の親善が最大で唯一の哲学であった彼は、「中国人を大虐殺した(南京大虐殺)責任」を問われ、刑場の露と消えた。陸軍幼年学校時代に「日本軍の存在理由は東洋の平和確保にあり」という川上操六(陸軍の重鎮)の見識に感銘を受け、欧米の植民地主義からアジアを解放する理想を抱いていた松井は何よりも中国との提携を重視していた。

 皮肉なのは、その松井が指揮した日本軍が南京で大虐殺を行ったとされ、それを統制する義務を怠った咎(とが)で死刑判決が下されたことだろう。陸軍きっての親中派が、である。

 指揮官として南京に入城して約1ヶ月半後、松井は中支那方面軍司令官を退任させられ、帰国する。その後静岡県熱海市郊外に移ったのだが、近くの伊豆山中腹に昭和15年、「興和観音」と呼ばれる観音堂が建立されている。日中両国の戦没者を慰霊することを目的としたこの観音堂を開基したのは、ほかならぬ松井であった。観音像は、中国の激戦地だった大場鎮(だいじょうちん)と南京の土を日本まで運び、材料として使用している。これは「日中両軍の兵士の血の染みた土で観音菩薩像を建立したい」という松井たっての希望からだった。日本人と中国人を平等に回向(えこう)することが、松井の強い意向だったのだ。建立後、松井は毎日、山麓に位置する自宅から山道を登り、観音堂に参詣して、ひたすら読経したという。

◆7人の遺骨は太平洋に散骨された?

 令和3年6月、A級戦犯の遺骨を太平洋に撒いたと米軍将校が記した報告文書が発見された。〈文書によると、少佐は48年12月23日午前0時すぎ、巣鴨プリズン(東京)で7人の死刑執行に立ち会った。遺体を乗せたトラックは午前2時10分、巣鴨プリズンを出発し、1時間半後に横浜市内の米軍第108墓地登録小隊(現・横浜緑ケ丘高)に到着。午前7時25分に小隊を出て、30分後に同市の火葬場(現・久保山斎場)に到着した。遺体は午前8時5分までにトラックから直接、炉に入れられた。
 火葬後、別々の骨つぼに納められた7人の遺骨は、第8軍の滑走路に運ばれ、「横浜の東の太平洋上空を約30マイル(48キロ)地点まで連絡機で進み、私が遺骨を広範囲にまいた」と記している。〉(『日本経済新聞(電子版)』(6月7日付))

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