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聖徳太子、実は「存在しなかった」説浮上。では、あの肖像画の人物は

日刊SPA! / 2024年9月7日 8時50分

聖徳太子、実は「存在しなかった」説浮上。では、あの肖像画の人物は

 7月に新札が発行されたが、ちょっと年が上の人ならお札といえば聖徳太子という人も多いはず。
 十人の言葉を一度に聞き分けるほど聡明で、皇太子になると、摂政として叔母の推古天皇を助け、天皇への忠誠と人々の「和」を説いて国内をまとめ、隋という巨大帝国との対等外交を成功させた。そんなスゴい人だと習ったのではないかと思う。

 しかし、「聖徳太子は実はいなかったのでは?」という説もあるのだとか。

 高校教師歴27年、テレビなどにも多数出演している歴史研究家で多摩大学客員教授などを務める河合敦先生によると、歴史研究が進んだことにより、今の歴史教科書と30年くらい前の歴史教科書では、記述が変わっているところがたくさんあるのだとか。

 そこで、教科書を切り口にした歴史の新説や、教科書では紹介されない不都合な日本史などを河合先生から教えてもらった。

(この記事は、『逆転した日本史~聖徳太子、坂本龍馬、鎖国が教科書から消える~』より一部を抜粋し、再編集しています)

◆聖徳太子は推古天皇の補佐役?

 河合先生にとっても、子ども心に聖徳太子はヒーローで、高校の教師になってからも、授業では聖徳太子の活躍は熱を入れて語ったものだという。

「ところが、2002年、改訂された教科書を読んで愕然としました。それは、聖徳太子がまったく別人のように変化していたからです」(以下、すべて河合氏)

 以前(1999年)の教科書では、「推古天皇は、翌年、甥の聖徳太子(厩戸皇子うまやどのおうじ)を摂政とし、国政を担当させた」、「604年に聖徳太子は憲法十七条を制定し、豪族たちに、国家の役人として政務にあたるうえでの心がまえを説くとともに、仏教をうやまうこと、国家の中心としての天皇に服従することを強調した」(『詳説日本史』山川出版社)と、太子が推古朝の政治の中心だったと書かれていた。

◆新たな学説の登場で太子研究に激震

 ところが、2002年の教科書では、次のように変わってしまった。

「推古天皇が新たに即位し、国際的緊張のもとで蘇我馬子や推古天皇の甥の厩戸王(聖徳太子)らが協力して国際組織の形成を進めた。603年には冠位十二階、翌604年には憲法十七条が定められた」(『詳説日本史』山川出版社)

「主語が推古天皇に取って代わり、太子は単なる政治の協力者に成り下がってしまったのです。驚くべき変化ですね。いったい何が原因だったのかというと、新たな学説の登場により、太子研究に激震がおこっていたのです。

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