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聖徳太子、実は「存在しなかった」説浮上。では、あの肖像画の人物は

日刊SPA! / 2024年9月7日 8時50分

◆「厩戸王」の呼称に批判殺到

 文科省でも、こうした矛盾を少しでも解決しようと考えたようで、新しい小・中学校の学習指導要領では「聖徳太子」は死後の呼称なので、存命中の名・厩戸王を登場させ、中学校では「厩戸王( 聖徳太子)」、小学校では「聖徳太子( 厩戸王)」と表記すると発表した。2017年2月のことだ。

 ところが翌月、文科省はこれを撤回する。これについて国民からパブリック・コメントを求めたところ、批判が殺到したからだ。

「しかしながら、近年、やはり聖徳太子は政治的に大きな力を持っていたという論文がいくつも発表され、太子の業績が再評価され始めています。今後、もしかすると高校日本史の教科書のほうが修正される可能性が出てきている。まさに歴史研究の面白さと言えます」

◆法隆寺に所蔵されていた聖徳太子蔵、本当は誰?

 聖徳太子は不在だったかもしれない……。とすると、法隆寺に所蔵されていた聖徳太子像と、お札にもなったあの有名な肖像画は誰なのだろう?

 太子が初めて紙幣になったのは1930年のこと。高額の百円札だった。その後も続けて紙幣の肖像となり、1963年に伊藤博文が千円札の肖像に採用されるまで、紙幣4種のうち3つが聖徳太子だった。まさに聖徳太子がお札の代名詞だったことがわかる。

 初めて紙幣に使用した太子の原画は、大蔵省造幣局図案官の磯部忠一氏が描いたもの。宮内省所蔵の「唐本御影(とうほんみえい)(聖徳太子二王子像)」を参考に、歴史家や服飾家の意見を聞きながら絵を完成させたという。

 以後、お札に登場する太子像はすべて、この原画がお手本とされることになった。
 
◆高校の日本史の教科書から消えた「聖徳太子像」

「原画のもとになった『唐本御影』は、もともと法隆寺に所蔵されていた絵画でしたが、明治時代に皇室に寄贈されました。

 寺側の伝承では、画中三人の真ん中が聖徳太子本人だといいます。このため、昔の教科書では『唐本御影』を『聖徳太子像』と紹介していました。

 しかし最近は、高校の日本史の教科書からこの像は消え、中学校の歴史教科書も『聖徳太子(574~622)と伝えられる肖像画』(『新編新しい社会 歴史』東京書籍2017年)と、かなり自信なさげな言い方になっています。

 なぜなら、『唐本御影』に描かれたこの人物が、太子本人であるかどうか、かなり怪しいと考えられるようになったからです」

 きっかけは、東京大学名誉教授で仏教史に詳しい故・今枝愛真(あいしん)氏が、1982年の朝日新聞紙上に「『唐本御影』はかつては川原寺にあったもので、聖徳太子の肖像として描いたという蓋然性は少ない」と発表したのがきっかけだった。

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