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大山のぶ代さん「ドラえもん」と歩んだ人生 入院中もアフレコ欠かさず 関連レコード売り上げは100万枚

スポニチアネックス / 2024年10月11日 14時19分

大山のぶ代さん

 テレビアニメ「ドラえもん」(テレビ朝日系)で1979年から26年間にわたってドラえもんの声を担当するなど、声優としても活躍したタレントの大山のぶ代(おおやま・のぶよ、本名・山下羨代=やました・のぶよ)さんが9月29日、老衰のため死去した。90歳。東京都出身。2012年に認知症を発症し、15年に公表。芸能活動に事実上の終止符を打ち、老人ホームで余生を送っていた。

 「こんにちは、ボク、ドラえもん」のフレーズで親しまれた大山さんが逝った。関係者によると、晩年は入退院を繰り返し、眠るように息を引き取った。

 アルツハイマー型認知症は、NHKの子供向け番組「うたのえほん」の初代たいそうのおにいさんで、タレントとしても活躍した夫の砂川啓介さんが15年5月にTBSラジオの番組で明かしていた。

 芸能界でも屈指のおしどり夫婦。当初は家政婦さんらの手を借りて在宅介護に努めたが、砂川さん自身が尿管がんを発症したため、大山さんは16年4月に老人ホームに入所。その後、砂川さんが脳梗塞を起こして17年7月11日に80歳で死去。大山さんは葬儀所で棺の中の夫と対面した。1人になった大山さんの面倒はその後も小林マネジャーが見続け、17年9月号の「文藝春秋」に「大山のぶ代は夫の棺に涙ぐんだ」を寄稿して、夫婦の愛の深さをつづった。

 高校2年時に母親が子宮がんのため42歳で死去。演劇部は退部したが、卒業後に俳優座養成所に第7期生として入所。56年にNHKドラマ「この瞳」で同期の冨士眞奈美(86)と共にデビュー。同期には他に水野久美(87)、露口茂(91)、井川比佐志(87)、田中邦衛さんらがいた。

 その後、東京プロ、劇団でく、青二プロダクションに所属。57年の「名犬ラッシー」の吹き替えで声優デビュー。「ハリスの旋風」の石田国松や「無敵超人ザンボット3」の神勝平などに声で命を吹き込んだ。

 代表作となる「ドラえもん」との出会いは79年4月。野沢雅子(87)の後任としてドラえもんの声を当て、2005年3月までの26年間担当した。01年に直腸がんが見つかり、長期入院を余儀なくされたが、必要な機材を病室に持ち込み、「ドラえもん」のアフレコだけは欠かさなかったという。

 歌手活動もこなし、80年に発売された「ドラえもん音頭」など関連のレコード売り上げが100万枚を超え、日本コロムビアからゴールドディスクを贈られた。06年には自伝エッセー「ぼく、ドラえもんでした。涙と笑いの26年うちあけ話」(小学館)を出版した。

 05年3月に長年の功績を称えられて放送ウーマン賞を受賞。07年3月にも東京国際アニメフェアから功労賞を贈られ、翌4月には音響専門学校(東京都港区西新橋)の校長に就任。学生の指導に当たったが、08年4月に校長室で心筋梗塞と脳梗塞を併発して緊急入院。8月に退院し、活動を再開したが、10年ごろから仕事をセーブし、13年に校長を退任した。

 夫の砂川さんとは1963年8月に舞台「孫悟空」で共演して意気投合し、翌64年2月に結婚。第1子(男児)が死産、第2子(女児)も先天性の心臓と肺の疾患のため生後3カ月で死去するという不幸に見舞われた。砂川さんは回想記「カミさんはドラえもん」(双葉社、01年)で2度の不幸が大山さんのトラウマになっていたことを明かしている。

 無類の麻雀好きとして知られ、美空ひばりさんともよく卓を囲んだ。また水谷豊(71)、おりも政夫(70)らもジャン友だったが、彼らは大山さんの悲運を慰めようと誘ったものだったという。

 料理研究家としての顔も持ち、「大山のぶ代のおもしろ酒肴」(主婦の友社、81年)「おかずのアイディア180」(小学館、95年)などの著書がある。

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