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阪神・球児新監督に高知商時代の恩師・正木陽氏が期待することとは 

スポニチアネックス / 2024年11月19日 5時18分

高知商時代の藤川(右)と正木陽監督

 【球児にYELL 正木陽氏】阪神・藤川球児監督(44)の関係者が思い出や期待を語る不定期連載。高知商時代の監督で日本高野連技術・振興委員長を務める正木陽氏(63)が「これから始まる新しい野球人生」にエールを送った。

 高校時代の球児を思えば、監督になるとは思いませんでした。気が細く(弱く)、繊細で心根がやさしい。自分についてこいというタイプではなく、周囲と群れて騒ぐタイプではありません。趣味が釣りで、いつも独りで何か考えごとをしている。そんな男でした。

 阪神さんに大切にしてもらっているとは感じていました。私も心の中で監督になってほしいなあとは思っていましたが、現実になるとは驚きです。

 球児には入学した時から兄の順一とともに野球部寮に入ってもらい、私も寝食をともにしました。入学時の球速は125キロほど。ただ、回転が良く、肩が柔らかく可動域も広かった。当初はライトに入れて、外野からのバックホームで上からたたきつけるフォームで捕手にワンバウンドに投げるように仕向けました。

 1年秋に明徳義塾に敗れた後、兄弟と主将、投手の4人で早朝に近くの禅寺で座禅を組ませて、精神面を鍛えました。2キロの道を走り、週3回、私も一緒に通いました。

 2年の春になると140キロを超えていました。息の合った兄弟バッテリーで、ノーサインでも投げられました。97年夏に甲子園に出場し、全日本にも選んでもらった。帽子に「弱気は最大の敵」と書いていました。「炎のストッパー」と呼ばれた津田恒実さん(広島=故人)の言葉ですね。

 また、寮の机に落書きで「ワールドシリーズに出て世界一の投手になる」と書いていたんです。当時ははるかかなたの夢でしたが、後にしっかりと大リーグ入りを実現させている。大したものです。

 自分の人生を組み立てて実現させていく力があるのでしょう。阪神入団時に「細くても長くやれよ」と話していました。立派に40歳まで続けた。監督になるまで描いていたかはわかりませんが、よく勉強をし、多くの人に出会い、知識も広げているのは確かです。

 プロ野球の監督は大変な仕事です。多くのスタッフや選手を率いていかねばならない。

 ただ、監督にもいろんなタイプがあります。報道によると、スタッフや若い選手とよくコミュニケーションをとっているようで何よりです。選手に寄り添い、スタッフと連携を深めながらチームをつくっていってほしいと願います。いくつになっても教え子です。私も誇らしいし、何があろうが応援します。

 まだ44歳。新たな野球人生は始まったばかり。監督という立場が人生の最終地点でもないでしょう。これから始まるんだという気持ちで、後ろを振り返らず、まっすぐ前を向いて進んでいってほしいと願います。

 ◇正木 陽(まさき・あきら) 1960年(昭35)11月26日生まれ、高知市出身。高知商3年の78年夏、全国選手権で準優勝。同志社大卒業後の83年、母校教員となり、野球部監督として93年秋~2000年夏、10年春~15年夏と指導。選抜1回、選手権2回出場に導いた。高知県高野連理事長、日本高野連技術・振興委員などを務め、23年から技術・振興委員長、甲子園塾塾長。

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