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【内田雅也の広角追球】「ナベツネさん」との一心同体――阪神・久万オーナー 東大同窓、哲人同士の絆

スポニチアネックス / 2024年12月19日 16時1分

オーナー会議で話し込む阪神・久万俊二郎オーナーと巨人・渡辺恒雄オーナー(左)(2002年11月8日、名古屋市内のホテル)

 阪神の名物オーナーで知られた久万俊二郎は渡辺恒雄を親しみをこめ「ナベツネさん」と呼んでいた。年齢は久万が6歳上だが、戦中に東京帝大(現・東大)に入学した同窓である。

 渡辺が文学部哲学科だったので余計に親愛の情がわいた。「私も本当は哲学をやりたかった。親に“哲学じゃ飯を食えん”と反対されたんだ」と法学部政治学科に進んだ。

 神戸・御影の自宅書斎には哲学書が並んでいた。2004年、明大・一場投手への裏金問題でオーナー辞任を決めた10月23日、書店で4冊の哲学書を買った。フッサールの原書だった。「今の私ならこれを読むのに2年かかる。ページを繰るのが楽しみだ」

 渡辺は東大時代、カントやヘーゲルの原書講読をしていた。哲学で相通じていたのかもしれない。

 ともに東京帝大在学中に出征している。久万は1943(昭和18)年10月の学徒出陣で海軍に入隊。佐世保の海兵団から航空隊員として鹿児島、上海……と配属され、終戦は生駒山頂で迎えた。渡辺は1945年の

入学後に陸軍に入隊。本土決戦、相模湾での迎撃に備えていた。久万も渡辺も、死を覚悟していたという。

 渡辺が野球と関わるようになったのは読売新聞副社長だった1989年、巨人の最高経営会議のメンバーになってからだ。オーナー就任は1996年だ。久万は先に1984(昭和59)年10月、阪神電鉄社長としてオーナーに就任していた。巨人・阪神と東西の老舗球団のトップとして交流が始まった。

 「野球は素人」も共通していた。ただ、渡辺は野球協約を精読して球界のリーダー的存在となり、久万は球団幹部や監督の人事権を握った。ともに独裁者として君臨していた。

 2人の盟友関係が色濃く表に出たのは2004年の球界再編騒動だった。オリックス・近鉄の合併から、もう1組の合併が浮上、渡辺は「10球団なら1リーグ」と主張していた。阪神では当時、球団社長・野崎勝義が「2リーグ制堅持」を主張、「巨人包囲網」のようにセ・リーグ各球団を行脚して回った。

 球団役員会で容認したはずの久万は野崎にストップをかけた。清武英利『サラリーマン球団社長』(文藝春秋)に「喧嘩(けんか)の結果、巨人が“別の球団と組む”と言い出せばどうするのか」「渡辺オーナーにも理屈がある。彼も悪いが、君も同じように悪い」と久万の発言がある。

 渡辺から久万に抗議の電話がいったのだろう。渡辺は後に久万が「一度屈(かが)んで伸び上がる。屈伸だ」と1リーグ制を支持していたと話した。また著書『わが人生記』(中公新書ラクレ)で<セ・リーグ六球団は、巨人・阪神の友好関係を中心に鉄の団結を保ち、それに西武とダイエーが同調し、常に多数派が維持されていたから、オーナー会議でもあまりゴタゴタが起きなかった>と記している。

 久万は2011年9月9日、90歳で他界した。訃報を伝え聞いた渡辺は「俺と久万さんは一心同体だった」と盟友の死を悼んだ。「俺と久万さんの時代が、俺にとっちゃ最高の時代だった。何でも話をしたし、彼は何でも意見を言ったよ。もちろん反論も含めてね。あんな率直な人はいなかった」

 久万の死から13年、渡辺も鬼籍に入った。久万は待っていたことだろう。大好きな哲学の話ができる友と、ゆっくりと話せる時が来ていた。 =敬称略=  (編集委員)

 ◆内田 雅也(うちた・まさや) 1963(昭和38)年2月、和歌山市生まれ。桐蔭高―慶大文学部卒。85年4月、スポニチ入社。野球記者40年を迎えている。

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