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“球界のドン”渡辺恒雄氏逝く 98歳肺炎で 「たかが選手が」04年球界再編で強烈存在感

スポニチアネックス / 2024年12月20日 5時34分

98歳で死去した渡辺恒雄・読売新聞グループ本社代表取締役主筆

 ◇渡辺恒雄氏死去

 読売新聞グループ本社代表取締役主筆で、野球界にも大きな影響力を保持した渡辺恒雄(わたなべ・つねお)氏が19日午前2時、肺炎のため都内の病院で死去した。98歳。東京都杉並区出身。96年に巨人オーナーに就任。04年に球団の不祥事で辞任した後も、取締役会長、同最高顧問を歴任した。ドラフト制度での逆指名制度導入やFA制導入の推進、04年の球界再編問題などでも強烈な存在感を発揮。喪主は長男睦(むつみ)さん。後日、お別れの会が行われる。

 政界や球界に絶大な影響力を誇った渡辺氏が、静かに息を引き取った。98歳。今年3月に都内ホテルで行われた巨人を激励する「燦燦(さんさん)会」では「足を痛めておりまして」と車椅子に乗って姿を見せていた。今年11月末まで定期的に出社し役員会などに出席も、今月に入って体調を崩し、治療を受けていたが肺炎のため19日午前2時に死去した。

 幼少期に父と姉を病気で亡くし、死に向き合うため哲学を志すようになり東大に進学。在学中に召集され、戦後は日本共産党に入党も、その後離党した。1950年に読売新聞社に入社し、政治部でエース記者に。球界に積極的に関与するようになったのは代表取締役社長・主筆に就任した91年ごろからだった。「野球は素人。学生時代にやったことがないんだから」と言ってはばからなかったが、過激な発言と、水面下での活発な動きで球界をリードした。旧ドラフト制度に対して「職業選択の自由を明らかに侵す憲法違反」として新リーグ結成の構想を掲げるなどし、93年の「逆指名制度」と、それに伴う「フリーエージェント(FA)制度」の導入を実現させた。

 96年12月に巨人オーナーに就任した際は「フロントが俺の指揮下に入る。これからは直接指揮をするということだ」と言い放った。「ナベツネ」と呼ばれ、広がった「独裁者」的なイメージ。最も象徴的だったのは、04年6月に表面化した球界再編問題だった。近鉄、オリックス両球団の経営統合に強く反対した日本プロ野球選手会(古田敦也会長=当時)とNPBの交渉中、古田会長に対して「分をわきまえなきゃいかんよ。たかが選手が」と発言。世論の反発を招き、選手会が9月に史上初のストライキを実施し、最終的に楽天の新規参入により2リーグ、12球団制が維持された。

 04年8月にドラフト候補の大学生に現金を渡していた、いわゆる「一場問題」でオーナーを辞任。その後は、取締役会長、同最高顧問を歴任した。11年には清武英利球団代表(当時)とコーチ人事を巡って対立。「不当な鶴の一声で、プロ野球を私物化するような行為」とコンプライアンス違反を訴えた清武氏を解任し、訴訟に発展した「清武の乱」のお家騒動でも注目を集めた。

 補強や首脳陣人事などの一切を取り仕切った。03年に原辰徳監督が任期を1年残して辞任した際も「辞任とか解任じゃなく、読売グループ内の人事異動」と表現しファンの反感を買った。16年に巨人選手の野球賭博問題で球団最高顧問を辞任した後も、内外に対する影響力は衰えず。希代の新聞人にして経営者。政財界への隠然とした影響力を持ち、球界においても「巨人」であり続けた。

 ◇渡辺 恒雄(わたなべ・つねお)1926年(大15)5月30日生まれ、東京都杉並区出身。東大文学部哲学科卒。1950年読売新聞社入社。52年政治部、68年ワシントン支局長、79年取締役論説委員長、80年常務取締役論説委員長、91年代表取締役社長・主筆、02年読売新聞グループ本社代表取締役社長・主筆、04年同会長・主筆、16年代表取締役主筆。巨人では96年にオーナー就任し、04年に辞任。05年会長、14年に最高顧問に就任も、16年に巨人選手の野球賭博関与が発覚したことで辞任した。

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