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【内田雅也の広角追球】新しい高校野球を求めて――プロ審判学校に「審判委員」が初参加(上)

スポニチアネックス / 2024年12月25日 14時18分

NPBアンパイアスクールに参加した高校野球審判委員の乗金悟さん(中央)(2024年12月22日、阪神鳴尾浜球場)

 プロ野球審判員の採用を主目的に開催しているNPBアンパイアスクールに今回初めて高校野球の審判委員が参加した。今月20~22日、西宮市の阪神・鳴尾浜球場で行われた審判学校を甲子園大会で審判委員を務める3人が受講した。

 新しい高校野球像を模索する動きとして、上下2回にわたって考察していきたい。

 日本高校野球連盟(高野連)の尾崎泰輔審判・規則委員長(58)は昨年春の就任時から、プロ野球審判との交流をはかってきた。今年春夏の甲子園大会を日本野球機構(NPB)の森健次郎審判長(60)らが視察している。今回の受講もその一環だった。プロ・アマ間にある壁をまた一つ越えた、溝をまた一つ埋めたと言えるだろう。

 尾崎委員長は今回受講の意図を「日本の最高峰レベルの審判技術を学ぶこと。そして今の高校野球の審判が他と比べてどうかという勉強のため」と説明した。

 森審判長は「尾崎さんの熱意と姿勢で実現した」と歓迎した。「どちらがすぐれているという問題ではありません。われわれは風呂敷を広げて“どうぞお好きなものをお持ち帰りください”という構えでいます」。今のプロの審判員は全員がアメリカ審判学校で学び修了している。その技術を余すことなく提供した。

 歴史的にみて、選手争奪のトラブルから断絶するほど、プロ・アマ間にあった壁や溝は審判の世界でも同様にあった。

 壁に穴が空いたのは1996年。朝日新聞を退社しセ・リーグ関西事務所長に就任した柴橋八郎氏が「プロ・アマの橋渡しが使命。まずは審判から交流しよう」と動いた。当時の山本文男セ・リーグ審判部長、藤本典征パ・リーグ審判部長を大阪・江戸堀の日本高野連・中沢佐伯記念会館に招いた。三輪武審判・規則委員長らが出迎えた。同席した審判委員の木嶋一黄さん(75)は「プロ野球関係者が高野連に足を踏み入れるのは画期的なことだった」と話す。

 翌1997年には関西地区プロアマ審判研修会を開催。以後毎年1月に集まり、今も続いている。高校野球甲子園大会の審判委員からプロ野球審判員となった谷村友一氏(故人=野球殿堂入り)の尽力があった。森審判長によると「東京六大学の審判とも親交があります」と、関東でも交流はあるという。

 NPBアンパイアスクールは2013年に始まり、今回が第11回(コロナ禍で2020年は中止)。審判員の採用はもちろんだが、もともとアマチュア野球審判の技術向上も目的としていた。

 今回のスクールには全国から約250人の応募があり、書類選考で100人に絞られた。関東・浦和会場(12月13~15日)で50人、今回の関西・鳴尾浜会場で50人が受講した。

 2泊3日で、朝から夕方までグラウンドで技術講習、夜は尼崎のホテルに同宿し座学があった。寝食をともにし、親交が深まった。

 3日間の講習を終えた22日夕の修了式。森審判長は「あ~、これで皆さんともお別れかと思うと寂しく思います」とあいさつした。目を赤くするNPB審判員もいた。「合否は別として、皆さんは審判に情熱を抱く同志、同じ仲間です。これからも皆さんの活躍を祈っています」。一人一人、名前を呼び、修了証が渡された。

 高校野球審判委員の乗金悟さん(45)は「プロの方々はアメリカで学ばれた技術に日本のマインドを加えていた。今までの自分にないものを学べた」と話した。今回の経験を多くの審判委員に伝えていく考えだ。

 期間中、尾崎さん、森さんらが意見交換したのは高校野球の審判・判定のあり方だった。=続く=  (編集委員)

 ◆内田 雅也(うちた・まさや) 1963(昭和38)年2月、和歌山市生まれ。桐蔭高―慶大卒。85年入社で野球記者40年。2015年のアンパイアスクールでコラムに書いた受講生が今回はNPB審判員として指導する側にいた。「あの記事、いまも大切にとってあります」と言う。うれしい再会だった。

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