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元阪神・バース氏が吉田義男元監督を追悼 「彼の素晴らしい野球人生に敬意を表します。ありがとう」

スポニチアネックス / 2025年2月8日 5時17分

97年、バース氏(左)と談笑する吉田義男さん

 ありがとう、ヨシダさん。米オクラホマから惜別のメッセージが届けられた。伝説の最強助っ人・元阪神のランディ・バース氏(70)が7日、91歳で亡くなった吉田義男元監督との思い出をスポニチ本紙に託した。ともに戦い、球団初の日本一を成し遂げた85年のチームを「火の玉のようだった」と形容するとともに、藤川阪神に球団創設90周年を飾る弔い優勝を期待した。

 突然届いた訃報に、バース氏も在りし日の吉田さんを思い浮かべていた。勝利に喜ぶ顔、守備を重視したキャンプでの厳しい顔。兵庫県内で通夜がしめやかに営まれたこの日、バース氏も米オクラホマ州の自宅で、恩師の冥福を祈っていた。

 「彼の素晴らしい野球人生に敬意を表します。ありがとう」

 今年も再会を楽しみにしていた。球団創設90周年を記念して開催される「Tigers Legends Day」のゲストとして、7月1日の巨人戦(甲子園)でバックスクリーン3連発の伝説トリオ、掛布雅之OB会長、岡田彰布オーナー付顧問とともに参加。伝統の一戦を盛り上げる予定が決まっていた。当然、吉田氏も駆けつけるとバース氏は信じていた。

 昨年も8月1日の甲子園球場100周年の記念イベントに吉田さんとともに参加していた。「元気で何より。これからも体に気をつけなはれ」と声をかけられ、固い握手を交わしたが、これが最後の別れになってしまった。

 「私を阪神タイガースに導いてくれたのは安藤監督。そのあとを引き継いで優勝に導いたのが吉田監督だった。85年は神がかり的に素晴らしかった。チームは一丸となって、火の玉のようだった」

 85年4月17日、甲子園での巨人戦でのバックスクリーン3連発はバース氏の野球人生に今でも残る一撃だ。吉田さんも23年のバース氏の野球殿堂入り通知式でゲストスピーチを務め「あれでチームが勢いづいたのは間違いありません」と語り、開幕直後の不振でバース氏自身が降格を申し出たというエピソードも明かしていた。今となっては苦しいことも思い出だ。

 「阪神の長い歴史の中で日本一になったのが吉田監督と岡田監督の2人しかいないのは、ちょっと残念でもある。今後のタイガースに期待しています」とバース氏は藤川阪神に節目のシーズンに、恩師にささげる弔い星を強く期待。7月の来日時には新クリーンアップで快進撃をしている姿を信じていた。(鈴木 光)

 ≪92年に競技者表彰で野球殿堂入り≫

 吉田 義男(よしだ・よしお)1933年(昭8)7月26日生まれ、京都市出身。山城では2年夏に甲子園出場。立命大を1年で中退して53年に阪神入り。俊足巧打の遊撃手で、1メートル67と小柄ながら華麗な守備は「牛若丸」と呼ばれた。コーチ兼任の69年限りで引退。ベストナイン9度。通算350盗塁は球団歴代2位。球宴には13度出場し、56年第2戦で決勝打を放ち殊勲選手賞。3期8年に渡って阪神監督を務め、85年には21年ぶりリーグ優勝と球団初の日本一に導いた功績で正力松太郎賞を受賞。90~95年はフランス代表監督を務め、同国の野球普及に尽力した。92年に競技者表彰で野球殿堂入り。現役時代の背番号23は阪神の永久欠番。

 ≪23年に野球殿堂入り≫

 ◇ランディ・バース 1954年3月13日生まれ、米オクラホマ州出身の70歳。パドレス、レンジャーズなどを経て、83年に来日して阪神入団。85、86年に2年連続3冠王。特に85年はチーム初の日本一に貢献してMVP。86年の打率・389は現在もプロ野球記録として残る。88年途中に子供の病気を理由に帰国して退団し、同年現役引退。日本で通算614試合、打率・337、202本塁打、486打点。帰国後は米オクラホマ州で農場経営の傍ら市会議員、州議会上院議員を歴任。97年にはスポーツニッポンで評論家を務めた。23年野球殿堂入り。右投げ左打ち。

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