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「総会屋事件の主任検事をやってもらうからな」平成事件史:戦後最大の総会屋事件(6) 「最強」捜査機関の実像

TBS NEWS DIG Powered by JNN / 2024年6月29日 5時0分

TBS NEWS DIG

かつて「総会屋」という裏社会の人々がいた。企業の弱みにつけ込み、株主総会に乗り込んで経営陣を震え上がらせる。毎年、株主総会の直前になると「質問状」を送りつけて、裏側でカネを要求した。

昭和から平成にかけて、たったひとりの「総会屋」が、「第一勧業銀行」から総額「460億円」という巨額のカネを引き出し、それを元手に4大証券の株式を大量に購入。大株主となって「野村証券」や「第一勧銀」の歴代トップらを支配していった戦後最大の総会屋事件を振り返る。のちに捜査は政治家への利益供与、そして大蔵省接待汚職事件に発展したーーー

* * * * *

業界ナンバーワンの野村証券への強制捜査のインパクトは大きかったが、これはプロローグにすぎなかった。東京地検特捜部長の熊崎は、1996年12月に就任以来、4月以降の捜査体制を練り上げ、内々で「主任検事」を決め、異動前に指示を出していた。


かつてない大型金融経済事件に臨むにあたり、東京地検特捜部の新体制はどう構成されたのか、「最強」と言われた捜査機関の実像をひも解く。

 密かに特捜部に出向いてコピー

野村証券元社員の内部告発、「北海道新聞」のスクープから半年以上、特捜部は1997年3月25日、ついに業界トップ、ガリバー野村証券本社などの一斉家宅捜索に踏み切った。
夕方4時23分から始まった東京・日本橋の野村証券本社「軍艦ビル」への家宅捜索には、東京地検の検事、検察事務官や証券取引等監視員会の調査官ら180人以上が動員され、真夜中まで続けられた。

机の引き出し、ロッカー、本棚から大量の資料が段ボールに詰め込まれた。同社の役員らは、深夜になって特捜部から帰宅を許可されたが、多くのメディアがまだ本社前で、捜索が終わるのを待って取り囲んでいた。
このため役員らはめったに使わない裏口から外に出て、日本橋川沿いを懐中電灯を照らしながら、昭和通りまで歩き、タクシーで帰宅したという。

新年度を迎えるにあたり、特捜部長の熊﨑は法務総合研究所教官から特捜部に戻る予定になっていた井内顕策(30期)を、泉井事件の次のターゲットに見据えた野村証券、総会屋捜査全体の「主任検事」にあてることを決めていた。
井内は熊﨑副部長時代の「ゼネコン汚職事件」で、公正取引委員会の梅沢元委員長から核心の自白を引き出すなど、「割り屋」として名を馳せていた。その後、特捜部副部長として政治家の中尾栄一元建設大臣を受託収賄で逮捕して取り調べ、特捜部長当時は「西武鉄道事件」のほか、「日歯連ヤミ献金事件」を手掛け、村岡兼造元官房長官を政治資金規正法で在宅起訴するなど永田町に睨みをきかせた。熊﨑だけでなく、特捜部副部長の笠間治雄(26期)もそんな井内に全幅の信頼を寄せていた。

井内の人事発令は1997年4月だったが、熊﨑は1か月以上も前から井内にこう告げていた。

「泉井事件の次は野村証券だ。主任検事をやってもらうからな」

このとき井内は、まだ法務総合研究所第一部の教官として、検事の研修など日常業務があったため、密かに隣の庁舎内にある特捜部に出向いて、捜査資料を受け取り、休日などを利用して自宅の麹町の官舎で資料に目を通した。
また4月から新たに「野村捜査班」に加わる大鶴基成や八木宏幸らの検事にも事前に読み込んでもらうため、自分で捜査資料のコピーを取って渡していたという。

「法務総合研究所の他の教官や部長らに気付かれて、捜査情報が万一漏れないよう保秘に大分苦労した」(井内主任検事・現弁護士)

このときの人事異動では井内以外にも1993年の「ゼネコン汚職」で熊﨑のもとにいた多くの検事が特捜部に戻ってきた。東京高検から山本修三(28期)、山本は「リクルート事件」の「熊﨑班」で労働省、政界ルートを担当、リクルート社の幹部から半年かけて贈賄の供述を引き出した他、「共和汚職事件」では自民党宮沢派事務総長の衆院議員、阿部文男逮捕の端緒をつかむなど、食いついたら離さない「スッポンの山本」と言われていた。普段は「ヤマシュウ」の愛称で呼ばれ、一連の事件では「大蔵省接待汚職」の陣頭指揮を執った。

大分地検次席から大鶴基成(32期)。大鶴は私学が多い特捜部で東大卒、「ゼネコン汚職」で大物茨城県知事の竹内藤男の取り調べを担当した。「総会屋事件」では第一勧銀ルート班を率いて、奥田正司元会長を取り調べ、「大蔵接待汚職」では金融機関の「MOF担」から大蔵省金融検査官への過剰接待などを解明した。その後、特捜部副部長として自民党橋本派を舞台にした「日歯連ヤミ献金事件」、特捜部長時代には「ライブドア粉飾決算」「村上ファンド事件」などを手掛けた。「陸山会事件」では同期の谷川恒太(32期)の後任の東京地検次席検事として「陸山会事件」の対応にあたった。最高検公判部長を経て退官後はカルロス・ゴーンの弁護人も務めた。

粂原研二は出向先の「SEC」から2年半ぶりに復帰した。粂原は熊﨑副部長時代の「ゼネコン汚職」では、財政経済班からの応援で贈賄側の一社、西松建設の幹部の取り調べを担当した。「SEC」に出向中は多くの証券取引法違反事件を告発したほか、野村証券の「総会屋」小池隆一への利益提供の端緒をつかむなど、証券取引のエキスパートだった。粂原は後に「日興証券」の役員らに利益を要求していた衆院議員・新井将敬の取り調べを担当することになる。

司法研究所教官から松井巌(32期)、松井は北海道出身で東北大卒、野村証券のトップ、酒巻英雄元社長の取り調べを担当した。「総会屋」小池隆一の取り調べも途中から担当していたが、第一勧銀の宮崎元会長が自殺したことがわかり、東京拘置所で小池隆一に伝えたところ、小池は自責の念に駆られ号泣した。これ以降、小池は全面自供に転じたという。法務総合研究所教官から谷川恒太(32期)、谷川は「ゼネコン汚職」でゼネコンの押収物から「仙台市長」への贈賄を示すメモを見つけた。一連の事件では野村証券の酒巻社長の側近で株式取引のプロ、元常務を取り調べた。元常務は、小池隆一への「利益の付け替え」を現場に指示していた。谷川はのちに東京地検次席検事として「陸山会事件」の対応にあたった。こうした多くの「熊﨑軍団」がゼネコン汚職事件以来、再び顔を揃えた。

深夜まで記者対応

人事異動に伴い、熊﨑は捜査体制を立て直した。1997年4月からはこれまでの「機動班」を、「特殊・直告班」に組み入れ、「特殊・直告班」を「1班」と「2班」に分けることにした。その「1班」で「野村・第一勧銀・総会屋事件」を統括する副部長は、泉井事件に続いて笠間治雄が担った。「2班」の副部長・山本修三は当面「大和証券」など捜査にあたり、のちに笠間の「1班」引き継いで「大蔵省汚職」の陣頭指揮を執った。

副部長以下は事件全体の「主任検事」に井内顕策、「総会屋」の最大の資金源となった「第一勧銀捜査班」の班長に大鶴基成を据えた。加えて、東京高検管内の地検からの応援検事を30人を投入し、証拠物の分析と参考人の取り調べを担当させた。さらに野村証券が国会議員などの特別顧客、VIP口座を優遇していた実態を調べるために、「SEC」から帰任した粂原研二を班長とする「政界ルート特命班」を設けた。

司法記者クラブのP担(検察担当記者)への対応は原則、特捜部長と副部長があたることになっている。検察は、記者が幹部以外のヒラ検事や検察事務官に接触することを禁止しており、ヒラ検事との接触が幹部に伝わった場合、そのメディアは「出入り禁止」となり、ペナルティの段階によって、次席検事の会見や特捜幹部への取材が禁止となる。もっとも、独自ルートを持っている記者には「出入り禁止」は何の効果もない。

司法記者が特捜検事との接触を試みる時間帯は主に出勤時と帰宅時だった。夜は外から特捜部の窓の灯りが消えるのを確認して、検事宅に向かうのだ。身柄を持っている場合などは連日、東京拘置所で長い取り調べを終えて終電以降に帰宅する。深夜に記者が自宅周辺で待つと近隣の迷惑にもなりかねないため、熊﨑は当時、よく世田谷区砧の自宅近くのスナックを使って記者対応をしていた。

当時、最も若手のP担(検察担当)だった秌場聖治記者(TBS)は振り返る。

「熊さんと番記者が行くのはだいたい世田谷通りから少し入った日大商学部の近くにあった『セカンドハウス』というスナックだった。近所の常連がカラオケで美空ひばりの「車屋さん」を歌うような気さくな店で、20人も入れば一杯だった。
夜が深まると、熊さんが『そろそろイチイチやるか』と言って、ようやく店内で、各社数分ずつの『持ち時間』で個別対応に応じてくれた。熊さんはときどき特捜部の佐々木善三さんらにも声を掛けて、店に連れてきた。新聞社は常に朝刊締め切りの『午前1時半』を意識していたが、それを過ぎることも普通だった」

秌場たち番記者は当時流行していたSMAPの「ダイナマイト」や「青いイナズマ」、安室奈美恵の「Don’t Wanna Cry」などをよく選曲した。それらの歌詞を、特捜部がその時期に、まさに内偵捜査を進めている事件にひっかけた「替え歌」にして歌い、熊﨑の反応を見た。
その時の熊﨑の微妙なリアクション、言い回しの変化をとらえ、捜査の進捗状況や強制捜査着手のタイミングの糸口を探ったのである。

熊﨑は「現場が組織全体を支えている。常に現場がどう考えているのかを知りたい」との思いから、現場の特捜検事と積極的に意思疎通を図った。そうした現場との結びつき、現場に入り込んで都合の悪いことも聞くというやり方は、のちにプロ野球のコミッショナーとなっても変わらなかった。折に触れて部下に「一杯いくか」に声を掛け、連れていく店が東京・渋谷の行きつけのスナック「洋子」だった。熊﨑はかつてこう話していた。

「いい仕事をした検事は、ほおっておいても機嫌がいいから大丈夫。調べが不足しているとか、ブツ読みが進んでいない部下と飲みにいく」 

熊﨑の所在がわからないとき、筆者は「洋子」に向かい、店から出てくるのを待って接触した。事件の節目には、店内から熊﨑が「同期の桜」を歌う声が聞こえてきた。若者が集まる華やかな渋谷のセンター街から、細い通りを入った路地にあった。なぜその店かと言えば、もともと店のママと、かつて特捜部にもいたS検事(20期)(のちに法務省矯正局長、広島高検検事長、高松高検検事長)が福岡出身で同郷だったことから紹介されたという。

主任検事だった井内顕策(30期)も当時を懐かしむ。

「夜、霞が関の検察庁からタクシーで渋谷の『洋子』に向かうときは、ちょうど当時住んでいた麹町の官舎の前を通りすぎていたので、『ここで降りたらそのまま帰宅できるのに』とよく思いながら付き合った。熊さんは元気だから、午前2時や3時まで飲むこともあったが、そうした熊さんの部下への気配り、特捜部の風通しを良くしたいという配慮が身に染みた」

ゆるぎない結束を固めながら、その後1年以上にわたり、特捜部は法務省や全国の地検などからも応援検事を投入し、前例のない規模の捜査体制を整え、「4大証券・第一勧銀、総会屋事件」「大蔵省接待汚職」という「聖域」に切り込んでいく。

「応援検事は熊さんがある程度、実力や評判を知っていて呼んだ検事が多かった。第一勧銀ルートの葉玉匡美さん(45期)や奥村淳一さん(36期)、日銀接待ルートの長澤格さん(46期)など優秀な人が多かった」(元特捜検事)
 
副部長だった山本修三(28期)は振り返る。

「5月の段階で、応援検事含めてロッキード事件並みの体制と言われたが、9月以降「秋の陣」に向けて副部長も4人に増員し、野村証券に続いて、山一証券、大和証券、日興証券への4大証券着手の頃はさらも応援検事を増やし、検事は70人近くに拡大した。特捜部だけで東京地検全体よりも人数が多いじゃないか、とよく言われた。かといって、応援検事をいつまでも引っ張っておくわけにはいかないので、どこで解除するのか、捜査の進捗状況を見ながら判断した」

「立件するのは野村証券だけの一罰百戒でいいんじゃないかという検察幹部もいたが、4大証券すべてに不正の証拠があるのにやらないのは不公平感が残るとの判断だったと思う」(山本副部長・現弁護士)

検察首脳にも「特捜人脈」

また時を同じくして検察首脳のメンバーにも「特捜人脈」が集まり、大型経済事件に熟知した陣容が揃うことになった。
検察のトップ、検事総長の土肥孝治(10期)は、京大在学中に司法試験の合格、国会議員を摘発した「大阪タクシー汚職」で贈賄側から自白を得るなど、検事約40年間の大半を大阪高検管内で過ごした大阪特捜のエースだ。大阪地検特捜部長時代は、大阪府警の警察官がゲーム機業者から収賄していた汚職を摘発。またバブル期に住友銀行や裏社会を舞台に「3000億円」が闇に消えたとされる「イトマン事件」を指揮した。その翌年、最高検次長検事となり「金丸元副総裁脱税事件」で現場を後押しした。

検察ナンバー2の東京高検検事長の北島敬介(13期)は特捜部時代に「石油ヤミカルテル事件」、その後は「ロッキード事件」の全日空ルートなどを担当。1993年には東京地検検事正に就任し、「ゼネコン汚職」を指揮した。最高検公安部長、東京高検検事長などを経て検事総長となる。学生時代は柔道部、普段は無口だったが、酒が入ってもやはり寡黙だった。

筆者の1997年のスケジュール帳には、2月26日「石川さん東京地検検事正に着任」と記されている。東京地検検事正は、東京地検のトップで特捜検察を直接指揮する枢要ポストである。警視庁のカウンターパートは「警視総監」になる。
特捜検察の本流を歩んだ石川達紘(17期)は「ロッキード事件」で全日空副社長の取り調べや「三越事件」に携わり、特捜部副部長時代には「平和相互銀行事件」や「撚糸工連事件」を手掛けた。特捜部長在任中には「国際航業事件」や「稲村利幸・元環境庁長官」の脱税事件を摘発。「ゼネコン汚職」では東京地検次席検事として特捜部長の宗像紀夫(20期)、副部長の熊﨑をバックアップした。佐賀地検、静岡地検の検事正、最高検公判部長を経て戻ってきた。石川は名前の「達紘」を音読みして、「タッコウさん」と呼ばれ、特捜現場の利益代表として慕われた。「ゼネコン汚職事件」以来、「石川ー熊﨑ライン」には強い信頼関係が築かれていた。

石川は就任会見でこう語った。

「私は事件のこと以外、考えたことがない。検察ファッショにならないよう、世の中の少し後をついていきたい」

東京地検のスポークスマンの役割である東京地検次席検事には、1年前に法務省人事課長から松山地検検事正に異動したばかりの松尾邦弘(20期)が就任。松尾は「ロッキード事件」で丸紅の伊藤宏専務から田中角栄総理大臣への5億円授受の自供を引き出し、田中逮捕に貢献した。
「連合赤軍」事件では永田洋子を自供に追い込んだことで知られ、永田洋子が記した「続・十六の墓標」にも松尾検事との取り調べのやりとりが記されている。在ドイツ日本大使館のアタッシェや法務省刑事局長、東京高検検事長などを経て、検事総長を務めた。

こうした検察の上層部がいたからこそ、一連の「野村証券、第一勧銀総会屋事件」から「大蔵省接待汚職」にいたる過程で、特捜部から上がる捜査報告の決済ラインは、ある時期まではスムーズに機能したと言える。しかし、のちに「大蔵キャリア」へ捜査が及ぶことになると、特捜現場を抱える「検察庁」と大蔵省に向き合う「法務省」の間で、徐々に亀裂が入り始める。だが、この時はまだ誰もそれを知る由もなかった。

(つづく)

TBSテレビ情報制作局兼報道局
「THE TIME,」プロデューサー
 岩花 光

◼参考文献
井内顯策「愚直な検事魂」人間社、2020年
村山 治「市場検察」文藝春秋、2008年
司法大観「法務省の部」法曹会、平成8年版

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