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やりすぎ教育が子どもを追い込む~「エデュケーショナル・マルトリートメント」を防ぐには~【調査情報デジタル】

TBS NEWS DIG Powered by JNN / 2024年8月3日 6時0分

TBS NEWS DIG

子どもの健全な発達を阻む、競争をあおる教育。どのような悪影響があり、どのような改善が望まれるのか。さらにその一種である「教育虐待」とは。一般社団法人ジェイスの武田信子代表理事による論考。

1.被虐待児と同じ症状を呈する日本の子どもたち

1)気づかない日本の大人たち 
子どものからだと心の発達を、全国の養護教諭らの協力を得て40年以上研究している日本体育大学体育研究所の研究結果によれば、近年の「日本の多くの子どもたちは、虐待を受けている子どもたちと同じ身体症状を呈していると解釈できる」(野井、2021)、つまり、ジュディス・ハーマン(1999)の言う「警戒的過覚醒状態にあり、睡眠と覚醒、食事、排せつ等の周期の乱れを示し、落ち着いていられず、いわゆる『よい子』であろうと執拗に努力し続けている」状態であるという。

前頭葉機能、自律神経機能、睡眠・覚醒機能といった「神経系」の発達に、被虐待レベルのさまざまな問題が生じているというのである。

しかし、このような結果を多くの人は知らず、知ってもそれを深刻な問題と受け止めない。

2)国連子どもの権利委員会からの勧告
国連子どもの権利委員会は、日本の過度に競争的な教育が子どもたちに悪影響を及ぼしていることを繰り返し指摘し、2019年にも「子どもが社会の競争性によって害されることなく、子ども時代と発達を楽しむことができるような措置を講じること」と勧告している。

競争的な教育は、家庭に限らず学校や塾、スポーツや音楽指導等においても日常的に見られ、子どもたちにもっと勉強させる必要があるという論調は収まるところを知らない。

勉強に向かう時間が増えれば、子どもたちの生きる力の基盤を作る生活や遊びの時間が確実に減るが、それらの時間の保障は考慮されないまま、子どもたちは学校が終わっても宿題や塾の形で「残業」させられ、すきま時間にそのストレスを吐き出すかのようにゲームやネットに向かっている。

3)大人たちの価値観 
国際的な視点で見たときに「問題である」とみなされることが、日本国内ではなかなかそう認識されない。それは例えば、性器切除が当然と考えられる地域があったり、黒人奴隷や女性差別が当然と考えられてきた時代があったりしたことと同様かもしれない。慣習や常識、国民全体の価値観に基づいていることが問題とみなされるまでには高いハードルを越えなければならない。

たとえば、日本には自殺者が年間2万人以上いる。交通事故死者数の10倍近い数にもかかわらず、自殺は個人の問題とみなされがちで、社会の問題と認識する人、その問題に取り組もうとする人は多くない。それは、子どもが年間500人以上自殺しても同じである。

一人の子どもがこの世から自分を消そうと思うまでにどのような体験があり、どうして身近な人や社会に救いを見出すことができなかったのか。しかも自殺直前の最頻検索ワードが「学校行きたくない」であったという(NHK、2016)。それはなぜなのか。私たちは考える必要がある。

次に、虐待の一つである体罰について考えてみよう。日本では長い間、子どもへの体罰を認める人が6割を超えていた。体罰の禁止を盛り込んだ改正児童虐待防止法と改正児童福祉法が2019年に制定され、体罰容認派が4割に減少したとはいえ、今もまだ、子どもを導くために大人が子どもに暴力をふるうのは仕方ないと考えている人が少なくない。体罰を使わずに子どもたちと対話的に問題解決する方法があると知らないのである。

また、半世紀前に始まり、今も増え続ける不登校やひきこもりは日本に特徴的な現象であるが、その主な要因が無気力・不安(文科省、2022)とされているのはなぜか。なぜ無気力・不安になり、それが継続しているのか、説明が必要である。

私たちはこのような状況に慣れてはいけない。

これまで日本では、子どもたちが、大人たちの価値観に基づいてなされる教育に不適応になったり、絶望して自殺したりひきこもったりすると、それを子どもたちの異変だと見做してきたが、おかしいのは歴史的に長く続く価値観の中で、疑問を持たずにその価値観を次世代の子どもたちに押し付けて世代間伝達し続けている大人たちの方ではないのか。

2.エデュケーショナル・マルトリートメントとは 

1)エデュケーショナル・マルトリートメント
児童虐待は、「<保護者が>その監護する児童について行う次に掲げる行為…」(児童虐待防止法第二条)と定義づけられているが、実際のところ、しつけや教育を名目とした虐待は、教師やスポーツ・コーチなど「子どもの指導者」からなされることも少なくない。

そのため、筆者は、より広く「親を含む大人」からの教育に関連する「不適切な対応(虐待)」を「エデュケーショナル・マルトリートメント」と名付け、それが日本社会の文化や価値観の下で是認されていることに対する注意喚起を始めた。マルトリートメントとは、心理的虐待も含む虐待を意味する英語である。

エデュケーショナル・マルトリートメントは、「誰かによる」単一のマルトリートメントを指すのみならず、ある子どもが継続的に受け続ける「あなたのために良かれと思って」「他の方法があることを知らなくて」浴びせ続けられる育児や教育のシャワー全体を指す概念である。一人の大人によって継続的に行われる場合もあれば、同じ子どもに対して次々と場所と人と形を変えて行われる場合もある。

その底流にある価値観を子ども向けのコマーシャルなど他の情報が補完する。例えば、多すぎる宿題に苦しんでいた子どもに、親が「もうやらなくていいよ」と言ったら、でも「ドラえもんが『宿題はやらなくちゃ』と言うよ」と子どもが言った、というように。社会の圧力は、思わぬところで子どもたちに降りかかっている。

子どもの周りの大人たちが揃って能力重視の思考を持っていれば、子どもも「何かができなければ尊重される価値がない」という価値観を身につけ、友だちともそれを共有するかもしれない。津久井やまゆり園事件のように「障がい者は殺してもいい」と思うようになるかもしれない。

一方、学力が低い子どもが、授業がわからないまま何年も学校に通っている。学びが成立していないが、誰もが年齢別学級はあたりまえだから仕方ないと思ってケアしない。こちらはネグレクトである。生徒の学習権が侵害されている。

新自由主義に基づく競争社会においては、子どもの権利の基本として保障されるべき、休息、睡眠、遊び、楽しむこと、兄弟や友だちと過ごすこと、日々の生活を穏やかに暮らすこと、家事を分担して生活能力を身につけると同時に、家族の一員としての自覚と責任を持つことよりも、勉強して成績を上げること、特技を持つことなど、経済的価値に結びつくことの優先順位が高くなりがちである。

子どもの発達には、効率的でない一見「無駄」な活動や「失敗を繰り返しながらの試行錯誤」「回り道」が必要であるということは、一般にあまり知られていない。そのため、発達のプロセスを熟知しないまま、自分が育てられたときに身につけた価値観に基づく行為を正当化して、マルトリートメントを是認してしまう。

人が不適切に扱われること、傷つけられることが常態化している社会においては、マルトリートメントが気づかれずに継続してしまうのである。このように生起するマルトリートメントを武田(2021)はさらに『社会的マルトリートメント』と名付け、それが蔓延する社会を『マルトリ社会』(2023)と呼ぶ。

幼少期からの激しいマルトリートメント体験はトラウマとなり事件性をもつが、じんわりと続く継続的なマルトリートメント体験もまたトラウマとなりうる。それを複雑性PTSDと言う。

複雑性PTSDは人の生涯のウェルビーイングを脅かす。社会的マルトリートメントが生じないように育児や教育の環境を改善することは個人の責任というよりはむしろ社会が担うべき責任である。複雑性PTSDの侵襲性と社会の責任という2つのことが多くの人々に認識されるようになったら、そのときようやくマルトリ社会は変わり始めるだろう。

2)教育虐待
教育虐待とは、「親が教育という名目で行う子どもの受忍限度(心身が傷つきに耐えられる限界)を超える虐待」(武田、2019)で、家庭内で行われる。2020年末にNHK番組『あさイチ』で、虐待ということばが親を責めることにつながる懸念から「やりすぎ教育」とマイルドな名称で紹介された。エデュケーショナル・マルトリートメントの亜型である。

子どもたちは生まれた場所、家庭の文化の中で育っていく。生きるために養育者に頼るしかない。養育者が持つ価値観の中で生活し、その中で自分の価値観を形成し、それが自分を理不尽に縛るものであっても、その価値観で生きていくしかない。

実は、教育虐待は古今東西に見られる現象である。古くは中国の科挙、あるいは近年はインドや韓国など特にアジア圏の受験の熾烈さとそれに伴う教育の強制はよく知られている。

親が「子どもの将来を思って」熱心なあまり、子どものウェルビーイングを損なうまでに勉強やスポーツ、音楽などを強制する行為や現象をさす。強制そのものの激しさと、それに伴う睡眠や休息、遊ぶ時間の剥奪など、心身の発達に配慮することなく、子どもに共感することもなく人権を侵害する行為が、家庭という密室の中で、ときに幼少期からしばしば長期間にわたって行われるものである。

教育虐待に至る親は子どものNOをスルーする。自分は正しい育児・教育をしている愛情深い親であると疑いなく信じており、それが子どもを苦しめて、本末転倒になっていることに気づかない。

脳は、適正な環境刺激の中ではあらゆる形で発達していくが、学力つまり大人の意図する特定の認知発達のみを促進する働きかけは、社会情動的力など、学力より先に発達して学力の下支えをする基盤となる能力の発達をむしろ阻害するかもしれない。

また、一般に虐待は生活困窮家庭で起きる可能性が高いと言われるが、教育虐待は、子の価値を高めたいという動機から行われ、高学歴高収入の親による事例も少なくない。

受験勉強の強制は、子から親への報復的な殺人事件として今も語り継がれる神奈川金属バット両親殺害事件(1980年)を発生させ、世間を騒然とさせた。近年では親が子を殺害した名古屋小六受験殺人事件や鳥栖両親殺人事件、滋賀医科大学生母親殺害事件が記憶に新しい。これらは特殊な事例と思われがちであるが、学校現場はもちろん、精神科や教育相談の現場、進学塾や学童保育などさまざまな場面で、トラウマによって心を病んだ子どもたちに出会うことは少なくない。

つまり、教育虐待は事象として目新しいものでも珍しいものでもない。しかし、長い間、他の虐待と区別して概念化されることがなく、また体罰のようにあまりにも一般化していたがために、事象から距離を置いて論じることができなかったと考えられる。

3)教室マルトリートメント
エデュケーショナル・マルトリートメントの中でも特に「教育現場における指導者による不適切なかかわりや本来であれば避けるべきかかわり」を、川上康則(2022)は教室マルトリートメントと定義した。「違法行為と定められたかかわりだけではなく、処分の対象とされていないような『心理的虐待』や『ネグレクト』に類似したかかわり」も含めて教室マルトリートメントが行われていると指摘したのである。

教室マルトリートメントは、第三者の入りにくい教室の中で行われる。発覚しても、しばしば「子ども想いの良い教師」「厳格で優秀な教師」によって行われた指導とされて問題化しにくい。

また、「授業を教える力量や熱意のない先生」「学力の低いあるいは高い生徒等を放置してしまう先生」によって「学ぶ機会を剥奪されるが気づかれにくいネグレクト」も対処されにくい。でも、生徒たちは教室という小さな世界の中で生きているので、自分たちの日々の体験がマルトリートメントであるということに気づきにくい。

このような指摘をすると、教師が悪いように思う方もいるかもしれないが、教育虐待において、親が知らなかったり追い詰められたりしているのと同様、教師も知らなかったり追いつめられたりしているということに気づく必要がある。

背景には、教育を訓育と捉え、良いことを教え込もうとする価値観、教員の勤務条件や人間関係などの環境、受験戦争、子どもの育ちの責任を学校だけに担わせようとする社会、不適格な教員志望者にまで免許を授与する養成の仕組みなど、複雑な要因が重なってしていると考えられる。教員個人の責任を問う姿勢では教室マルトリートメントを根絶することはできないだろう。

3.エデュケーショナル・マルトリートメントによるトラウマ

知識や技術の獲得を強要する大人たちは、子どもが幸せになるために「強制は必要」と認識している。子どもたちを自由にすれば成績は上がらないと考え、成功する子どもを育てる「いい大人」であるためにも、あらゆる手段を使って教育しようとする。そうして、厳しい指導によって子どもが「成功」を収めた場合、それまでの厳しい指導はむしろ賞賛され、本人のトラウマは封印され、批判はタブーとなるのである。

虐待行為を愛情による教育と信じる親に育てられる被虐待児は、長期間にわたって親の教育観を刷り込まれて育ち、自らも「できること」に執着してしまう可能性がある。

幼稚園や学校でも「特定の内容ができること」を求められる中で、他者からよい評価を受け続けることで自己肯定感を保ち、周囲に認められようとする。それができない場合、良い子でいられない自分を責め、自他への信頼感や他者との愛着関係、自己効力感を持てないままに育つ。

大人の「できることがよいこと」という価値観が内在化されてしまうので、失敗や停滞は、肥大した超自我に責められる原因となる。非難を避けるためにできる限り大人の言うことを聞くようにし、仮面をかぶって優等生になってやり過ごしている場合もあれば、それができずにおどおどしたり反抗的だったりひねくれたりした態度によって、さらに他の大人たちを刺激し「何とかしよう」という気持ちをあおり、新たな虐待を誘ってしまう場合もある。

一方、そのような「正しい」価値観は、友人たちからは受け入れられ難い。できる子であれば、「優等生」「ひいきされている」として特別扱い、つまり仲間外れにされて孤独感に苛まれたり、友だちの前ではできないふり、やっていないふりをするなどして同調する努力が必要だったりするし、できない子であれば、大人に反抗的になったりいわゆる非行に走ったりして大人を嘆かせ、あきらめさせようとする。いずれにせよ、やりきれなくなったときに自傷行為に走ることがある。

被虐待児は、他児との比較や人権の学習によって自分が悪いわけではないと気づくまでに、トラウマによって傷つき、複雑な心性を身につけてしまっていることが多い。守ってくれる他者がいない少人数家族や学級の中では抵抗は成功しない。そもそも大人に「教育的」とみなされたこと以外についてはネグレクトされ、子どもたちが日常生活の中で徐々に身をつける能力や常識を獲得できていない場合もある。

多様な価値観の下で生活する子どもや、多様な場で様々な人に出会い、さまざまな生き方を見る機会のある子どもは、主たる養育者の影響を受けつつも、他者からの新しい情報によって、その価値観を上書きして自分の価値観を作っていくことができる。しかし、新しい情報もまた同じ価値観であれば、それは固定観念として不動の価値観になっていくだろう。

エデュケーショナル・マルトリートメントは、このように幼少期から長期にわたって家庭や学校の文化の中で体験され続ける。それは養育者や教育者の組み合わせによって、さまざまなパターンで子どもたちに影響を与える。加害者は一人ではない。むしろ多数が関与している。

親や教師はしばしば、自分のイメージする姿や世の中に受け入れられる姿に子どもを育て上げるのが役割だと信じている。また、子どもに対し上から「良いと思うこと」をして「あげる」ことが大切と考えている。そもそも子どもの言葉を聞いていたらわがままに育つ可能性があるから阻止しなければならないと考えている人は多い。子どもと民主的な対話をするという文化が残念ながら日本にはない。子どもは自分の所有物であり統制すべき対象であると思い込んでいることさえある。

大人の中にも、日本の一般的な子育ての価値観はおかしいと感覚的に思っている人がいる。しかし、同調圧力のある社会において、皆がそれを良しとしている「文化」の中で、別のあり方を選択することは難しい。ましてや自分の子どもが社会の中で安全かつ協調的に育つことを望むから、自分の子どもを他の子どもたちと違うように育てるのはリスキーで、避けたいことなのである。

4.今後われわれ大人は、この問題にどう向き合っていくべきか

エデュケーショナル・マルトリートメントは、日々の「軽微」なことの積み重ねであるかもしれない。子どもが「圧倒され」「無力を感じ」「心理的に不安定になる」と言っても、従来の価値観に慣れて疑いを持たない大人たちには共感されないかもしれない。

知らない間に発達が阻害され、十全に成長できない子どもたちがいる。そのような社会の状態に名称を与え、社会の問題として大人たちが振り返り、変革に向かって議論を始めることが、次の犠牲者を生まない予防の第一歩だろう。

引用文献
・NHKスペシャル:若者たちに死を選ばせない、2021
・おおたとしまさ:ルポ教育虐待.毒親と追いつめられる⼦どもたち.ディスカヴァー携書.ディスカヴァー・トゥエンティワン、2019
・川上康則:教室マルトリートメント.東洋館出版社、2022
・川上康則編著:(第一章 武田信子著)『教室を安全基地にする』東洋館出版社、2023
・ジュディス・L・ハーマン著、中井久夫/阿部大樹訳:心的外傷と回復. みすず書房、 2023
・武田信子:やりすぎ教育.ポプラ社、2021
・武田信子:エデュケーショナル・マルトリートメントとは.Information Plaza、健康教室11月号、92-95、東山書房、2019  
・野井真吾:子どもの“からだと心”クライシス、かもがわ出版 2021
・文部科学省:令和4年度「児童生徒の問題行動・不登校等生徒指導上の諸課題に関する調査」、2023

<執筆者略歴>

武田 信子(たけだ・のぶこ)
一般社団法人ジェイス(Japan Action for Children's Environments and Prevention of Maltreatment )代表理事。

臨床心理士。東京大学大学院教育学研究科教育心理学専攻博士課程満期退学。臨床心理学、ソーシャルワーク、教師教育学をベースに、すべての子どもがウェルビーイングに暮らせる社会を目指して活動。子ども・子育て支援や教育・心理・コミュニティワーク・人権・遊びに関する講演や研修多数。子どもの遊び・生活環境を改善する各地の試みに数多く関わっている。
著書に「やりすぎ教育 商品化する子どもたち」(ポプラ新書、 2021)、「教育相談」(学文社、2019 編著)など。

【調査情報デジタル】
1958年創刊のTBSの情報誌「調査情報」を引き継いだデジタル版(TBSメディア総研が発行)で、テレビ、メディア等に関する多彩な論考と情報を掲載。2024年6月、原則土曜日公開・配信のウィークリーマガジンにリニューアル。

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