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平成事件史 戦後最大の総会屋事件(15)ーなぜ警視庁幹部はワイロを受け取っていたのか、見返りは・・・小池隆一事件の「ブツ読み」から浮上した前代未聞の警官汚職

TBS NEWS DIG Powered by JNN / 2024年8月3日 19時0分

TBS NEWS DIG

かつて「総会屋」という裏社会の人々がいた。毎年、株主総会の直前になると「質問状」を送りつけて、裏側でカネを要求した。昭和からバブル期を挟んで平成にかけて、たったひとりの「総会屋」が、「第一勧業銀行」から総額「460億円」という巨額のカネを引き出し、それを元手に野村証券など4大証券の株式を大量に購入。大株主となって「野村証券」や「第一勧銀」の歴代トップらを支配していた戦後最大の総会屋事件を振り返る。

大手証券会社にカネをたかっていたのは、総会屋だけではなかった。
東京地検特捜部による総会屋事件の捜査は、波状的な進展を見せ、金融機関から大蔵官僚への接待疑惑が浮上していた。そんな中、想定外のことが起きる。


汚職や詐欺など知能犯罪捜査のエキスパートと言われていた現職の警視庁幹部が、みずからワイロを受け取って逮捕されるという前代未聞の不祥事が発生した。関係者の証言をもとに今だから明かせる捜査の舞台裏の一端を描く。

警視庁幹部を電撃的に逮捕

「金融腐食列島ー呪縛」という映画にもなった野村証券、大和証券、日興証券、山一証券の4大証券、それに第一勧業銀行による「総会屋」小池隆一に対する巨額の利益供与、損失補てん事件。4大証券から「総会屋」小池隆一側へ流れた金額と回数を整理しておこう。

あくまで立件分にすぎないが、第一勧銀からの「う回融資」は「約118億円」、野村証券から利益の付け替えが6回で「約4700万円」と「現金3億2,000万円」、大和証券は付け替えが68回で「約2億円」、山一証券が利益の付け替えが32回で「約1億7,000万円」に上った。

前年1997年から続いた4大証券、第一勧銀から総会屋への利益供与事件は、次のステージへ舞台を移していた。
年が明けた1998年1月、TBS司法記者クラブは、大蔵省OBの「日本道路公団」幹部の収賄事件の「X」デーが近いと見ていた。他社の司法記者もほぼそう予想していた。東京地検特捜部の最終ターゲットは「大蔵キャリアの接待汚職」だった。その前哨戦とも言える大蔵省OBの「日本道路公団理事」への捜査が、まさに秒読みだったのである。

そのため報道各社は、年が明けると、連日「大蔵省OBの日本道路公団理事にきょうにも出頭要請」などの前打ち報道を展開した。TBSも日本道路公団知事逮捕の「Xデー」に備え、さらに続いて摘発される可能性が高い大蔵省のノンキャリやキャリア官僚への接触を試み、水面下で関係者のインタビューや情報取材を積み重ねている段階だった。

特捜部長の熊﨑、副部長の山本らに張り付く番記者の報告からも、別の事件を内偵している感触もなかった。むしろ、特捜部第一勧銀捜査班キャップの大鶴基成検事(32期)が金融機関のMOF担(大蔵省担当)を一斉に呼び出し、大蔵官僚について集中的に調べているとの情報を得ていた。
そうした状況から筆者らは、まもなく特捜部が、本丸のターゲットである大蔵省のキャリア官僚捜査の前哨戦として、大蔵省OBに切り込むことをほぼ確信していた。

しかし、1998年1月14日、特捜部長の熊﨑が電撃的に逮捕したのは、まったく突如浮上した警視庁の現職幹部、H警部だった。しかも、捜査情報を「大和証券」に流してワイロを受け取ったという超一級の汚職事件だった。東京地検の松尾次席検事の発表に、筆者ら司法記者クラブ各社は、降って湧いたような警官汚職の発表に驚愕した。

筆者らは検察に出し抜かれたのだ。

実は、特捜部が総会屋事件で、大和証券の家宅捜索で押収した段ボール箱の中から、後に述べる警視庁H警部からの「一通の手紙」や、「接待伝票」などが見つかっていたのである。大蔵省OBの「Xデー」に気をとられていた筆者らは、特捜部が急遽、H警部の汚職を水面下で内偵しているとは、知る由もなかった。
逮捕されたH警部は、一連の総会屋事件とは別件の「大和証券国立支店の詐欺事件」の捜査に携わり、その「捜査情報」を大和証券側に流し、見返りに「ワイロ」として現金や飲食接待を受けていた収賄の疑いだった。

この事件の端緒をつかんだのは、まだ29歳の東京地検特捜部の若手検事、木目田裕(45期)であった。木目田は浦和地検公判部から「A庁」で特捜部に来たばかり。検察庁では任官1年目を「新任検事」、2~3年目を「新任明け検事」、そして4~5年目になると「A庁検事」として東京、大阪、名古屋などの大規模庁を経験する。木目田は「A庁検事」として特捜部に抜擢されたのだ。

木目田は特捜部副部長の山本修三率いる特殊直告2班に配属となり、まず「住専事件」そしてバブルの帝王といわれた「麻布グループ」の渡辺喜太郎氏の事件の担当となる。

「ダンボール箱数十箱を渡されて『立てられる事件の筋を考えてこい』と言われ、ブツ読みに没頭する毎日だった」(木目田)

先輩には佐々木善三(31期)や伊丹俊彦(32期)がいた。佐々木は「リクルート事件」や住専事件、大蔵省キャリアの捜査に関わり、「マムシの善三」と呼ばれていた。のちに特捜部副部長も務め、KSD事件や鈴木宗男議員の事件などを指揮した。伊丹は「東京佐川急便事件」や阿部文男・元北海道沖縄開発庁長官の受託収賄事件を手掛けた。

「事件の筋をつくって、一斉取調べをした。渡辺喜太郎の取り調べは別の先輩検事が担当したが、私は、ある関係者の事情聴取を始めた初日に、自白を得ることができた。その麻布グループの事件を勾留2回転して、1997年7月くらいに終結したあと、4大証券の捜査に加わった」(木目田)

特捜部長の熊﨑は総会屋事件、大蔵省接待汚職の捜査に、若手を積極的に起用していた。当時の配置表によると、笠間副部長の特殊直告1班の森本宏(44期)、中村信雄(45期)、山本副部長率いる特殊直告2班の木目田裕(45期)、財政経済班の西山卓爾(45期)と平光信隆(46)らである。
熊﨑や山本は、こうした30歳前後の検事にも、4大証券や第一勧銀の役員、小池隆一の弟など重要な容疑者の身柄を持たせるなど、経験を積ませていた。このうち今回の警視庁汚職は、29歳の木目田検事が端緒をつかんだのであった。

一通の不審な手紙

総会屋事件で特捜部は、4大証券から大量の証拠品を押収した。このうち大和証券の「ブツ読み」をしていた木目田は、ある日、ダンボール箱の中から、一通の手紙を発見する。封筒の中を確認してみると、差出人は警視庁幹部のH警部。大和証券の幹部宛てに書かれたものだった。「H」というめずらしい姓だったこともあり、目に止まったというが、木目田は直観で「何かある」と感じたという。

「手紙を読むと、ずいぶん、恩着せがましい内容だったので、これは、おかしいと不審に思った。H警部からのクレームのような文面で、大和証券が、日頃からH警部にかなり世話になっていることが読み取れた」

大和証券は会社に近づく筋の悪い連中に困惑すると、警視庁幹部のH警部を頼り、H警部はそうした勢力を排除するために協力しているようだった。木目田は双方の間に、何か密接なつながり、深い癒着があるのではないかと疑った。
そこで、大和証券幹部にH警部との関係を追及するため、総会屋事件に関してすでに彼らが逮捕、勾留されている東京拘置所で、先輩の稲川検事(35期)とともに取り調べを開始した。

大和証券役員らは手紙について「H警部から知り合いを大和証券に採用するよう要求されたが、うまくいかず、これに対する不満として送り付けてきたものだ」と説明した。

H警部は知人から「大和証券への就職のあっせん」を頼まれ、同社に働きかけたところ、いい返事が得られなかったという。つまり「ブツ読み」から見つかった手紙は、知人の採用を断られて憤慨したH警部が、大和証券幹部に圧力をかけるために郵送したものだったのだ。
それにしても、こうしたH警部の高圧的な行為を見ると、H警部がそれまで大和証券に対して、相当な便宜を図っている可能性が濃厚だった。

「手紙に記された差出人の警視庁警部の『H』という名前を手がかりに、同じ名前が大和証券の「接待伝票」にないかどうかも調べた。そうしたら、かろうじて数枚の接待伝票に『H』という同じ名前が使われていた。また不思議なことに『H』に似たような名前も偽名として使われていた。たしか、『H』の名刺も大和証券からの押収品から見つかっていたと思う」(当時の主任検事 井内顕策)

本来、警視庁の警部が証券会社から接待を受ける正当な理由はない。そのため、大和証券も用心していたとみられ、多くの接待伝票には「H」の名前ではなく、偽名が記載されていた。ただ、何枚かに記載されていた「H」本名の接待伝票が、飲食接待の場所や時期、回数、金額などの特定につながったのだ。

のちに最終的に認定されたワイロの額は、1993年から1997年までに、大和証券側が同席した接待が26回で「約114万」。一方、同社関係者が同席せずに、H警部が自分だけで飲食していたケース、つまり、「領収証」と引き換えに、受け取っていた現金が「286万円」に上った。

「捜査情報漏えい」と「接待」

稲川や木目田らは、大和証券役員らを追及した結果、H警部が大和証券側のために尽くしていた最大の便宜供与は、「捜査情報の漏えい」であることを突き止めた。
H警部は数々の事件を手掛けて「警視総監賞」をたびたび受賞するなど、極めて有能な警察官として、勤務ぶりも高く評価されていたという。
そんな汚職捜査のプロの警視庁のエース幹部が、捜査対象の企業に「捜査情報」を漏らしていたというのは、警察組織全体を揺るがす前代未聞の不祥事だった。

検察側の冒頭陳述などによると、きっかけはH警部が1993年、大和証券国立支店を舞台にした巨額詐欺事件の捜査を担当したことからはじまる。
概要は大和証券元国立支店長らが高利保証を誘い文句に、顧客から集めた株券など「約336億円」相当をだましとったというものだ。

実は「総会屋」小池隆一が、大和証券を揺さぶるためのネタ、追及材料にしたのがこの不祥事だったのである。小池はかなり早い段階で、この情報をつかみ、大和証券の株主総会で追及する構えを見せていた。
これに対して、同社は株主総会で小池から追及されることを恐れ、ゴルフ会員権の売買などを利用して、小池側に「約2億円」の利益を提供していた。

大和証券はこの詐欺事件で、当時の国立支店長ら4人が警視庁に逮捕されたが、H警部はまさに、この事件の主役である元国立支店長の取り調べにあたっていたのだ。
当時、警視庁捜査二課の係長だったH警部は、1993年3月上旬に同社を訪問、当時まだ捜査が本格化する前の段階で、大和証券側に「捜査情報」をこう伝えたという。

「実は捜査二課としても以前からこの事件を内偵捜査中なんです。少なくとも1人は逮捕者が出ますよ」

大和証券はH警部から上記の捜査情報を入手し、社内の逮捕者を最小限にとどめてもらうよう、H警部に働きかけた。依頼を受けたH警部は「できるだけのことはする」と約束。
翌月になると、事件の概要を示すチャート図を見せたり、容疑者の逮捕時期、家宅捜索の場所を教えたり、警視庁本庁の取調室に大和証券担当者を呼んで、同社社員の供述調書のコピーを渡すなどの便宜を図っていた。

大和証券からH警部への多額の現金や接待は、時効にかかっていない分だけでも、H警部が捜査二課に所属していた1992年4月から6年間にも及んでいる。H警部は大和証券側から「飲み代くらいは面倒見ますよ」と言われ、飲食店の領収証と引き換えに、現金を受け取ることもあった。これについて特捜部は悪質な「付け回し」と認定、また金額が記載されていない白紙の領収証で請求していたこともあったという。

さらに要求はエスカレートした。
「女房や子供をグアムにでも連れて行こうと思っている」と持ち掛け、大和証券から「50万円相当」の旅行券を受け取っていた。しかし、H警部は行き先を変更し、グアムの旅行券を換金して、ハワイに旅行していたことも判明。H警部は取り調べに対しこう供述した。

「ハワイ旅行で大和証券との関係に歯止めがきかなくなった」

その供述通り、ハワイ旅行のあとに現金280万円を受け取るなど、ハワイ旅行が一つの契機となり、接待やワイロが常態化していったのだ。(検察側冒頭陳述など)

また大和証券国立支店事件のあとも、同社からの要望に応じて、総会屋や右翼の名簿の提供や、同社が絡む事件関係者やトラブルになった顧客の犯罪歴の照会などにも応じていた。
また新たに、大和証券沼津支店を舞台にした詐欺未遂疑惑が発覚した際には、警視庁の上司にこう進言し、裏付け捜査を中止させていた。

「未遂なので実害もなく、裏付け捜査をしなくても全体の捜査には支障がないのでは」

H警部が捜査情報の見返りに、受け取っていたワイロはあわせて「約400万円」に上った。
このうち現金は「280万円」だったが、あろうことか、H警部は現金の一部を1994年3月、当時勤務していた「愛宕警察署」の署内で、堂々と受け取っていたこともわかった。(検察側冒頭陳述など)

当時の検察幹部はこう振り返る。

「総会屋事件が、H警部の情報漏えい、汚職事件につながったのは、そもそも大和証券が総会屋の小池から、国立支店長の詐欺事件をネタに脅されたことがきっかけ。
大和証券としては、小池から詐欺事件を株主総会で追及されることに怯えた。そのため、何としても、事件の拡大を食い止め、会社のイメージダウンを最小限に抑えるための対応策として、H警部から捜査情報を入手することが必要だった。つまり、小池からの情報がH警部への接待攻勢、ワイロの引き金になった」

H警部の手紙は、「接待やワイロと同じように、就職の依頼くらいは聞いてくれて当然」という癒着関係をよく示すものだった。
木目田が押収品の「ブツ読み」から見つけた一通の手紙が突破口となり、警視庁幹部の汚職事件をあぶり出したのである。

警察に花をもたせる

この事件で、特捜部長の熊﨑が最も頭を悩ませたのは、警視庁への対応だった。
事件の端緒は、そもそも特捜部がつかみ、大和証券幹部を自供させた上で全容を解明した。ほぼ有罪が見込まれるだけの証拠もそろっていた。当然、収賄側(H警部)、贈賄側(大和証券幹部)いずれの身柄も東京地検特捜部が逮捕して調べるのが筋だった。とは言え、収賄側が現職の警視庁幹部というデリケートな事情があり、警視庁としては身内の不祥事であり、自らの組織で処理したいとのメンツもある。

そこで、特捜部長の熊﨑は水面下で警察庁幹部のSさんと会って、捜査の割り振り、方針について、相談した。そして相談した結果を、特捜部副部長の山本修三(28期)にこう伝えた。

「収賄側のH警部の身柄は警視庁に任せることになった。特捜部は贈賄側の大和証券幹部の身柄だけを持つことになった。これなら、警視庁に花を持たせることができるやろ」

つまり、汚職事件の「収賄側」と「贈賄側」の容疑者の身柄を、それぞれ別々の捜査機関で逮捕するという異例の捜査手続きだった。これなら、警視庁は最初から捜査に関わっていたという体裁を保つことができる上、世間にも検察と警察の「合同捜査」との印象を与えることができた。実際は総会屋事件の「ブツ読み」をきっかけに自白まで特捜部が完結させた事件だったが、熊﨑は、警視庁の立場を汲み取った上で、H警部の身柄を警視庁に持たせることで花を持たせたのであった。

特捜部副部長だった山本修三(28期)はこう記憶している。

「MOF担から大蔵官僚への接待汚職に捜査を集中しているなかで、他の事件をやるつもりはまったくなかった。余裕もなかった。しかし、大和証券から警視庁幹部への接待の証拠が出た以上、どうするかっていう話になった。全く無視するわけにいかない。そこで、熊さんが、付き合いのある警察庁幹部のSさんに内々で相談した。私もSさんとの話し合いに何回か立ち会ったが、SさんはH警部が警視庁捜査二課時代の上司でもあった。こっち(特捜部)で全部やってもいいんだけど、どうしましょうかと。そしたらSさんが『とにかくH警部の身柄だけは警視庁で持たせてください』と頭を下げてきた。それでH警部の身柄は警視庁が逮捕して、取り調べは警察と検察で柔軟にやりながら、起訴状はわたしが主任検事として署名押印した」

1998年1月17日、報道各社は夕方のトップニュースで警官汚職を伝えた。

「警視庁と東京地検特捜部は、大和証券の詐欺事件の捜査情報の漏えいをめぐる汚職事件で収賄側の警視庁幹部と贈賄側の大和証券幹部を逮捕しました。警視庁と東京地検特捜部によりますと…」

筆者らは、熊﨑や山本が警察当局と相談した上で、H警部の身柄を警視庁に任せたことから、ニュースのクレジットは「警視庁」と「東京地検特捜部」というダブルネームで報じたのであった。
(のちに警視庁幹部は懲役2年、大和証券幹部は1年4か月の執行猶予付き有罪判決が確定)

しかし、熊﨑や山本のこうした配慮に水をさすような出来事が起きる。
逮捕から4日後の1月17日、H警部が警視庁施設で取調中、トイレで「カッターナイフ」を使って手首を切り、自殺未遂を図ったのである。
H警部は書籍や筆記用具、ファイルなどの私物を段ボール箱に詰めて取調室に移していたが、「カッターナイフ」はファイルに偶然挟まっていたとみられ、H警部はこれを取り出して、ズボンに隠し持ってトイレに持ち込んでいたという。

警視庁は所持品の管理に手落ちがあったことを認め、トイレでも腰縄や手錠を外すなどミスを重ねていた。
これを受けて国家公安委員会と警察庁、警視庁は1998年2月、H警部の汚職事件の監督責任と自殺未遂の問題に関して、警視庁幹部ら約20人の処分を発表した。H警部の上司だった警察庁幹部のSさんも減給処分を受けたのである。

ある所轄の警察署での思い出

木目田にも警察との関係で思い出すことがあった。新任で東京地検に配属され、いくつかの部を経験するなかで、刑事部にいたときだった。部長が高野利雄(20期)、副部長に神垣清水(25期)、吉田一彦(25期)という精鋭の特捜検事が揃っていた。

「上司は怖かったが、ああいう環境だったからこそ、鍛えられたと思う。当時は『十分な客観証拠があるので、起訴できます』と報告を上げると、「若いやつが何を言っている。自白をとってこい」と突き返されることもあった。そういうときは、週末も所轄の警察署に通い、容疑者の取り調べにコツコツ励んだ」(木目田)

こんなことがあった。東京・板橋区で少女ばかりを狙った連続わいせつ事件があった。その中で、男が道路を歩いていた6歳の少女の腕をつかみ、強制わいせつの嫌疑で逮捕された。木目田は、ほぼ連日、週末も男に向き合って取り調べたが、なかなか自白が得られなかった。すると勾留期限満期が迫った2日前、逮捕から19日目、警察署から電話があり、「男がしゃべると言ってるから来てください」と連絡があった。それでようやく、自白を引き出したことがあった。男は、未解決だった他の複数のわいせつ事件も自白した。実は木目田の誠意が男に伝わっていたのである。

ところが、木目田がこれを先輩検事に報告したところ、返事はこうだった。

「検事が偉そうに出て行くな。こういうときは所轄の警察署に花を持たせるもんだ」

警察の地道な証拠収集があったからこそ、男は自白した。自分の力ではない。木目田は先輩検事の言った通り、所轄の警察官に電話をかけて「男からの自白調書は、所轄の方でとってもらって構いません」と、取り調べのやりとりをそっくり引き継いで、警察に最初の自白をとってもらったのであった。

木目田は大和証券の事件が終結すると、「大蔵省接待汚職」の捜査に加わった。その後、1998年6月からアメリカのロースクールに客員研究員として派遣される。いったん特捜部から総務部に異動し、英語を勉強したあとに渡米することになっていたのだが、異動は取りやめとなった。特捜部の2年目は「特殊直告2班」から「特殊直告1班」に移って、出国の直前まで特捜部に在籍した。特捜部で事件を抱えていたからだ。

「アメリカの航空会社で成田を出発して、機内で英語でCAから話しかけられても、ほとんど理解できず、英語の勉強を怠ったことに暗澹たる思いだった」

本筋の総会屋への利益供与、大蔵接待汚職ではなく、突然浮上したのが現職の警視庁幹部の汚職事件だった。特捜部は当時、4大証券、第一勧銀事件から派生した大蔵省官僚について複数の「接待ルート」の捜査班が併行して捜査を進め、大蔵省接待汚職の摘発に向けて大詰めを迎えていた。連日、参考人、容疑者の取り調べが深夜まで続き、特捜部の検事も事務官も逼迫した状況だった。

こうした状況を勘案すれば、警視庁幹部の汚職に、あえて着手する事件かどうか、判断の余地があったことは確かだった。しかし、検事正の石川も特捜部長の熊﨑も「目の前に証拠がある」にもかかわらず、立件を見送って特捜現場の士気を下げるようなタイプの指揮官ではなかった。
ある元特捜検事は当時を振り返り、「あの警視庁幹部の汚職事件は、石川-熊﨑のラインでなければ立件しなかったかもしれない」と語った。

1998年12月、H警部の判決公判で東京地裁の植村立郎裁判長はこう述べた。

「当初は、大和証券から持ち掛けられたとは言え、次第に接待やつけ回し、わいろを積極的に要求するようになった。同僚や部下も接待の場に巻き込み、警察大学校の寮にまで現金を郵送させたほか、職場で受け取るなど、贈収賄事件の発覚が少ない最近においても、一段と悪質な犯行だ」

そして「実刑なので、社会人として再スタートするには困難がつきまとうが、これまでの行いと自覚して、別の形で貢献できるようにしてください」と諭されると、H警部は記者席にもわずかに聞こえる小さな声で「はい」と答えたのであった。

(つづく)

TBSテレビ情報制作局兼報道局
「THE TIME,」プロデューサー
岩花 光

◼参考文献
井内顯策「愚直な検事魂」人間社、 2020年
尾島正洋「総会屋とバブル」文春新書、2019年
司法大観「法務省の部」法曹会、1996年版
「朝日新聞」「毎日新聞」「読売新聞」「東京新聞」「産経新聞」各紙参照

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