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アウシュビッツ強制収容所 解放から80年 生存者が語る迫害の歴史と、繰り返さないために必要な事とは

TBS NEWS DIG Powered by JNN / 2025年2月2日 7時0分

TBS NEWS DIG

2025年1月27日、アウシュビッツ強制収容所が解放されて80年を迎えた。
アウシュビッツでは110万人が殺害されたといわれている。1945年にソ連軍によって解放された時、収容所内には餓死寸前の収容者およそ7000人が残っていた。その中には、およそ400人の子どもも含まれていた。子どもながらにアウシュビッツを生き抜いた、一人の女性に話を聞くことができた。

現在92歳になるエヴァ・シェペシさんは、土曜日の昼下がりに自宅を訪ねた我々取材班を朗らかな笑顔で迎え入れてくれた。

空気をも変えた「反ユダヤ法」

エヴァさんは1932年、ハンガリー・ブダペスト郊外のユダヤ人家庭で生まれた。
当時ドイツでは反ユダヤ主義が高まりを見せており、エヴァさんが生まれた翌年にはナチスが政権を掌握するに至った。エヴァさんが暮らすハンガリーでも当時の政権がナチス寄りの政策を取り、1938年以降反ユダヤ主義的な法律を複数成立させるなど、次第にユダヤ人への抑圧が強まっていった。旅行や職業選択の自由の制限、電話やラジオの所有禁止、特定の食料品の配給から排除…。日常の中の小さな事がひとつ、またひとつと制限されていった。さらに、反ユダヤ法の制定は市民の空気さえも変化させたという。

エヴァ・シェペシさん
人種差別法が施行された1938年、突然のことでした。それまで一番仲がよかった男の子が突然私のことを無視しはじめ、仲間はずれにされました。
ある日 彼らは血まみれの肉をポンプの水で洗いながら笑っていました。そして私を見つけてこう言ったのです。

『エヴァ こっちに来いよ!お前にもかけてやる!臭いユダヤ人め!』
『もうすぐしたら お前の父親からもこの肉みたいに血が流れるさ』

とてもショックでした。どうしてこんなことが?と。仲良しの友達だったのに。
私は泣きながら家に戻り父のところに行きました。父は私が悲しそうにしているのに気がつき、私を抱きしめました。私は男の子たちが言ったことを父に話しました。すると父はこう言いました。

『娘よ 辛いのはよくわかる友達がそんなことをするなんて』
『でも彼らは何を言っているのか自分でもわかっていない。誰かにそそのかされただけだよ』
『だから彼らに罪はない。何を言っているのか わかっていないのさ』

ドイツは占領した国々でユダヤ人を移送し、虐殺していた。ハンガリー政府は当時それに加担していなかった。しかし1944年3月、ドイツがハンガリーに侵攻すると状況は急速に変化する。当時ハンガリーに住んでいた70万人のユダヤ人のうち、43万人がわずか3か月の間にアウシュヴィッツ・ビルケナウに移送された。

家族との別れ

エヴァさんは叔母とともに、親戚が住んでいたスロバキアに避難することになった。父親は1942年に勤労動員されており、ハンガリーには母親と弟が残った。母親と離れるのは寂しかったが、「弟を連れて後から行く」という母の言葉を信じて、叔母とスロバキアに向かうことにした。駅のホームで、母親はエヴァさんを息が出来ないほど強く抱きしめた。

エヴァ・シェペシさん
母は目に涙を浮かべていました。
私も母を抱きしめて「後から来るのにどうしてそんなに悲しいのだろう?」と思いました。でも母は何かを感じたのでしょう。

母と弟を見たのはそれが最後です。

スロバキアには幼いころ毎年旅行で行っていた。祖父母の住む自然豊かな村を気に入っていた。しかし当時11歳だったエヴァさんも、国境を超える頃には「これは休暇ではない、逃げているんだ」と感じ取っていた。支援者の力を借りて、11時間森の中を歩いた。

スロバキアでは、エヴァさんはユダヤ人家族に預けられた。叔母は「連絡する」と言い残してエヴァさんのもとを去っていった。しかし、叔母からも母からも、連絡が来ることはなかった。
そのうちにかくまってくれた家族も避難することになり、ある双子の老姉妹のもとに預けられた。生活にも少しずつ慣れてきた頃だった。

エヴァ・シェペシさん
ある晩ベッドに入っていると、大きな怒鳴り声とドアを叩く音が聞こえました。
姉妹の一人がやってきて言いました。

『すぐ服をきて荷物をまとめなさい。他の人たちと一緒に行かなくてはなりません』

私は行きたくありませんでした。もうどこにも行きたくありませんでしたが、受け入れるしかありませんでした。

お気に入りの人形をベッドに置き忘れてきたことに気づいたが、取りに戻ることはできなかった。エヴァさんたちはバスに乗せられ、高齢者施設に連れていかれた。

ドイツ軍は当時、高齢者施設やシナゴーグなどにユダヤ人を一旦集めた後、まとめて収容所へと移送していた。エヴァさんたちが連れていかれた施設からも毎日のように移送が行われていた。3日後、一緒に暮らしていた老姉妹に順番が回ってきた。別れ際、エヴァさんは彼女らに駆け寄ったが、一緒に行くことは許されなかった。

高齢者施設で12歳の誕生日を迎えた。名前を呼ばれ、ついにエヴァさんにも移送の順番が回ってきた。家畜を運ぶための車両で別の施設へと運ばれたあと、列車に詰め込まれた。空腹と息苦しさが不安な気持ちを膨らませていった。

アウシュビッツ・ビルケナウ強制収容所

1944年11月。列車の扉が開くと、一面が雪で覆われていた。

エヴァ・シェペシさん
すごい雪以外、目に入りませんでした。
暗くて、大きな怒鳴り声がして、寒かった。とても寒かったです。
みんな怒鳴り散らしていました。それが私には衝撃でした。

ホームに降ろされると、バラックへと追い立てられた。

この日は選別は行われなかった。選別が行われ、労働力にならないとみなされた場合、連れていかれるのはバラックではない。実はエヴァさんの母親と弟はこの4か月前、ここで選別され、ガス室へと送られていた。もちろん、当時のエヴァさんはそのことを知る由もなかった。

エヴァ・シェペシさん
バラックで服を全部脱いで裸にならなければなりませんでした。でも私はそのままそこに突っ立っていました。
その日私は母の手編みの青いジャケットを着ていました。それを脱ぎたくなかったので、そこにただ立っていました。
すると見張り役の女がやって来て「すぐに脱げ!」と私を怒鳴りつけました。
私はジャケットを脱いできちんと畳んで横に置きました。すると見張り役の女が
そのジャケットを蹴り飛ばしたんです。
その時、ここでは言われたことを聞かなくてはならないのだと感じました。

消毒室に連れていかれた後、縞の上下と木靴を渡された。衣類はそれだけで、靴下も下着もなかった。
この頃エヴァさんは髪を編んでおさげにしていた。次の部屋ではそれも切られた。切られたおさげが投げ入れられた先には、誰のものとも知れない髪が山のように積みあがっていた。残りの髪も全て切られ、丸刈りにされた。自分を守っていた最後のものを奪われたような気がしたという。

収容所では、些細なことが生死を分けた。
登録のため並んでいると、女性の監視役がスロバキア語で話しかけてきた。

「あんたは16歳。若いフリをしたらダメだよ」

男に名前を聞かれた後、年齢を聞かれた。私は12歳。でも…。
言い淀んでいると「年齢は!?」と怒鳴られたので、反射的に「16歳」と答えた。

男はそのまま記入していた。
年齢は選別の基準になっていた。幼かったり高齢だったりすると、殺される可能性が高かったのだという。

収容者は左腕に刺青で番号を入れられた。エヴァさんの左腕にもまだ番号が残っている。残っていることは辛くありませんか?と尋ねると、エヴァさんはこう答えた。

エヴァ・シェペシさん
もうすっかり慣れてしまいました。これは私の一部です。消すつもりはないかとよく尋ねられますが、そんなことを考えたことはありません。
わざわざ見なくてもそこにあるのはわかります。もしなくなったとしても、刺青があったことを私は知っています。番号を覚えています。
これがアウシュヴィッツなのです。私が生きている限り存在しているのです。

空腹、衰弱、解放

収容所では、毎朝4時半から5時には起こされた。
点呼は朝と晩の2回。しかし、名前も番号も呼ばれない。人数を数えるだけだ。人数が足りなければ、見つかるまで立たされ続けた。逃げたのか、バラックに残っていたのか、立ち上がることができなかったのか。死んでいたとしても、人数さえ揃っていればよかった。

食事はパンとマーガリン。スープが出る日は、濃いスープが出てくるのを祈った。しかし水のようなスープの日もあれば、腐ったジャガイモの皮が入っていることもあった。

収容者の中にドイツ軍に娘を殺されたステラという女性がいた。エヴァさんに自分の娘を重ねたのかいつも気にかけてくれ、時折パンを分けてくれた。

エヴァ・シェペシさん
今も思い出します。いつもお腹が空いていました。
だから最後も、気を失って横たわっていました。お腹が空いていたし力もなくて、私はもう動くことができませんでした。
誰かが私に雪を食べさせました。私は高熱を出していたんです。

ソ連軍が迫る中、ドイツ軍はガス室を爆破し、歩ける収容者を連れて撤退した。収容者は飢えと寒さの中行進させられ、脱落すると射殺された。6万人が連れだされ、その4分の1が亡くなった。「死の行進」と言われている。

エヴァ・シェペシさん
「急げ!外に出ろ!」という怒鳴り声をよく覚えています。
ドイツ人は力なく横たわっている私を見て「こいつはもう死んでいる」と思ったのでしょう。私の隣で横たわっている人たちは死んでいました。私は遺体と一緒に横たわっていたのです。

しばらくして目を開くと、ソ連兵が身を屈めて微笑みかけていました。赤い星がついた美しい毛皮の帽子をかぶっていたのを覚えています。

ステラは死の行進に連れていかれた。エヴァさんは彼女の手を握っていたがステラはその手を振りほどき、最後にエヴァさんの手を撫でていった。

もう話すことのできない人のため 語り継ぐ

エヴァさんは長い間、自身の経験を話すことはしていなかった。
初めて人前で話したのは1995年のことだった。解放50周年の式典に招待され、経験を話してほしいと頼まれた。はじめは気が進まなかったが、言葉が湧くように次々と出てきたという。

エヴァ・シェペシさん
(話すことは)私の人生の使命です。
私はもう話すことができない人のために話しています。私の家族や他の罪もない人たちのために。若者たちには いつもこう話しています。
もし不正を知ったらそれに立ち向かい、沈黙していてはいけない。
誰かが除け者にされるのを許してはいけない。
そして正しい情報を得るようにと。
民主主義を守り続けるためには一人一人の行動が必要なんです。

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