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「死んでもいいから生きたい」 走る私が抱えた究極のエゴ、その発端は享年24歳の偉人ランナー【田中希実の考えごと】

THE ANSWER / 2024年6月26日 11時3分

5月のセイコーGGPに出場した田中希実、「生きることとはなんなのか」に思考を巡らせた【写真:奥井隆史】

■本人執筆の連載「田中希実の考えごと」、第5回「オリンピアンとして考えたこと(前編)」

 陸上女子中長距離の田中希実(New Balance)は複数種目で日本記録を持つトップランナーである一方、スポーツ界屈指の読書家としても知られる。達観した思考も魅力的な24歳の彼女は今、何を想い、勝負の世界を生きているのか。「THE ANSWER」では、陸上の話はもちろん、日常の出来事や感性を自らの筆で綴る特別コラム「田中希実の考えごと」を配信する。

 長年の日記によって培われた文章力を駆使する不定期連載。第5回は「オリンピアンとして考えたこと(前編)」をしたためた。5月に5000mの参加標準記録を突破し、パリ五輪の出場権を獲得。2021年東京五輪に続きオリンピアンになる。この3年で苦しみ、「因縁」が生まれた場所が米オレゴン州ユージーン。1975年に24歳でこの世を去った偉人ランナー「プリ」に思いを馳せ、「生きることとはなんなのか」に思考を巡らせた。本人がその脳内を前後編にわたってつづる。

 ◇ ◇ ◇

 私はどうやら、どうにか、パリ五輪に出場できるようになったようだ。

 日本陸連のルールとして、昨年8月のブダペスト世界陸上で入賞している選手は、すでに記録を持っていたとしても、2023年の11月以降にもう一度標準記録を切らなければ、2024年6月の日本選手権を待たずして、パリ五輪の即時内定を得られない。

 日本選手権までに内定を得られる可能性があるという点ではアドバンテージであるはずなのだが、11月から翌年初夏にかけて記録をもう一度作り直すことは難しい。ただ、選手としては死に物狂いになってでも、早く決めて心身ともにゆったりと準備がしたいものである。

 そして、今年5月、ダイヤモンドリーグでもある米国開催のプリフォンテーン・クラシックで昨秋以来の5000m参加標準記録突破を遂げ、ようようのていでパリ五輪の権利を得ることができたという次第である。

 それで、やあよかったと手放しで喜んでそれまでの苦しみを水に流せるのなら世話はない。しつこい私は、まず因縁のプリフォンテーン・クラシックにまつわる思い出を洗いざらいぶちまけないと、気が済まない。

 因縁の、というのも、私は2022年7月、オレゴン世界陸上で3種目に挑戦し打ちのめされた訳だが(以前のコラム参照)、その2か月前の5月、世界陸上と同じユージーンの陸上競技場で行われたプリフォンテーン・クラシックで、すでに打ちのめされていたのだ。

 プリフォンテーンというのは人の名前で、ナイキが最初に契約した陸上選手である。当時アマチュアリズムが隆盛を誇る中現れたプリフォンテーン(愛称プリ。以降プリ)はかなり尖った選手だったが、走ることのみで自己を表現し、人々を惹きつけた。結果的に彼の生き方は、ランナーの地位確立に大きく貢献した。

 生き方だけでなく、その最期も、母校オレゴン大で行われた大会で優勝した晩、飲酒運転によって大岩に激突し命を散らしたというのがまた奮っている。いまだに陸上ファンには愛されてやまない、カリスマ的存在である。彼が亡くなった場所は、記念碑と、日々ファンから捧げられる沢山の供物と共に、「プリズロック」として残されている。

 私も2022年5月に初めて打ちのめされた後は、足を引きずりながら坂を登り、急カーブの先にある大岩に辿り着くなり、泣きじゃくった。プリ、私はあなたのように速くなりたい、強くなりたい!


ユージーンにあるプリフォンテーンの記念碑、世界中のランナーから供物が捧げられている【写真:本人提供】

■「生きてさえいればなんだってできる」 前向きな言葉を受け付けないくらい、私は参っていた

 この情緒を説明するには、まず大会前に調子が調わなかったということまで遡らないといけない。なんだそんなことか、と思われるかもしれないが、東京五輪のタイムを引っさげてダイヤモンドリーグという世界最高峰の陸上大会シリーズに、こともあろうに1500mでエントリーできたのである。

 にも関わらず、東京五輪同等のメンバーの中で戦うには、調子はあまりにも間に合っていなかった。タイムも順位も、1年前には対等に戦えていた選手たちにこてんぱんにやられることが、怖かったのかもしれない。あるいはそれによって自分自身さらに落ち込んでしまうこと、そのトラウマをオレゴン世界陸上まで引きずってしまうことが怖かったのかもしれない。

 なにしろ同じ競技場で開催されるのである。あるいは、初めて出場するダイヤモンドリーグがこんなことでは、招待してくれた大会側を失望させ、斡旋してくれたエージェントの顔を潰し、もうお呼びはかからないかもしれないということが怖かったのかもしれない。

 何もかもが怖くて練習中グズグズしていた時、父から、お前は生きているんだから、何があっても次に向けて挑戦することができるんだからと言われた。

 しかし、明日があるさ。生きてさえいればなんだってできる。みんながついてる、人間一人じゃ生きていけないよ。ありのままの自分を大事にね。といった色んな人がかけてくれる前向きな言葉を何も受け付けないくらい、私はほとほと参っていた。

 生きているからこそ悩むのだから、思い切りこうしてグズグズすること、そして他者を不快にさせ迷惑をかけることも私が生きていることそのものなのだから、好きにさせてくれ、という心境だった。そんなに苦しむのなら走らなければいいとも言われたが、それでも尚走ろうとすることが、私にとってせめてもの運命への反抗だったし、生きているということだった。

 父の言葉尻に、日本を留守にしている間、誰か大切な知り合いに不幸があったのだ、それを父は伏せているのだ、ということも感じられ、誰だ、誰なんだ!?と失いたくないあらゆる人の顔をさらった。こんなことならもう、私にも明日はあってほしくないと思った。

 夕食でアジアンビュッフェレストランに行くと、アメリカならではのフォーチュンクッキーが出てきた。恐る恐る開けてみると、“There is so much more to come”と書かれた紙が出てきた。

 訳してみると、「本番はこれからさ」という、いかにもアメリカチックな前向きな励まし文句だったが、私は戦慄した。本番…? こんなにも苦しいのに、これ以上どんな災厄が来ると言うのだろう!? おまけに“so much”と来たもんだ! もう沢山だと言うのに。

 満身創痍で向かったレースは最下位で、シーズンベストさえ出せなかった。自分より格上の胸を借り、タイムを出しやすいダイヤモンドリーグでである!

 それでプリに泣きつきに行ったという訳だが、やっぱり本番はこれで終わらなかった。


プリフォンテーン・クラシックの大会モニュメントの横で記念撮影した田中【写真:本人提供】

■レース前日に高熱でも走りたい「死んでもいいから生きたい。そんな心境だった」

 また言うのかと思われるかもしれないが、2022年の7月はオレゴン世界陸上で3種目、どこに向かっているかが分からなくなりながらも、走りたいので走るしかない苦しみの日々があった。その日々をやり過ごした直後、私はしょうこりもなくまた泣きながらプリに挨拶に行った。

 2023年のプリフォンテーン・クラシックはダイヤモンドリーグファイナルだったため9月に開催されたが、8月のブダペスト世界陸上を経て、2022年の怒りも悲しみも、全て受け入れ、許すことができたと思っていた。明日があるさ。生きてさえいればなんだってできる。人間一人じゃ生きていけないよ。ありのままの自分を大事にね。どこかで聞いたような言葉が、すんなりと私の中に入り、私の口から出ていくようになった。

 しかし、どんなに記録を作っても、結果を出しても、満たされない何かがあった。2022年は結果と過程についてひたすら考えていたが、2023年は、他者と自分について考え続けていた。私が陸上に取り組みながら苦しみ回ることで、むしろ身近な人が辛い思いをする。どこかで思い切り何かに取り組むこともできずに苦しんでいる多くの人々がいる。

 そんな中、私は走っていて良いのだろうか。私はなんのために走るのだろうか。ありのままの自分を表現するといっても、そもそもありのままの自分とは?

 その空虚な気持ちとは裏腹に、2022年とはかけ離れた好調でユージーンに凱旋した訳だが、レース前日に高熱が出た。まさに災厄so muchである。帰国後インフルエンザだったと分かったのだが、当時は世界中飛び回った挙句の原因不明の熱に、本当にレースを走ったら死ぬかもしれないと思った。

 プリは24歳で死んだ訳だし、私も24になったばかりだしともすれば…と熱で浮かれた頭は謎の理論まで弾き出していた。それでも、走りたいと思った。それでどれだけ人に迷惑をかけても、どんなに散々な結果でも、なんでもいいから走りたいと思った。死んでもいいから生きたい。そんな心境だった。やっとこの地に戻ってこられたのだ。

 レース当日は熱も落ち着き、そんな究極のエゴと共に走り抜くと、思いの外好タイムで終えることができた。生きていてよかったと思った。その大会の後は、初めて父も伴ってプリに会いにいった。

 先日、五輪の権利を得たプリフォンテーン・クラシックでは、とうとう初めてプリズロックを訪れなかったが、ユージーンのどこにいても、彼の視線や息吹を感じるようだった。これは、彼を慕ってやってくる全ての人が感じているものだろうと思う。

 しかし、それとともになんとも言えない哀愁がユージーン全体を覆っているように思うのは、どんなに見回してもやっぱり彼自身はそこにおらず、町も、人も、ここ50年というもの彼の残像を追い続けているに過ぎないからだろう。彼を失ったことを、この町はいまだに信じられていないようだ。

 彼の遺したプロ意識とはなんなのか、アスリートとは、人とは、生きることとはなんなのか。

 so muchな日々を綴り、とっくに読者の皆さんもso muchに感じているとは思うが、この後ますます暗く、重く、観念的な部分まで掘り下げていくので、ご用心…。

(第6回「オリンピアンとして考えたこと(後編)」は27日掲載)

○…5000mでパリ五輪代表に内定している田中は、27日開幕の日本選手権(新潟・デンカビッグスワンスタジアム)で同種目と800m、1500mの3種目にエントリーした。1500mは参加標準記録4分02秒50を突破し、優勝すれば代表に即時内定。優勝なら1500mは5連覇、5000mは3連覇で3年連続2冠となる。(田中希実 / Nozomi Tanaka)

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