練習量5倍の日本式指導に反発 「ぬるま湯」柔道エジプト代表を変えた日本人の覚悟 魚市場の仲卸から転身

エジプト代表の選手を指導する泉浩監督（右）。異国の地で礼節の大切さも伝えている【写真：門田優吾コーチ提供】

■妻は女優の末永遥、アテネ五輪銀・泉浩に突然訪れた人生の転機

　200を超える国・地域の代表が参加する五輪は、海外のチームを率いる日本人指導者にも注目が集まる。パリ五輪の柔道エジプト代表監督を務めるのは、2004年アテネ五輪男子90キロ級銀メダルの泉浩氏だ。1月に就任するや練習量を5倍に増やすなど、徹底的に鍛え上げてきた。「ぬるま湯にどっぷり」だった代表は、「戦う集団」に変貌。6歳長男と1歳長女を日本に残して異国で奮闘する新監督に、決戦直前の思いを聞いた。（取材・文＝水沼 一夫）

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　パリ五輪に男子2人の選手を率いて臨む泉監督は、「まず1つに、本当に多くの試合をしたいと思っていますし、やってきたことは間違いじゃないというのを1試合1試合、体現して勝ち進んでいければと思っています。その先にメダルがあったら」と抱負を語った。

　日本から遠く離れたアフリカ大陸の国から、監督就任の打診があったのは昨年10月だった。

「少ない期間ですけども、全力で悩みました。行こうか、行かまいか。ただ、好きなことだったので、いろいろと妻にも相談しながら決めた形ですね」

　妻は女優の末永遥。契約は最低5年で、長期にわたり単身赴任を余儀なくされる。子どもはまだ小さく、胸中は揺れ動いた。それまで数年は、東京・大田市場で魚の仲卸として働き、昼夜逆転の生活を送りながらも、子育てをサポートしていた。妻がワンオペになる大変さも理解していた。

「子どもの成長を近くで見ていたかったというのは、やっぱり大きくありましたね」

　それでも最後は、妻の言葉に背中を押された。

「好きなことだし、こういう機会もないからやってみなよということを言ってくれました」

　エジプトは2005年のカイロ世界選手権で金メダルを獲得した縁起のいい場所。とはいえ、土地勘や人脈はなく、昨年12月の調印式が2回目の訪問だった。

　代表チームはジュニア世代を中心に、男女合わせて20～30人ほど。泉監督は練習を初めて見て、衝撃を受けた。

「柔道に心技体があるとするならば、技と体があって心がなかったというのは感じました」

　特に柔道精神の「礼節」が欠けていると感じた。

　道場の清掃は清掃員に任せて、自分たちではしていなかった。

「オリンピックセンターと言われているところで練習をやっていたので、柔道競技だけじゃなくて、いろんな競技が使ったりもしていましたし、自分たちの使うところは自分たちで掃除をしよう、稽古をやったあとは掃除しようというところからスタートしました」

　練習前後の礼は立礼から座礼に変更。舌打ちをされても、「これ、約束してくれますか」と諭し、意識改革を促してきた。

パリ五輪柔道エジプト代表を率いる泉浩監督（右から2人目）。左端が門田優吾コーチ【写真：門田優吾コーチ提供】

■練習量は5倍に増加「最初は愚痴ばかりでした」

　練習内容も、大きく方向転換した。

　引き継いだ時には練習は午前のみ、約1時間だったのを、午前・午後の2部制とし、4時間半から5時間に増やした。

「だから5倍ですね。乱取りも今まで20分ぐらいしかやっていなかったのを最低1時間していますし、打ち込みも長くしました」

　選手は不満を露わにした。「最初は愚痴ばかりでしたね。1回“終わらない乱取り”をやったんですよ」。厳しい練習をこなし、より強さを求めるファイティングスピリットも欠如していた。

　しかし、徐々に選手たちの意識が変わっていく。

「ナショナルのトップチームで、こんだけやってんだぞっていう自負が生まれたんでしょうね。ぬるま湯にどっぷり漬かっていたと思います」

　指導は精神面を重視。「技がどうこうというより、勝つには気持ちが7割なんだと、口酸っぱく何回も言っています。特別なことをやっているわけではないですね」。五輪のような大舞台は、最後はメンタリティーの強さが勝負を分けることも多い。

「試合になった時に、家族のことをまず思ってやりなさいと伝えています。自分1人じゃなくて、家族や大切にしている人のことを考えて、きつい時はそういうふうに考えてやるのが一番力が出るもんだよという話をしながら、気持ちだよ、気持ちだよと」

　ベースにあるのは、泉監督が中高時代を過ごした講道学舎の教えだ。1964年東京五輪男子無差別級でアントン・ヘーシンク（オランダ）に金メダルを奪われたことを契機に設立された柔道私塾で、古賀稔彦氏や吉田秀彦氏、最近では五輪連覇の大野将平など数多くの金メダリストを輩出している。

　2015年に閉塾し「残念な気持ちが強い」と回顧した泉監督は、「それこそ掃除しろとか礼儀もそう。家族のために戦いなさいとか、学舎の教えが基本だと思っています。間違いなく、そこは揺るぎないです。今の若い世代は、学舎を知らない世代。やっぱり、どこかであったという歴史は持っておきたいですね」。

「日本人指導者の評価を上げたい」と語る泉浩監督。五輪銀メダリストのアドバイスに選手も耳を傾ける【写真：門田優吾コーチ提供】

■ラマダン初体験、夕方6時まで飲まず食わず

　言葉はまだまだ不慣れ。アラビア語どころか、英語もままならない。就任以前は「英語は使わないで生きていくと決めていたぐらい」。最初は翻訳アプリを使っていたが、それもやめ、身振り手振りで指導。代表には天理大柔道部出身で、JICA（国際協力機構）から派遣されているコーチの門田優吾さんがおり、英訳してもらうこともある。監督という立場であっても、「僕は修行です」ときっぱりだ。

　普段の生活はカイロ市内でホテル暮らし。部屋には冷蔵庫が1台あるだけで、ビュッフェスタイルの食事が3食ついている。

　洗礼を浴びたのが、2～3月に行われたラマダンの時期だ。イスラム教徒の選手たちは1か月ほど、午後6時過ぎまで食事どころか、水すら飲まない生活となった。レストランも閉まり、食事が取れなかった泉監督も「自然にラマダンになりました……」。柔道の練習は、午後10時からに切り替え、日付が変わるまで続いた。「このラマダンだけは絶対マストなので、どうしようもできないですよ。本当、彼らは夜の6時ぐらいからじゃないと飯を食わない。体が慣れないのもあるし、そういう大変さはあります」。日中はホテルにこもり、ひたすら語学の勉強に励んだ。

　日本のようにきれいではない畳。1日5回のお祈りの習慣。まるで異なる料理も含め、“エジプト”を吸収する日々。「受け身で入っているので、これが文化なんだ、これがエジプトなんだというふうに認識しています。だから変な話、否定もなければ肯定もない。受け入れるというか、受けるだけ。そんな感覚でいるんですよ」。

　当初、日本から来た指揮官に反発していた選手たちだが、意識は変化した。4月のアフリカ選手権では総合優勝を成し遂げるなど、早くも結果を出した。“アフリカ最強”の称号を手に、「ようやく戦える集団になってきた」と喜んだ一方で、優勝の余韻で緩みが見えるなどショックを受けたこともあった。

　しかし、念願の日本人指導者にエジプトからの期待は高まるばかり。「ラシュワンさんからも、もっとやれと言われています」。地元の英雄で、1984年ロサンゼルス五輪男子無差別級銀メダルのムハンマド・ラシュワン氏からも信頼を得ていることを明かした。

　2028年ロス五輪を大目標に、エジプト柔道界に地殻変動を起こす。国内の人気スポーツはサッカー。柔道の地位は決して高くない。「エジプト人で柔道のヒーローを作りたいと思っています。昔のラシュワンさんのような選手が出てくれば、ヒーローが出てくれば競技人口は必ず増える。強さと技を持っている選手だったら面白いかなって」と拳を握る。

　6月からはパリ五輪代表の2選手を連れ、天理大、東海大で強化合宿を行った。ハラール料理しか食べられない選手のために、キッチンのあるゲストハウスを借りた。

「この2大学は柔道部の人数が多いんですね。エジプトチームは人数が少ないのが欠点。いろんなタイプと練習できる環境はものすごくいいと思ったので、日本の大学にしました」

　自身が何のためにエジプトに導かれたのか。その答えは、まだ見えていない。

「分からないけど、何かの縁があるから、今エジプトにいるんだろうなと思っています。出会うもの全てがそうですし、起きること全てに何かの縁があって、今ここにいて、何かの縁があって、今こういうことがあるんだろうなというふうに思っています」

　支えは家族の応援だ。時間があればテレビ電話をし、子どもの顔に癒やされている。海外の代表監督という重責も、日本人のメダリストとして期待に応えたいという気持ちは強い。

「やってやろうと思ってはいます。僕らが日本人の柔道の指導者のレベルを上げないといけないと思っていますし、評価を上げないといけないと思っています。いい成績を収めることだったり、マナーだったり、そういったものをその国でしっかり教えることができれば、日本人の指導者は違うよねと世界でもっと認められます。日本の価値、日本人の価値に求められているものをしっかりこなしたい。期待してください」

　パリに刻む最初の一歩。日本がメダルラッシュを狙う柔道だが、エジプト代表の戦いぶりからも目が離せない。 （THE ANSWER編集部 / クロスメディアチーム）