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記者が心揺さぶられた五輪連覇 堀米雄斗16歳「別にいいです。五輪は」米国しか頭になかった少年の9年後

THE ANSWER / 2024年7月30日 17時33分

金メダルを獲得した堀米雄斗【写真:ロイター】

■「シン・オリンピックのミカタ」#33 「OGGIのオリンピックの沼にハマって」第6回

 スポーツ文化・育成&総合ニュースサイト「THE ANSWER」はパリ五輪期間中、「シン・オリンピックのミカタ」と題した特集を連日展開。これまでの五輪で好評だった「オリンピックのミカタ」をスケールアップさせ、4年に一度のスポーツの祭典だから五輪を観る人も、もっと楽しみ、もっと学べる“新たな見方”をさまざまな角度から伝えていく。「社会の縮図」とも言われるスポーツの魅力や価値の理解が世の中に広がり、スポーツの未来がより明るくなることを願って――。

 今回は連載「OGGIのオリンピックの沼にハマって」。スポーツ新聞社の記者として昭和・平成・令和と、五輪を含めスポーツを40年追い続けた「OGGI」こと荻島弘一氏が“沼”のように深いオリンピックの魅力を独自の視点で連日発信する。

 ◇ ◇ ◇

「好きな選手はいますか?」の質問に、16歳の堀米雄斗は「ナイジャ(ヒューストン)」と答えた。スケートボードが東京五輪の追加種目候補になった15年、日本ローラースポーツ連盟(現ワールドスケートジャパン)の会見に18歳の瀬尻稜とともに「期待の星」として引っ張り出され、居心地が悪そうな様子。目標を聞かれた瀬尻が、平沢勝栄会長(当時)の「金メダルって言って」を無視して「楽しみまーす」と言ったのが印象的だった。

 その直後、堀米をインタビューする機会に恵まれた。五輪への具体的な思いなどあるはずもなく、逆に「どんな大会ですか?」「ドーピングって何ですか?」と質問責めにあった。常に滞在場所を知らせるなど詳細を話すと、しばらく考えて「じゃあ、いいです。オリンピックは」という言葉が返ってきた。

 当時、堀米の頭にあったのは「アメリカで滑りたい」だった。日本のスケーターにとって、米国は目標であり、遠い場所。Xゲームやストリートリーグは招待大会で、そこに入るのが大変だった。「タンパアマ」というアマチュア最高峰の大会で活躍し、招待を受けるのが最短。だから、目指すのは五輪ではなく「タンパアマ」だった。

 それまでも米国で活躍し、認められた日本人スケーターはいたが、若いスケーターにとって本場の壁は高かった。瀬尻らも米国で実績は積んでいたが、大きなコンテスト(大会)で活躍することは難しかった。「どうすれば本場のプロスケーターに仲間入りができるのか」が五輪競技になる前の日本人スケーターの思いだった。

 少年時代の堀米にほれ込み、米国で活躍する道を模索したのが日本代表コーチを務める早川大輔氏。「雄斗を米国で成功させることしか頭になかった。そのための道ばかりを考えていた」と話した。高校生の堀米を連れて米国に渡り、コンテスト参加の道筋をつけた。

 17年にストリートリーグで準優勝すると、18年には日本人スケーターの「夢」でもあったストリートリーグ初優勝。憧れだったヒューストンと肩を並べ、プロスケーターとして認められた。かつては「別にいいです」と言った五輪だが、東京大会で金メダルを獲得すると、その影響力や発信力に驚き、魅力も感じて本気で連覇を目指した。

■9年前の言葉を五輪で実行「誰もやっていないヤバいトリックを決めたい」

 ケガや予選での不振、さらに本番でも追い込まれながら「最後まであきらめずに」大逆転の金メダル。「こうなりたい」という明確な目標を立て、それに全力で向かう姿勢は「アメリカで滑りたい」と言った16歳の時と何も変わらない。自身のスケート人生をかけて堀米をサポートしてきた早川コーチとの抱擁に、心を揺さぶられた。

 ただ、堀米自身はあくまでも「二刀流」を捨てない。「コンテストだけでなく、ストリート(街中でのビデオパート)も大事。両方やっていきたい」と話す。ヒューストンらが自己表現のために入れるタトゥーは「あまり好きじゃないから」というが「音楽も、ファッションも、大切。そのすべてがスケートボードなので」とも話す。

 同い年で仲のいいスノーボードの平野歩夢が、五輪で活躍しながらバックカントリーでのビデオ撮影にも力を入れるのと同じ。五輪もストリートも全力で向き合う。だからこそ、堀米は魅力的だし、日本人はもちろん海外のスケーターたちからもリスペクトされる。

 本場のシーンが日本人スケーターに対してオープンでなかった時代に自らの力で固い扉をこじあけた堀米。9年前の「誰もやっていないヤバいトリックを決めたい」という言葉通りに、最後の1本で圧倒的なトリックを決めて頂点に立った。(荻島 弘一 / Hirokazu Ogishima)

荻島 弘一
1960年生まれ。大学卒業後、日刊スポーツ新聞社に入社。スポーツ部記者としてサッカーや水泳、柔道など五輪競技を担当。同部デスク、出版社編集長を経て、06年から編集委員として現場に復帰する。山下・斉藤時代の柔道から五輪新競技のブレイキンまで、昭和、平成、令和と長年に渡って幅広くスポーツの現場を取材した。

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