フランスはなぜ柔道大国になったのか 普及の裏に一人の日本人…「これが柔道なのか」衝撃だった稽古初日
THE ANSWER / 2024年7月31日 16時13分
■フランスで「日本の柔道」の普及に貢献した安部一郎十段の生涯
パリ五輪の柔道競技で、地元フランスの熱気が盛り上げに一役買っている。柔道人口は53万人で、柔道に理解がある国民が多いためだ。女子52キロ級2回戦で敗れて号泣した阿部詩への「ウタ!」コールは、柔道母国へのリスペクトの表れだった。30日時点でフランスのメダル獲得数は計6個。開会式で聖火最終走者を務めた男子100キロ超級のテディ・リネールを擁し、8月3日に行われる混合団体では東京五輪に続く連覇を狙っている。フランスはなぜこれほどまでの柔道大国になったのか。そこには、戦後フランスで柔道の普及に尽力した日本人柔道家の存在があった。(取材・文=水沼 一夫)
◇ ◇ ◇
フランスと柔道の出会いは、今から100年前の1924年にさかのぼる。会田彦一や石黒敬七がフランスを訪れ、石黒はパリのモンパルナス地区に道場を開設。パリ留学中の芸術家・岡本太郎も柔道着を着て、稽古に参加していた。
その後、本格的に柔道を紹介した人物としては、「フランス柔道の父」と呼ばれる川石酒造之助(みきのすけ)が有名だ。35年からフランスで指導を始め、「川石メソッド」(川石式柔道)と呼ばれる独自の教授法を確立。国際柔道連盟(IJF)は、「川石メソッドは、欧州とフランスの影響を受けた国々で非常に成功」とその功績を称えている。
一方で、「日本の柔道」という点での普及には、安部一郎十段(2022年、99歳で逝去)の貢献を挙げる声が多い。柔道の総本山・講道館で安部のそばで30年近く勤務した技術専門官の津村弘三氏は、「川石さんがフランスに柔道を紹介したとすれば、正しい柔道の教育をしたのが安部先生」と語る。
川石メソッドは日本語の分からないフランス人に受け入れやすいよう、色帯制度の導入や、技の名前を番号で呼ぶなど簡略化を進めたものだった。
「川石さんは、いろんな工夫をされたんですね。まず修行生たちのモチベーションを維持するために色帯を作った。白帯、黒帯、紅白帯、赤帯しかなかったのを、黒帯に達する以前の各級にいろんな色を割り当ててやるということを始めたわけですね。次の目標をはっきりと定めさせて、柔道修行の意欲を維持させるために、そういう色帯制度を導入しました。
もう一つの工夫は技を番号で呼んだことです。手技、足技、腰技それぞれに番号を振った。柔道には技がいっぱいありますけども、背負い投げや大外刈りなどの日本語を全部覚えていったら、発音するのも難しいし、それが一つの壁になって勉強しにくいということで、技に番号を振ったんですね。足技1番とか、手技3番とかですね。そういう指導をされていたのが、川石式柔道と呼ばれているわけです」
この川石メソッドが、安部の運命を決める。
弟子のフランス画家、ピエール・ルッセル(講道館柔道四段)による安部をモデルにしたリトグラフ【写真:田中博子さん提供】
■「川石式柔道というのは本物の柔道じゃないんじゃないか」
当時六段の安部が、講道館からフランス行きを指示されたのは1951年のことだった。
秋田出身の安部は群馬県立前橋中学(現・前橋高校)で柔道に出会うとすぐにのめり込み、41年、東京高等師範学校(現・筑波大)に進学。兵役を免除される立場だったものの、学徒動員により仲間が次々と戦地へ飛び立つ姿を見て、自らも兵役を志願。陸軍特別操縦見習士官となり、朝鮮に配属され、パイロットとして特攻隊の訓練を受けていたことを明かしている。
終戦後、講道館の南郷次郎館長(当時)の秘書を務めたが、1年あまりで退職。大阪で教員となったものの、米軍統治下で学校で柔道を教えることは禁じられていたため、町道場に通って鍛錬し、大会に出場していた。
「道場の試合なんか出ると、破格に強いわけですよね」
安部の強さは堺市警察署長の目に留まり、警察本部に招かれ、柔道指導者となる。安部が講道館から渡仏を打診されたのは、ちょうどこの頃だった。
その舞台裏について、津村氏は川石メソッドがきっかけだったと明かす。
「川石式柔道がフランスで盛んに行われるようになったのですが、フランス人から『川石式柔道というのは本物の柔道じゃないんじゃないか』という疑問が起こってくるわけなんですね。というのは、技の名称を簡単にしたと同時に、川石さんはあまり難しい理論の説明はしなかったようなんですね」
どういうことなのだろうか。
「柔道では『崩し』『作り』『掛け』と言って、その順番で相手を崩して、相手と自分の体を作って、そして技を掛けるという3段階で指導する。特に相手を作り自分を作る、技を掛ける体勢を作るということが柔道では大事だと指導されていたんですけども、そういった難しいことを教えるより、まず掛け、すなわち形を覚えさせたほうが興味を持つだろうという考え方から、川石さんはもっぱらその難しい理論の部分を教えないで、形だけを教えていたようなんです。で、目の高いフランス人からすると、どうもこれは本当の柔道じゃないぞ……ということで、本当の柔道を習いたいという人たちがいて、講道館に誰か指導者を送ってほしいと依頼があったわけです」
講道館に日本の柔道家の派遣を求めたのは、パリから遠く離れたトゥールーズの修道館柔道クラブだった。講道館で人選した結果、安部に白羽の矢が立ったというわけだ。
1951年、フランス・トゥールーズ修道館柔道クラブ師範に就任【写真:田中博子さん提供】
■教会に部屋を間借り、「漢字」に夢中になったフランス人
1か月の船旅の末、フランスに着き、道場で練習を見た安部は驚愕したという。
「まずフランス人の柔道、いわゆる川石メソッド式柔道を見てびっくりしたそうです。『これが柔道なのか』と。はっきり言って、美しいもんじゃなかったというふうに安部先生は話していました」
危機感を覚えた安部は、日本の柔道を一から指導することを決意。教会に部屋を間借りし、語学学校に通いながら、フランス人に柔道を教えることに明け暮れた。
川石メソッドでは躊躇された技の名前も、安部は日本語で教えた。すると、フランス人からは意外な反応があった。
「川石さんが杞憂したように、技を覚えられない、技の名前を覚えられないどころか、そこに興味を持った。技にそれぞれ名前があって、それぞれの名前に意味があるんだということに、フランス人はすごく興味を持った。例えば、この技は出足払いっていうんだよ。出足というのは、足が出てくるという意味だよ。それを払うということだよと教えて。字に意味があることが、彼らにはピンとこない。彼らにとって漢字は、すごくミステリアスなオリエンタルマジックなんですよね。そこをくすぐられたようです」
欧州滞在中の写真には、ボードに「KATAMEWAZA」「KATA」と書き、日本語で「肩」「型」「方」「端」と漢字を説明する安部の姿が残っている。
漢字や日本語を教えながら、日本の文化として、柔道を紹介する安部の指導法はやがてフランス中に知れ渡っていく。
「南フランスで柔道を指導し始めましたら、パリの人たちも、なんか南のほうで本格的な柔道を教えてくれる先生がいるらしいよという評判が上がってですね。週末になると、パリからわざわざトゥールーズまで来て安部先生の指導を受けるなんていう人たちも現れてきたようですね」
外国での講習会では「肩」「型」「方」「端」と漢字で説明した【写真:田中博子さん提供】
■ベルギー代表監督、ヨーロッパ柔道連盟の技術顧問に就任
川石メソッドか安部の柔道か――。急速に市民権を得ていったのは、安部の柔道だった。
「一時は川石さんも一緒にやろうよと動いたみたいなんですけど、安部先生は川石式柔道というのはやはり、正しい柔道ではないということで、それはお断りして、一緒にならないでトゥールーズでずっと指導していました」
南西部の小さな都市を起点に、安部を信奉する弟子が増えていく。
「この安部ファンが、のちにフランスアマチュア講道館柔道連合というのを、昭和29年(1954年)に興すわけなんですよね。フランスの中に本来あった(旧)フランス柔道連盟と2つの組織が生まれた。2つの組織があるのは良くないということで、フランス政府が仲介に入って一緒になれと言ったんです。一緒になったら運営費の補助をフランス政府から払おうと。そういう条件で一緒になって、今のフランス柔道連盟ができました」
一方で、安部を悩ませていたのは報酬額の低さだった。学生という身分もあり、質素な最低限の生活を送っていた。安部は弟子たちの計らいもあり、渡仏から2年後、ベルギー代表の監督に就任する。
「当時は柔道だけに限らず、スポーツをやっている人はそれなりの立場の人たちが多いですから。会計士の弟子や弁護士の弟子がいたりなんかして、その人たちが力を合わせて、安部さんにもうちょっといい待遇を与えたいということで、ベルギーのナショナルコーチになったらどうだという話になって、何倍ものお給料がもらえる待遇でベルギーのナショナルコーチになるんですね」
フランスとベルギーは隣国同士。安部はベルギーの柔道家を育成しながら、フランスを含めた欧州全体に日本の柔道を広めていった。
「ベルギーも当時は川石メソッドの指導だったんですけど、それは一切やめて、講道館式の指導法をベルギーで始めるわけなんですね。そうしたら、そういう指導のシステムとか安部先生の指導の素晴らしさがヨーロッパで評判になってですね、これはベルギーだけじゃなくてヨーロッパ全土を見てもらおうということで、今のヨーロッパ柔道連盟の技術顧問に就任したのです」
2019年、講道館寒稽古で上村春樹講道館長(左)と並んで撮影された1枚【写真:講道館提供】
■最大の功績は審判用語の統一「どうだい、日本語でやってみたら?」
安部の柔道に置き換えられた川石メソッドは、やがて姿を消していく。「だから川石さんが略式の柔道を教えたというのを批判する人もいるんですけども、最初はしょうがなかったんですよね。難しいこと言っても離れていっちゃったらしょうがないから、まず形を覚えさせようということで」と、津村氏は付け加えた。
その後、安部は国際大会の審判用語を「一本」「技あり」などの「日本語」に統一するという大仕事を果たす。当時は大会ごとに主催する国の母国語が使われていた(英語なら「一本」は「フルポイント」などと訳された)。
「技術顧問になって、ヨーロッパ柔道選手権の運営の助言をしていたわけなんですけども、1回目がロンドン。2回目、3回目はパリで行われた。1回目は英語でやって、2回目、3回目はフランス語で審判をやったんですね。4回目をベルギーのブリュッセルでやることになって、その時にヨーロッパ柔道連盟の技術会議で、次の4回目の審判用語を何語にしようかってことで揉めたんだそうです。英語とフランス語の真っ向対立で。真っ向から対立してみんなで言い合っている時に、安部先生は『しめた』と思ったというんですよね」
丁々発止の綱引きを見て、安部は提案する。
「『英語とフランス語で揉めるくらいだったら、今回はどうだい、日本語でやってみたら?』というふうにアドバイスしたんです」
以後、柔道の大会の審判用語は、日本語が使用されることになった。
1950年代にフランスで起きていた柔道ブーム。そこに安部が与えた影響について津村氏は、こう結論づける。
「本物を見せたということでしょうね。これまでフランスで名を馳せた選手。古く言えば、アンジェロ・パリジ(1980年モスクワ五輪金メダル)。それから、ジャンルック・ルージェ(フランス柔道連盟前会長)とかですね。そのあたりの人たちは柔道がすごくきれいですよね。やっぱり芸術の国ですからね。美を追求する、エステティックさを追求するっていう気持ちは高いんじゃないですか、フランスの人たちは。そこに影響を与えたのが、安部先生だと思いますね」
フランスの競技人口は53万人。黒帯を取得した柔道家は累計20万人を数える。安部が普及に心血を注いだ美しい柔道は、100年ぶりの開催となったパリ大会で、脈々と受け継がれていることを実証している。
■安部一郎(あべ・いちろう)
1922年11月12日、秋田県生まれ。群馬県立前橋中学校で柔道を始める。東京高等師範学校を卒業し、講道館秘書課、大阪での教職を経て51年渡仏。55年、欧州柔道連盟技術顧問に就任。69年帰国。元講道館国際部長、全日本柔道連盟理事、日本オリンピック委員会委員。2006年、十段に昇段。22年2月逝去。得意技はまわり込みの払い腰。安部の功績を称え、今年3月に群馬県前橋市で「第1回 安部一郎十段杯争奪 中学柔道大会」が開催された。(THE ANSWER編集部 / クロスメディアチーム)
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