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敢えてネガティブに表現する魅力は「我慢」 柔道は人をどう育てるのか、減りゆく競技人口への危惧――柔道・大野将平

THE ANSWER / 2024年8月3日 11時44分

リオ、東京五輪金メダリストの大野将平が考える「柔道が人を育てること」【写真:Getty Images】

■「シン・オリンピックのミカタ」#49 連載「私のスポーツは人をどう育てるのか」第3回

 スポーツ文化・育成&総合ニュースサイト「THE ANSWER」はパリ五輪期間中、「シン・オリンピックのミカタ」と題した特集を連日展開。これまでの五輪で好評だった「オリンピックのミカタ」をスケールアップさせ、大のスポーツファンも、4年に一度だけスポーツを観る人も、五輪をもっと楽しみ、もっと学べる“見方”をさまざまな角度から伝えていく。「社会の縮図」とも言われるスポーツの魅力や価値が社会に根付き、スポーツの未来がより明るくなることを願って――。

 今回は連載「私のスポーツは人をどう育てるのか」。現役アスリートやOB・OG、指導者、学者などが登場し、少子化が進む中で求められるスポーツ普及を考え、それぞれ打ち込んできた競技が教育や人格形成にもたらすものを語る。第3回はリオ五輪、東京五輪の柔道73キロ級金メダリスト・大野将平が登場する。

 一点の死角すらない大野将平の柔道には、心憎いまでの気高さがあった。彼は引退ではなく、競技生活にひと区切りをつけて昨夏より日本オリンピック委員会のスポーツ指導者海外研修事業を利用してイギリス・スコットランドに渡り、コーチング修行、語学習得に励んでいる。柔道家として競技にすべてを注ぎ込んできた生活から離れ、スポーツ文化が根づく欧州での生活において何を思い、何を感じているのか。柔道の未来を語ってもらった。(取材・構成=二宮 寿朗)

 ◇ ◇ ◇

 柔道の魅力は何か。そういう質問をよく受けます。

 競技面で言えば、私の答えは決まってこうです。それは、投げること。子どものころ柔道を始めたときに人を投げる競技の楽しさを感じて以来、ずっと柔道に向き合い続けることになったわけですから。

 柔道は我慢の競技だと言えます。組手争い一つ取っても指がちぎれるほどに痛く、相手との我慢勝負に勝たなくてはなりません。一つでも妥協してしまったら「死」を招いてしまいます。柔道のルーツをたどっていけば、武士が刀で戦えないときに締め技、関節技を使ったとされる柔術、武術があります。つまり死と隣り合わせであり、投げられて一本で負けることはすなわち「死」を意味します。

 我慢の類義語として忍耐という言葉もありますが、それだとちょっと格好がいい。私は、敢えてこの「我慢」というネガティブな表現が好きで、まさに柔道にピタリ当てはまると感じています。

 我慢は、自分に無理をさせるということでもあります。自分に無理を強制することを良しとする主旨ではなく、何が言いたいかと言えば日頃の稽古においても我慢の先に自分の限界を超えることにつながるということです。

 選手時代、トレーナーさんとの合言葉は「ギリギリを攻める」でした。そのラインを超えすぎてしまうと体が壊れてしまう。だけどちょっとだけ超えることはできる。日々、限界を一歩超えることがいわゆる成長だと私は感じていました。そのギリギリのラインを見極めつつ我慢して限界の先を追い求め、苦しいなかでも成長していけるのが自分における稽古のイメージですし、私自身それが柔道の魅力ではないかと思っています。


伝統、歴史を継承する一方で「生涯スポーツとしての楽しさ」が求められる【写真:Getty Images】

■伝統、歴史を継承する一方で求められる「生涯スポーツとしての楽しさ」

 リオ五輪が終わって1年ほど競技から離れ、(天理大学)大学院の修士論文を書くにあたって嘉納治五郎先生、岡野功先生らの文献を読み、畳、道場ではなく机に向かって柔道を学ぶ貴重な時間がありました。私自身、講道学舎、天理大学といった伝統を重んじる環境、そこで学んできたスタイル、精神性というものは自分が追求していく道だと再確認できましたし、だからこそ東京五輪で金メダルを獲る大義も見つかりました。

 自分の心と体を削りながら、そういったものを燃料にしながら、もはや自分に削るものがないくらい柔道に懸けていました。それが良かったか悪かったかは分からないですし、だからこれからの選手たちに、それくらいの覚悟で戦え、などと自分の口からは言えません。ただはっきりと言えるのは、我慢というものが自分に形成され、今後の人生においてどんなことがあろうとも我慢しながら成し遂げていくという作業ができる、強くて深い自信につながっているのかなとは思います。

 しかしながらこれからの時代、私のような考えを持って柔道に打ち込む、そのハードルの高さは理解しているつもりです。

 伝統、歴史をきちんと継承していくことはもちろん大切です。その一方で欧州に来て感じているように生涯スポーツとして楽しくやるということも抜け落ちてはならないとも感じています。

 柔道に対して敷居を高く感じる人は多いかもしれません。やはり入り口をどうしていくか。子どもから大人まで習いやすいような環境づくりというものを業界全体で考えていく必要があると感じています。
 
 その意味でも役割分担が重要になってくるのではないでしょうか。
 
 柔道としっかり向き合う伝統的な道場がなくてはならない一方で、たとえば健康を目的に柔道をエクササイズとしてやる道場があればいい。両方を網羅できる道場というのはなかなか難しいと思うので、いろんな先生が知恵を絞りながら役割分担していかないとこの日本において柔道人口が減少していくばかりではないだろうかと危惧を覚えています。

 昨年、全日本ジュニアの選手たちとオンラインで話をする機会がありました。私のほうからも、柔道をやっていることの良さについて質問したところ、大体が「礼に始まって礼に終わる」「礼儀正しくなる」などといった回答でした。もちろんその良さはあるにしても、柔道の“専売特許”ではないように思います。

 柔道の教育的側面も考えていく必要もあるでしょう。自分の競技力が上がっていけばいくほど、私のように楽しさからかけ離れてしまってもおかしくありません。もし競技力だけを追い求めてしまうと、人間力の育成がおろそかになってしまうところもあります。こういったことも含めて、バランスを良くしていくことがとても大切だと考えます。

■大野が考える柔道界への貢献のカタチ

 これから私はどのように柔道界に貢献していけばいいか。自分のなかで考えているのは、「柔道から離れないこと」です。この世界で何かを成し遂げたい、指導者になってこうしたいなどと大義みたいなものは正直持っていません。

 スコットランドに来たときと同じように、何かしなければならないと肩に力を入れた使命感を持ってしまうと、空回りしてうまくいかないことはここで学びました。

 ちょっと冷めたことを言うようですが、東京五輪で金メダルを獲った感動だとか、そういった感情の高ぶりというものは、私の今後の人生においてあれ以上のことは二度と起こり得ない。何が言いたいかと言うと、自分の人生におけるピークは終わっているわけです。だからこそ背伸びせず、等身大の自分でやれることを考えていきたい。ほかの誰かを、サポートして成功体験と言いますか、心が動くようなものっていうのを味わってもらえるようにしていく作業が多くなるんじゃないかと勝手に想像しています。

 柔道に育ててもらった人間として、ちゃんと水が流れているところに自分がいることが一番の恩返しになるんじゃないかと思っています。(二宮 寿朗 / Toshio Ninomiya)

二宮 寿朗
1972年生まれ、愛媛県出身。日本大学法学部卒業後、スポーツニッポン新聞社に入社。2006年に退社後、「Number」編集部を経て独立した。サッカーをはじめ格闘技やボクシング、ラグビーなどを追い、インタビューでは取材対象者と信頼関係を築きながら内面に鋭く迫る。著書に『松田直樹を忘れない』(三栄書房)などがある。

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