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「2人で1つ」として戦うスポーツの尊さ 結成11年、一心同体で“最適解”を探るペア種目の精神――バドミントン・福島由紀

THE ANSWER / 2024年8月4日 10時44分

廣田彩花(左)と結成11年で福島由紀が知ったのペア競技の尊さ【写真:Getty Images】

■「シン・オリンピックのミカタ」#54 連載「私のスポーツは人をどう育てるのか」第4回

 スポーツ文化・育成&総合ニュースサイト「THE ANSWER」はパリ五輪期間中、「シン・オリンピックのミカタ」と題した特集を連日展開。これまでの五輪で好評だった「オリンピックのミカタ」をスケールアップさせ、大のスポーツファンも、4年に一度だけスポーツを観る人も、五輪をもっと楽しみ、もっと学べる“見方”をさまざまな角度から伝えていく。「社会の縮図」とも言われるスポーツの魅力や価値が社会に根付き、スポーツの未来がより明るくなることを願って――。

 今回は連載「私のスポーツは人をどう育てるのか」。現役アスリートやOB・OG、指導者、学者などが登場し、少子化が進む中で求められるスポーツ普及を考え、それぞれ打ち込んできた競技が教育や人格形成においてもたらすものを語る。第3回はパリ五輪出場を目指したバドミントン女子ダブルスの福島由紀。廣田彩花との“フクヒロペア”で2021年東京五輪に続く2大会連続出場と金メダル獲得を目標にしながら、昨年末に廣田が負傷した影響もあり、その夢は達成できなかった。しかし苦しい戦いだったからこそ、気づかされたことがある。ダブルスの道を選び、1人の人間として育まれたものを語った。(取材・文=藤井 雅彦)

 ◇ ◇ ◇

 福島由紀は今年5月で31歳になった。バドミントン選手としてはベテランの域に入りつつあるが、それでも技術はそうそう錆びないし、経験に裏打ちされた予測や判断には磨きがかかる。

 今夏のパリ五輪出場という目標は達成できなかった。4月に最後の試合が終わり、本大会に出場できない現実を突き付けられた際には喪失感を味わったが、それでも「バドミントンが好き」「もっと強くなりたい」という子どもの頃から抱き続ける想いは一つも変わらない。

 バドミントンを始めたのは、小学3年生の時だった。きっかけは6歳上の姉がバドミントンをやっていたから、ではない。

「田舎に住んでいて、小学校は野球部とバドミントン部しかありませんでした。もともとスポーツをやるつもりもなくて、運動といっても外で友だちとワイワイしていただけ。それを見かねた母が、勉強もしないで遊んでいるくらいならスポーツをやりなさい、と。女子が野球をやるイメージはなかったので、やるならバドミントンになりました。やろうというよりも、入れられた感じです(笑)」

 中学時代から全国大会に出場し、高校はバドミントンの強豪校である青森山田へ親元を離れて進学。多くのタイトルを獲得しながら2011年に世代別代表に選出されると、社会人2年目の2013年には廣田彩花とペアを結成。ダブルスの選手として、階段を一段ずつ上がっていった。

「フクヒロペア」の愛称で親しまれた2人の共闘は、紆余曲折とも波乱万丈とも形容できる。一度はペアを解散し、お互いに自分と見つめ合った過去を持つ。世界ランキング1位で迎えた21年東京五輪は、大会直前に廣田が前十字靭帯断裂の大怪我を負った影響もあってベスト8に終わった。捲土重来を期すはずだったパリ五輪も、レース途中に廣田が今度は逆足の前十字靭帯を断裂するアクシデントに見舞われて苦しい戦いを余儀なくされた。


一心同体でプレーする競技で育まれたものとは【写真:Getty Images】

■ダブルスを戦い、身につけられた感覚

 もともとはシングルスプレーヤーだが、あくまでもダブルスにこだわった。自分に足りない部分を伸ばしてくれる競技性に惹かれたからだ。

「最初はかなり難しかったですね。1人で戦うのと違ってコミュニケーションを取らないといけませんし、2人で作戦を立てないといけない。そこはかなり苦労しました。でも2人でやっているからこそ、成長できたこともたくさんある。人と人なので、もちろんプレーに関して意見が食い違う時もあるし、考えていることも違う。そうしたなかで同じ目標に2人で向かっていく時に、自分の意見だけを押し通すのではなく、相手の視点からも物事を考え、最適な方法を見つけていく感覚を身につけられたように感じています」

 元来、他人とのコミュニケーションが得意というわけではない。だから想像力を働かせた。コートの外では監督やコーチといったスタッフがいても、コートの中では2人きり。大切にしたのは「自分が良ければいいというわけではない」。あくまでも2人で1つ。まず心が合わさっていないと上は目指せない。

 覚悟を決めた瞬間がある。

「ペアを結成してから、結果はちょこちょこ出ていたかもしれません。でも、実際にはそんなに自信もなかったし、周りに引っ張られて、お尻を叩かれて、ようやく戦っていたのが最初の数年でした。言葉では『五輪を目指す』と言っていたけど、本心では半信半疑な部分があった。たぶんアバウトだったんです、当時は。覚悟が足りなかった。

 変わったのは、2016年だと思います。リオ五輪で高橋礼華さんと松友美佐紀さんの『タカマツペア』が金メダルを獲った頃の話です。その少し前の試合で私たちのペアもいいゲームができていて、スタッフに『福島と廣田にもできるよ』と声をかけられました。そこからは明確に五輪を目指す方向にシフトチェンジしました。そうしたら2017年からA代表に入れて、ようやくスタートした感覚です」

 それ以降、フクヒロペアとしてたくさんの歓喜と感動を届けてきた。そして幾度となく訪れた試練や挫折が、彼女たちのドラマをさらに密度の濃いものにしていく。

■フクヒロとして到達した一心同体の境地

 パリ五輪を目指した長い戦いを終えた今、福島は改めて言う。

「廣田がいなければ、ここまできていません。もしかしたら、バドミントンをやめていたかもしれない」

 ペアを組み、世界トップレベルで戦ってきたからこそ、バドミントンというスポーツが持つ奥深さに触れることができた。11年間共闘した廣田との関係を「一心同体」と表現した言葉の裏には、ダブルスを主戦場に夢中で駆け抜けてきた日々への、さまざまな想いが去来しているように見えた。

 そんな福島は、五輪開催地パリから約9600キロ、所属チームの拠点がある岐阜で仲間たちと新たな一歩を踏み出している。

「毎日が楽しいですし、充実しています。物足りなさも少しだけありますけど……」と本音もわずかに覗かせながら、「7月や8月は時間があるので、しっかりとプレーできる体を作って、9月の試合に向けて準備したい」と意気込む。その表情からは五輪出場を逃したからといって、“何のためにコートに立つのか”などと自問自答するような素振りは一切感じられない。

 誰よりもバドミントンに純粋な心で向き合ってきた福島は、これからもダブルスの戦いのなかに身を投じるつもりだ。たとえ2人の意見が食い違うことがあっても、コートに立てば勝利という共通の目標を目指し、力を1つに合わせて“最適解”を探る。フクヒロペアでそうしてきたように、お互いが足りないものを補い合いながら、一心同体になって挑戦を続けていく。(藤井雅彦 / Masahiko Fujii)

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