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「僕は競技場で生存を賭けていた」 皿洗いバイト、奨学金…出場を逃せば次はない「これも五輪のリアル」――陸上・末續慎吾

THE ANSWER / 2024年8月6日 14時33分

2003年世界陸上200メートルで銅メダルを獲得し、日の丸を掲げる末續慎吾【写真:Getty Images】

■「シン・オリンピックのミカタ」#64 連載「あのオリンピック選手は今」第3回

 スポーツ文化・育成&総合ニュースサイト「THE ANSWER」はパリ五輪期間中、「シン・オリンピックのミカタ」と題した特集を連日展開。これまでの五輪で好評だった「オリンピックのミカタ」をスケールアップさせ、大のスポーツファンも、4年に一度だけスポーツを観る人も、五輪をもっと楽しみ、もっと学べる“見方”をさまざまな角度から伝えていく。「社会の縮図」とも言われるスポーツの魅力や価値が社会に根付き、スポーツの未来がより明るくなることを願って――。

 五輪はこれまで数々の名場面を生んできた。日本人の記憶に今も深く刻まれるメダル獲得の瞬間や名言の主人公となったアスリートたちは、その後どのようなキャリアを歩んできたのか。連載「あのオリンピック選手は今」第3回は、2008年北京五輪の男子4×100メートルリレーで第2走者を務め、銀メダルを獲得した末續慎吾。日本史上初めてリレー種目でのメダリストの1人となったが、その受け止め方は過熱する周囲の喧騒とは異なるものだった。44歳となった今も現役を貫く、稀代のスプリンターの美学に迫った。(取材・文=藤井 雅彦)

 ◇ ◇ ◇

 末續慎吾は2003年世界陸上パリ大会の男子200メートルで決勝に進出し、20秒38で銅メダルに輝いた。世界陸上において、日本人がこの種目のメダルを獲得したのは史上初の快挙である。

 2001年エドモントン大会に続く2度目の世界陸上挑戦だった。一度は跳ね返された世界の壁をぶち壊した瞬間、自分のことを少しだけ認められるようになった。

「僕はもともと中高生の時、エリート街道を歩んでいたタイプではありません。大学や社会人になってからグッと伸びたタイプ。それに速かったかもしれないけど、日本で速かっただけ。世界に出ると、自分は足が遅かった。でも、もう一度挑んだパリ大会でメダルを獲った時に初めて『オレって速いのかな』と思うようになって。速さに対する水準がちょっとおかしいんでしょうね(苦笑)。きっと自分の中にクレイジーな領域があるんです」

 それまで自己肯定感を高くできなかった理由がある。

 高校時代に両親が離婚した。その翌年に父親が他界。次々とやってきた人生の転機を、思春期真っ只中の高校生が理解して消化するのは難しかった。

 一方で、経済面はリアルを突きつけられる。母親だけに頼るわけにもいかない。自身も収入を得なければ、競技を続けられない困難に直面してしまった。末續は文字通り、寝る間も惜しむ生活を始めた。

「何かしらサクセスなのか、突き抜けたものがないとサポートも入らない世の中と競技です。とにかく競技を続けるためにファミレスの皿洗いで夜中3時くらいまでアルバイトをして、6時に起きて走りました。それを約半年間続けたけど、どんなに若くても眠らないのは体に悪いのは当たり前で、何度も体調を崩した。それ以降は奨学金制度や先輩にお世話になりながら、ぎりぎりのやり繰りで五輪の選考にこぎつけました。苦しくはなかったです。必死でした。苦しいと感じるものは質が違う。その時はとにかく必死で、考える余裕もなかった」

 20歳になった2000年、シドニー五輪に出場し、陸連強化指定選手となったことで競技生活の道が開けていく。

 子どもの頃、テレビのブラウン管の中にいたアスリートは輝いて見えた。その姿に憧れた。間違いなく夢舞台だった。

 自分も同じ場所に立ったけれど、意識はまったく違った。

「シドニー五輪の頃は、ただ生き抜くために走り抜いていた。なんとか現状を抜け出すために、その時の僕にとって五輪は手段だったのかもしれません。アウトローな位置付けで、綺麗なものじゃなかった。世の中の共通のアイコンである五輪に出場しなければ、次はない。これも五輪のリアル、競技者のリアルだと思います」


44歳になった今も現役で走り続けている【写真:(C)EAGLERUN】

■北京五輪で悲願のメダル獲得も…周囲とあった温度差

 その後、冒頭の2003年世界陸上パリ大会での銅メダル獲得で、末續は世界のリアルを感じ取る。翌年のアテネ五輪では男子4×100メートルリレーで4位入賞。五輪のメダル獲得に、あと一歩まで迫った。

 競技生活はすっかり軌道に乗っていた。だが、当時の自分を満足させるものは1つもなかったという。

「僕にとって走ることは生きるか、死ぬか。末續慎吾という己の看板があって、そこに人格や自我を超えた生き様を賭けて走っていました。勝ち負けやお金を超える自分の境地を賭けていたので、負けた時はとめどない人格否定になってしまう。負けてしまったら自分を破壊するつもりで走っていました。生きる価値がないと思ってしまう。

 妥協は許せないというか、勝負の場では1ミリたりとも許せなかった。だから負けませんでした。勝つことだけでなく、勝ち続けないとダメ。それくらいのところにいないと、この競技は維持できないとマインドセットしていて。負けることを許さない競技はそのあたりから始まった。あの頃、僕は競技場で生存を賭けていました」

 走らなければならない理由があった。

 3大会目は2008年の北京五輪。男子4×100メートルリレーで第2走者を務め、日本勢にとって悲願の銅メダルを獲得した(※後に銀メダルに繰り上げ)。それでも「獲っても変わらなかった」と声のトーンは変わらず落ち着いたままだ。

「経験を次の大会に生かすと言えるほどの未来はなかった。だから再挑戦が恥ずかしかった。モチベーションは必要ありませんでした。やらないと、勝たないと、続けられない。そうしたら自然と圧倒性が出てくる。そんな境地で走っている人間は周りにいなかったから。勝ち負けで喜ぶとか残念といった世界線で生きていない。メダルを獲っても、同じでした。チームとして戦う素晴らしさは後々感じましたし、協力とか協調性がないわけではない。ただ、その瞬間の僕はリレーメンバーの他3人とは明らかに違って、明確に温度差がありました。僕と彼らが考える普通が違うのは仕方のないことです」

 日本代表として陸上競技のリレー種目で史上初となるメダル獲得も、意に介さず「たいして嬉しくなかった」と言い切ってしまう。世界陸上だけでなく五輪でもメダルを獲得し、200メートルを20秒03で走った記録は現在もナショナルレコードとして記録されている。紛れもなく歴史に名を残したアスリートだ。

 周囲がメダリストに対して向ける目は、自然と変化していく。しかし、それさえも末續にとっては大きな意味を持たないものだった。

「その時の僕は自覚していなかったけれど、世界の舞台でメダルを2つ獲って、日本記録を樹立した。どれも客観的に見れば歴史的なことであって、8年間くらいは無敗の時代がありました。

 ただ、だからといって外に労いを求めるのは違って、それは周りに理解できるものではありません。承認欲求は自分よりも高いものを持っている人から承認された時に満たされるもの。そうなると僕は求めるところがない。ないがゆえに、苦しい。今、僕が20歳の自分に会えるのならば『キミを評価できる人はいないから、自分自身で評価しない』と伝えるでしょうね。

 メダルを獲っても、僕は何も変わりませんでした。でも、メダルという副産物に集まってくる人間や社会といった関係は変わっていきます。人気や影響はあったかもしれないけれど、非常に危険な場所にいたなと思います」


北京五輪のメダル獲得後に忘れられないシーンとは【写真:荒川祐史】

■9年後に変わったメダルの色「素直に喜べませんよ」

 3着入線で手にした北京五輪の銅メダルは、金メダルを獲得したジャマイカチームの選手のドーピング問題によって、9年後の2017年に銀メダルへ繰り上げとなった。しばらく自分の物として扱っていた銅メダルを返還し、新たに銀メダルが手元に届く。実感が湧かないメダルの色を見て、末續は虚無感に近い感覚に苛まれた。

「今は押し入れのどこかにしまっています。メダルの保管方法は人それぞれだと思いますが、僕にとっては途中で色が変わってしまうものでしかない。繰り上げは嬉しいのか、恥ずかしいのか、分からない。見たり触れたりする人が喜ぶのであれば、そうさせてあげたい。ただ自己完結の範囲で言うと、色が変わってしまったなとしか思えない。

 小学校の時に好きだった人がいて、30代になってから『実はあの時、好きだったの』と告白されてもね(苦笑)。それのもっと衝撃的な感覚で、約10年前にドーピングしていたから銀メダルに繰り上げになっても、素直に喜べませんよ。銅メダルの時は、例えば講演会に持っていくのを忘れることはなかった。でも銀メダルになってからは、どこに置いたのか忘れることがあります」

 五輪も、メダルも、価値は人によって千差万別だ。正解を1つに絞るのは難しい。

 忘れられないワンシーンが、メダル獲得のレース後にあった。

「日本チームが喜んでいるすぐ近くで、ウサイン・ボルトが胸に3つの金メダルをぶら下げて、ガッチャンガッチャンと音を立ててぶつかっているわけです。邪魔だな、くらいの雰囲気でね(苦笑)。それを見た時に、この人は金メダルをあまり貴重だと思っていないんだぁと感じました。簡単に獲れてしまう人にとっては、その程度の価値なわけです。

 五輪はアマチュアスポーツの祭典で現役選手が目指す1つの到達点だけど、その後の目標や目的が見えてくる大会でもある。メダルを獲ったからこそ言える次元の話ですが、そういった観点からすると自分は3大会もかかってしまったという感覚しかありません」

 走ることの意味や目的も考えずに、無我夢中でトラックを駆け抜けた。

 五輪もメダルも、彼にとってのゴールテープにはならなかった。

 それが日本陸上競技史に名を刻んだスプリンターの生き様だ。

(続く)

■末續 慎吾 / Shingo Suetsugu

 1980年6月2日生まれ、熊本県出身。九州学院高時代から全国にその名を轟かせると、東海大在学時の2000年シドニー大会で五輪初出場。03年6月の日本選手権男子200メートルで現在も破られていない20秒03の日本記録を叩き出すと、同年8月に開催された世界陸上パリ大会の同種目で3位となり、五輪・世界陸上を通じて日本短距離界初となるメダルを獲得した。3度目の五輪となった08年北京大会では、男子4×100メートルリレーで第2走者を務めて銀メダル獲得に貢献。15年にプロ転向。44歳となった現在も現役ランナーとして競技を続けており、100メートル10秒台をキープしている現役スプリンターでもある。18年に設立した「EAGLERUN」を通じて後進の育成やスポーツの普及に努めている。(藤井雅彦 / Masahiko Fujii)

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